波打ち際のダンス
「どういう風の吹き回しさ。」
「いいから、あなたのタブレットでリムスキー・コルサコフの『ソング・オブ・インディア』のオーケストラ編曲を探して。」
「隣の醸造所はWi-Fi超巨大スポットだから使えるよ。ほら、Youtubeにあったぜ。音はこれでいいかな」
数学に強い吸血鬼はてきぱきと音質まで設定した。
「ありがとう、ジャン=バティスト。少し待ってて」
カレンは立ち上がった。旋律を口ずさみながら、振りを確認していく。
「ここで、アティチュード・ターン、トンべゆっくり。腕はノイマイヤーのあの動きでいくわ」
「鎖が邪魔そうだね、カレン。」
「外したらマリーの信頼を失うのでしょ。かまわないわ、跳ばない振付けでいくから」
「いや、鎖の音がさ。」
「あなたもダンサーのデリカシーが分かってきたのね。」
男吸血鬼は眼鏡をくいっと上げた。
「今のカレン・サヴィニエは駄々っ子じゃない。プロの舞台人だからさ。踊っている間は僕に噛みついたり、僕を突き飛ばして外に出たりしないだろ?」
「確かに鎖なしの方が気持ちいいわね。さあ、いいわ。私に音を頂戴。ジャン=バティスト。このダンスをル・ジャンティの魂とあなたに捧げるわ」
「うん。」
リムスキー・コルサコフが霊廟に響いた。異国情緒あふれる甘い旋律。カレンの両腕が空間を作り、スカートの裾が緩急をつけて流れた。
ここはポンディシェリの波打ち際、
インド洋の波が絶え間なく打ち寄せる。
空には星が瞬く。
白い月、青い月、海から太陽が昇る。
宇宙からの波動、天体の曼荼羅。
風が凪ぎ、夜の星が落ちる。
針のような光の軌跡。
人間の手が触れようと触れまいと、それはいつもそこにある。
永遠の存在。
インドの哲学は静かに笑う、否、否、宇宙さえも無常だと。
我々はたゆたう。
波間に、風に、喜びに、また哀しみに。
踊れ、踊れ、宇宙は神々のダンス。
カレンのつま先は石の床を静かに滑り、完璧な円を描いたかと思えば、宙に優雅なラインを残した。
しなやかに回転する体と腕は音楽に乗り、神秘のオーラを撒いた。
「ああ、カレン……、君はなんてステキに踊るのだろう。つま先から、指先から、全てのパから、言葉を、想いを、宇宙を感じる。時の詩だ」
遥かポンディシェリの波打ち際、どうか時を止めて。
一瞬の幻よ、ヴィーナスの微笑みを見せて。
過ぎ去った思い出にキスを贈る。
遠く、遠くから手を振って……。
私は時の波打ち際に立っている……。
遠い波打ち際に……。
踊っている間、カレンは自分が化け物であることを忘れた。
舞台から降りた無念を忘れ、マリーへの怒りさえも忘れた。
舞踊の霊感が、再び彼女に戻っていた。
「さすがだなぁ、カレン・サヴィニエ。涙腺がゆるんじゃったよ……。
思い出した。ル・ジャンティ殿と会った夜、僕はノートルダム寺院の屋根に飛んでいって泣いた。あそこなら人間は来ないから。
マリーはただ傍にいて、僕をそっと見守ってくれた。
なぁ、カレン。君の臨終にマリーは何もしなかった。君がこちら側の存在になったのは事故。いや、運命だったんだ」
別の声がした。
「むしろ宿命ね。このマリーを愛した時からのね」
カレンとジャン=バティストは同時に叫んだ。
「マリー!いつからそこに!」
マリーはふわりと霊廟の床に降りた。鎖をちらりと見てから鷹揚に言った。
「カレン、ジャンのために新作を披露してくれたのね。あなたの踊りを見たの、一年ぶりよ」
カレンの肩から力は抜けていた。
「ジャンを叱らないで。ダンサーのために鎖を外したのよ」
「ええ、彼だってドイツで踊っていた頃のあなたを良く知っているもの。」
ジャン=バティストはマリーを振り向いた。
「良かったろ?カレンちゃんの振付け。胸がきゅんってなった」
「あー、乙女ね。ジャンはこういう時は乙女なのよね。ル・ジャンティ殿のこととなると特にね」
カレンはようやくマリーの眼をまっすぐに見た。
「マリー、大切な人。私は知らなかったわ、ジャン=バティストが涙もろいって」
「ここの吸血鬼はいろいろあるのよ。人間に混じって生きるしかないのだもの。危険ではあるけど、暗闇に引きこもって死んだように生きるよりはマシだと思うの、私は」
「そうだな。吸血鬼が経営するワイン醸造所なんて世界でここだけさ。秘密だけど。
あっ、カレン、僕のタブレットで何やってるの」
カレンは悪戯っぽく目を輝かせた。
「まあ、ル・ジャンティ殿ってイケメン!
ウィキペディアにちゃんと載っているわ。
長い名前ね、ギヨーム・ジョゼフ・ヤセント・ジャン=バティスト・ル・ジャンティ・ド・ラ・ガレジエール。
え……ジャン=バティストって……」
ジャン=バティストは真っ赤になった。
「僕の思い出を汚すなよ。そうさ、僕の名前は彼からもらった。まぁ、どこにでもあるけど、ちょっと特別な名前なのさ。僕にとっては」
カレンは改めて男吸血鬼を見た。
「ジャン=バティスト・カンカンポワって本名じゃないのね。」
マリーはカレンの手を取った。
「おばかさん。吸血鬼が本名を使うわけないでしょう。あなたは掟をたくさん知らなくてはならないわ。そうしたら私の長い吸血鬼人生を語ってあげられる。400年の波乱万丈を」
「それも長い昔話ね。」
「いいえ、今につながる物語よ。全ての人がそうであるように、あなたも歴史になったわ。ダンサー、カレン・サヴィニエ」
カレンはためらいながらもマリーの胸に飛び込んだ。
黒髪の吸血鬼は微笑んだ。
「さあ、霊廟を出て。明日からカレンの手も要るわ。吸血鬼不足で忙しいのよ。うちの葡萄畑に馬引きの犂を入れなきゃ。馬はあなたを気に入るわ、きっとね」
ギョーム・ル・ジャンティ、フランス大革命の恐怖政治の前年1892年、静かに死去。
遥かインド洋の波打ち際に、今日も陽が登る。
全てを新しくして……
完
附記 フランス島 現在のモーリシャス共和国
ブルボン島 現在のレユニオン島




