これからもよろしく、黄姐
「翠朱も慕われた物だ。翠朱、小馨様のお心は決して忘れてはいけない。
さて、小馨さま。矛盾する様ですが、それは人の上に有る者は、絶対に忘れてはならない心使いです。その一点でも、小馨様は主の資格は有ります」
「うん?」
「ただ、主たる者は甘えは許されないのです。忠実な部下、従者、識者、知恵者。頼りにし、手助けさせる事は良いのです、甘えさえしなければ」
「よく分からない、頼ったり手伝って貰う事は、甘える事とは違うの?」
「全く違います。主の為に全力を尽くすのが、従者の務め。主の為にならない、なれないならば従者でいる意味がありません」
「やっぱり分からない。わたしの為に働いてくれるのなら、もっと仲良くなりたい、粗略にしたくない」
「はは、小馨様。何も呼び捨てる事は粗略にしている訳ではありませんよ、怒鳴りつける訳ではないでしょうに。
逆ですよ、逆。そうですな、小馨様は大層遨老師を慕っていると聞きましたが、普段遨老師は小馨様を何とお呼びしますか?」
「小馨と」
「あの老師の事だから、小馨様の目を真っ直ぐ見て、悪戯小僧の様な目をしながら、名を呼び捨てるのでしょう。もし、遨老師から小馨嬢、小馨殿、小馨様などと呼ばれたら、小馨様はどう思われますか」
「嫌だ!他人行儀は嫌だ!………そうか、そうだったのか」
「はい、敬称など必要ない程の親愛の現れなのですよ。取敢えず、呼び捨ては即ち粗略ではない事とお分かり頂けましたね」
「うん、凄く分かった。でも、黄姐の事は黄姐と呼びたい。黄姐は大好きだ、親愛と言ったっけ、その親愛を込めて姐と呼びたい」
「喜喜それもまた善し。小馨様、そのお心が有る限り、翠朱は小馨様にお仕えするでしょう」
「小馨様……」
「さて、話を戻しましょう。人の上に有る者が、配下に阿り、また甘え、思考を放棄する事になったとします。下克上の危険は指摘しましたので、その他の実害を考えてください」
「……周囲が舐めて言うことを聞かなくなる?」
「それも有るでしょうが、大した実害では有りません、その様な者は解雇すれば良いのですから」
「……責任の丸投げ?」
「小馨様は聡明だ、正にその通りで、佞臣はどこにでもいて、暗君を待ち望んでいるのです。自己を利する言いなりになる主こそ、彼等の理想なのですよ」
「黄姐もそうだけど、母さまの周囲にはそんな人は居な……」
旱導師が思い浮かんだ。
「思い当たる事も有る様ですが、話を続けます。忠誠心から、結果的に主を誤らせる事もあります。また、発言力の強い側近その人を誘導する佞者も現れるでしょう」
わたしの為に、分かりやすい例えをしてくれる。わたしは頷いた。
「だから主たる者は、甘えてはならないのです。忠誠心故の行為だろうと、間接的に誘導されていただろうと、害が認められれば、その者を処分しなければならない。
仮に、翠朱が小馨様の為にと、重犯罪を犯したとします。罪科は明白であったとして、小馨様はどのような断を下しますか?」
「黄姐は悪い事なんてし……」
「いいえ、小馨様。小馨様の為にならない者は、私は全力で排除します。結果、その者が死亡しようが、それは仕方の無い事です」
黄姐が言葉を被せてくる、叔叔が続ける。
「小馨様、翠朱はこの様な娘です。さて、重罪を犯したとしても、小馨様には断を下す事は出来ないでしょう。二人のやり取りで分かります」
一言も無く黙り込んでしまった。その通りだ、わたしに黄姐を退けられる訳がない。
「だから、主たる者は甘えは許されないのです。甘えていると、思われてもならないのです。その結果、自身とその周囲を貶めてしまう事になりかねないのだから。
主とは、常に自らを律しなければならない。それを怠り、他者に制されてはならない。
遨家程の大家ならば、それは致命的失敗になりかねない。いや、その隙をつけ込んで、大事にする者も居るやも知れません」
「そんな……」
馬鹿なと良い掛けて、又も旱導師を思い出した。あんな化け物じみた善悪定かでない人物とも、遨家は付き合いがあるのだと。
母さまは、大好き以前に大恩が有る。わたしの言動で遨家を危うくする訳には、断じていかない。
ストンと黄叔叔の忠告が胸に入った。わたしは見よう見まねで覚えた、差手礼で叔叔に答える。
「有難う叔叔。目が覚めた、先日教わった“大義と小義を混同する愚行”をしていた。わたしは馬鹿だ。全然言葉の意味を理解しないで、分かった気でいた」
黄叔叔も差手で応礼する。幼児の形にも成っていない礼に、正式礼法で応じるのだから、黄叔叔も人物である、
元々黄姐の父親というので好意的では有ったが、この瞬間わたしは大好きになった。
「小馨様は本当に聡明だ。無知を知り、学ぶと云う事を学んだ。今の小馨様ならば、言葉の意味もお分かりでしょう。
紙面の文言を目でなぞる事が学ぶ事ではありません、知識の収拾と学問は別物です」
「うん、今なら分かる気がする。なぜ、名で、役職で呼べと言っていたのか。信頼とか情とかでなく、もっと高い所からの、別の問題だからそう呼びなさいと言っていたと分かった。
……でも、やはり黄姐は黄姐と呼びたいし、黄叔叔は黄叔叔と呼びたい」
「光栄ですな小馨様。儂にも娘同様に親愛情を掛けて下さるか。
小馨様、今の小馨様ならば大丈夫です。今まで通り、翠朱の事は“黄姐”と呼ばれなされ」
「うん?」
「主従間、君臣間に甘えが入る事の危うさを、小馨様は学ばれた。その上で従者に親愛を注がれるのです、本質を解されたのだから、問題はありますまい」
そう言って、叔叔は終礼を取ると、今度は黄姐に向き直った。
「黄侍女殿、貴女は誠に得難い主を得た。小馨様の心情は聞いての通りである。その上で問う、貴女は小馨様の親愛を受ける覚悟はあるか、三品官位、貴女の想像以上の重圧だ、小馨様は高位朝臣家の御養女に在られる、姐と慕われる貴女は周囲に注目される」
ハッとした。三品官位、わたしには関係の無い物と考えの外にあった。そういう考えも有るなど思ってもみなかった。
「私を甘く見ないでいただきたい。私は遨老師の最年少の直弟子であり、遨京馨様筆頭侍女であり、遨可馨様専属侍女でも有ったのです。遨家の重圧ならば、父様よりも知悉しています」
「黄姐……」
「小馨様、若年故の至らなさも有る事でしょうが、誠心誠意お仕えいたします。お見捨て無き事を」
そう言うと、黄姐は膝を着いた差手礼、最上位礼である差手跪礼を取った。
当然、当時のわたしに最上位礼の応礼など知り様もない。
だから感情のまま、黄姐に抱きついて言った。
「これからもよろしく、黄姐」




