私の最愛の主、私は命も惜しく無い
「お言葉に甘えます。…………私は今朝の暴動の時、小馨様の従者として随行していました。
小馨様は現在私の実家、……実家は版元なのですが、それとは別に父が学問所を運営していて、そちらの学問所に通われていた所を賊に襲われました」
「ははあ、それで黄出版所に遨家御当主様が居られたのですか。仁徳からの繋ぎでは商屋小通り黄出版所と有ったので、何の事と思いはしたので。
入れ違いでしたが、小馨様はご無事なのですな」
「当たり前だ徳。遨家御当主様がまだ冷静で有られた、小馨嬢に何か有ればあれだけでは済むまいよ、遨家御当主様には珍しくも小馨嬢に入れ込んで居られる御様子。
可馨嬢は残念な事で有った、遨家御当主様も相当堪えられた様でのう、闊達さが失せてもうた。
それが今日久々に……いや、久々でもないか……御目通りしたら見違えるような気魄で有られての、全て小馨嬢のお陰と知れたわい。
そのお嬢に手傷を負わされたとしたら、賊は遨家御当主様御自身が皆殺しにしただろうさ」
「母者は遨様と話されていたが、小馨様の事を話されていたのか。遨様は何と仰せなのだ」
「小馨嬢こそが我等の後継者とな、有難い事じゃ。
して黄侍女長殿、小馨嬢とは如何なる人物なのじゃ。遨家御当主様がこれ程見込まれたからには、只人では有るまいよ」
黄の表情が、パッと明るくなる。後に華になぞらえられる美貌である。
「小馨様は凄いのですよ、まだ兎歩を踏まれて二月程なのですが、気脈を通され兎歩経絡に至りました。
学問も事情が有り修学が疎かになっておりましたが、こちらもあり得ない集中力で僅か二月で初等…いえ中等使用文字を覚えられました。
特に凄いのは大人でも理解が難しい文法を、あのお歳で理解されてしまう頭の良さ、ご本人は暇潰しのつもりで読まれる娯楽冊子ですが、本来の読み手は大人を対象とした物で、とてもあのお歳では理解出来る内容では無いのですよ。
また人懐こい性分でいらして、私ごときを姐と慕って下さいます………ですが私は………」
表情が曇る、墨家の二人はここに気脈の乱れた元を嗅ぎ取った。
「今日の暴動で小馨嬢を失望させてしもうたのか、黄侍女長殿」
「はい、私は自分の無能が許せません。
小馨様は私に抱かれて、怖い、怖いと震えて居ました。護衛の李兄の背に有る時は安心されていたのに、私では安堵させるに至らなかった。
更に手傷を負った私を目の当たりにし、絶望のあまりに気を失われた。
………かつて私は、大口を叩き、小馨様の為に為らぬ者は排除するなどと嘯いて、その実無能の限りだった。
李兄達が目前の暴徒を抑えに駆けた時、私も実は安堵した。これで助かると、門内に逃げ込めると。
こうして李兄達の献身を受けておきながら、私は無様に投石を貰い、小馨様を絶望させた。
………私は、無能で無力だ。
墨様、私はどうしたら良いのでしょう、強くなれば良いのでしょうが、成りかたが分からない。
小馨様が安心して御身を預けられる程に、二度と絶望なされない程に、私は強く成りたいのです」
「黄殿、功練有るのみと……」
「少し黙れ徳。黄侍女長殿、強う成りたい動機は分かった、それは人それぞれで有るからそれについては深くは聞かない。
ただ、強く成りたい思いの深さを知りたい、黄侍女長殿にとっての小馨嬢は如何なる存在なのじゃ、それに因る」
黄は即答する。
「私の終生の主にして、私の最愛の主。
小馨様の為ならば、私は命も惜しくはない」
「うむ、その言気に入った、黄侍女長殿、黄殿ならば我等を継げる、嬉しや、嬉しや。
遨家御当主様、御当主様の所ばかりズルいでは無いか、どうで有ろ、黄殿を儂の所に預けては下さらぬか、久々に女子の指南もしてみたい。そうそう、遨家御当主様がまだ張姓であった頃、婆ぁの所にお出でになられましたなぁ、今の黄殿位の年頃でしたか、懐かしや」
応接室の扉が開く、墨家の面々は、京馨が聞き耳立てていた事に気がついていた様子で、特に慌てるでもなく差手の挨拶礼を取る。
が、黄は慌てた。
「婆様、言い訳では無いが盗み聞きをしたくてしていた訳では無いぞ。面白い話が聞こえたから話の腰を折るのを躊躇っただけだ。
墨沙蘭殿、徳行殿ようこそ参られた」
京馨は二人に応礼を返す。
「遨家御当主様、聞かれていたなら話は早い、黄殿を儂に預けては下さらぬか、女人拳の継承者は多い程良いのでのう。
出来る事ならば小馨嬢も指南したいのだが、それでは強欲が過ぎると言うもの。聞けば僅か二月余りで兎歩経絡を成功させた英俊で有るとか。まだ幼少なのだから丹をどれ程鍛え上げられるのやら、楽しみで楽しみで。
うむ、やはりこの婆ぁにお二人様を預けて下され」
「大概にされよ母上。申し訳御座いません遨様。母はその、放言癖が有りまして、善悪理非を考えもせずに、思い付きを口に出してしまうのです。
ここは付き合いの長さに免じてお許し下され」
「か、呵呵呵、徳行殿、婆様には俺も慣れている、許すも許さぬも無い」
「おお、遨家御当主様、それではこの婆ぁにお二人を預けて下さるか、有難い」
「母者、黙れ」
「構わんよ徳行殿、さて婆様、小馨はいずれ預けるだろうが………」
そこで京馨は黄に向く。
「黄、墨家は遨家の分派家、俺も婆様の教えを受けた事もあり、また墨家一族を高弟に置く程に密な間柄である。
だから俺の内弟子で有る其方を、墨家総帥へ預ける事は武林忌避事には当たらない。
どうだ、確かに婆様の元では得る物は多い、ここでは得られぬ。行くか」
「遨老師の元では学べない事でしょうか?私は小馨様の元は離れられません」
「いや、墨家へ移門する訳ではない。俺の内弟子のまま婆様の所に修功練に向かうのだ。
婆様の所では、遨家では廃された功練も有り、婆様自体が国内無双の達人だ。
一拍初練連歩、久々に見たが恐ろしい業だ」
「イヒヒ、遨家御当主様にそう評していただけるとは、婆ぁも業を重ねた甲斐も有りました」
一撃必殺、一拍毎に命を刈る。同じ状況や体勢など有るわけが無く、一拍間に一撃で仕留める間合い、打法を選択実行する。
瞬時に、自然体で命を刈り取るに要した特別功練は歳月にして八十余年、修体にして四桁に至る。本日だけでも三桁の特別功練に及んだ。
正に業を重ねる功練だ。
墨家の功練はそれに収まらない、そもそも沙蘭は、京馨に遺体の下げ渡しを願いに来たのだ。
断られたら盗むつもりの妖怪婆だ。
「お願いいたします!」
「ヒヒッ、黄殿。婆ぁは確かに給った。遨家御当主様、今更無しは通りませんぞ、遨家総帥殿の許可を得て、本人が望んで、儂が給ったのですから、いや、今日は良き日じゃ、功練は捗り、功練用の修体は手に入り、更に女人拳の伝承者を得た、良き日、好日じゃ」
「二言は無い。それに黄には報奨がまだで有った。墨家出向修功練許可をもって此度の献身に対する報奨とする。
ただ婆様、それから黄。一つだけ条件を付ける」
「何ですかのう遨家御当主様」
「老師、条件とは何でしょうか」
「婆様、黄は小馨の専属侍女だ、黄が離れれば小馨は淋しがる。だから功練は小馨の起床前に終わらせて戻っている様に」
「年寄は朝が早いから構わないが、小馨嬢の起床は何時なのじゃ」
「小馨様は辰の初刻(午前七時)に起床されます」
「ならば黄殿は卯の初刻(午前五時)に参られよ、墨家志練館は、ここから往復でも四半刻かからんから半刻は鍛練出来るじゃろう。縮地走神行歩は習得して居るのか」
「いや、婆様。黄は下位拳士で神行歩は先日鍛練許可を出したばかりだ。仕込み甲斐が有るぞ」
「ならば寅の刻限(午前三時~四時)には起床し向かいます、墨家総帥様、副総帥様、よろしくお願い致します」
黄は正式差手傾頭礼を取る。
神行歩を習得していなければ、往復で一刻近くかかる道程だ、寅の正刻頃(午前四時)には出立しなければ間に合わない。
これは神行歩の功練の意味も有る。連経歩は拳士の基本中の基本だ。
この時は、まだ墨家の功練の異様さを黄は知らなかった。
墨家へ通い始めの頃、黄は肉類を一切口に出来なくなるのだが、慣れとは恐ろしい物で、普通に肉類の食事を取れる様になる頃には、黄は拳士位階を一気に駆け上がっていく。
師範位に就くのは、これから二年後の事であり、この昇位速度は京馨に次いで歴代二位の事だ。




