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ヴィーナス・トランジット1769

「3日の夜には木星の衛星さえハッキリ見えた。

 なのに……。4日の夜半だった。不意に大風が吹いた。ル・ジャンティ殿は起き出して、空を見た。雲が湧いていた。

 観測隊員は空を見た。風があれば雲は流れる。みんな、持ち場についた。

 午前5時に少し風が起った。ポンディシェリでは夜明け前に第2接触が始まるから、第3接触だけを観測することになってた。その時には晴れてくれと、僕は心の底から祈ったよ」

 カレンは今度は真剣に訊いた。

「第2接触、第3接触について教えて。」

「いいかいっ! 

 第2接触ってのはね!金星が太陽の内側に完全に入り込んで金星の縁が太陽面内側の縁と重なる瞬間を指すんだよ。内接だよ。ちなみに第3接触は金星が太陽面を通過し終わる時に太陽面の縁と重なる瞬間さ。これも内接。

 内接の時刻を正確に測ることが最重要なのさ。」

「第3接触は観測できたの?」

「風は雲を追い払うどころか、朝のスコールを運んできた。ものすごい豪雨と暴風……。太陽が水平線から出る時刻に……。

 みんな、呆然としてた。ル・ジャンティ殿は荒れ狂う海をなすすべもなく眺めていた……。

 1時間後に嵐は去った。金星は太陽面を静かに横切っているはずだ。第3接触まで小1時間しかない。雲はまだ厚かった。風はなかなか動かなかった。

 ようやく太陽が薄い雲の向こうに見え始めたけど、それじゃあ金星は見えない、まったく見えないんだ……。

 午前7時、18世紀最後のヴィーナス・トランジットは終わってしまった。

 同時に僕たちも終わってしまった。立ち尽くしたままのル・ジャンティ殿にインドの容赦ない陽射しが照りつけたのは、それからわずか30分後だった。

 酷いと思わないか?

 何のために命懸けで海を渡って来たんだ。戦争の間はイギリス戦列艦の脅威にさらされ、大砲に狙われ、ポンディシェリから追い払われ!

 マニラじゃ、さんざんスペイン人の妨害を乗り越えたのに!

 ポンディシェリに戻る時は、転覆寸前で本当に死を覚悟したのに!

 総督も知合いも近所の人も、幸運を祈ってくれたのに!

 8年も、いやブレスト港から丸々9年だ!

 なのに!たった数時間の雲とスコールが!すべてを水の泡にしてしまった!

 くそっ!

 ル・ジャンティ殿は放心状態だった。パリに報告を書こうにもペンさえ持てない。ひどいありさまさ。彼は赤痢にかかって、何度も生死の境をさまよった。

 僕は必死で看病した。彼の目は死んでいた。一気に老けて何も手につかなかった。

 僕のル・ジャンティ殿。

 僕になす術はなかった。ただ、身の回りのお世話をすることだけが救いのような気がして。

 静養すること7ヶ月。

 ある朝、波打ち際の散歩に誘った。彼は海を眺めていた。何も語らず、僕たちは歩いた。哀しみと悔しさを抱きながらね。そうするうちに彼は荷作りを始めた。僕たちは帰らなければならなかったから。

 僕は……。

 僕は……。」

 眼鏡の奥で古株吸血鬼の眼は震えていた。

「ジャン=バティスト、あなた、何があったの。」

「僕はフランス島でル・ジャンティ殿に別れを告げた。

 意気消沈した彼を支えることは出来たけど、つら過ぎた。

 彼は情熱を注いだものが自分を裏切ったという想いに囚われていた。そんな彼の傍にいることに、耐えられなくなったんだ。

 彼はもうヴィーナス・トランジットの件に見向きもしなくなった。情熱が別の何かに向いたのじゃないよ。彼は情熱を失っていた。

 フランス島に預けてあった膨大な標本と記録をパリに持って帰る船が嵐でフランス島へ逆戻りしてから、彼はますます落ち込んだ。飄々として、あれほど帰りたがっていたフランスへの船旅を避けるようになった。手紙さえ送らなかった。

 僕はショックだった。観測隊は解散し、それぞれパリを目指して船に乗った……。

 科学アカデミーからの給料は途絶えていたから、僕は陸軍付き天文官の職を得て、インド洋で働いた。胸にもやもやを抱えてね。

「何のもやもやよ。『僕のル・ジャンティ殿』が変わってしまって哀しかったの」

「何だろうな。人が変わるのはよくあることさ。

 そうだな。彼の情熱が妙な形で僕に残ったのかもしれない。

 陸軍で観測を続けるうちに、自然の偉大さが僕に何かを投げかけた。人間がちっぽけで儚い存在だと知ったよ。

 たかだか50年たらずの寿命の生き物が、宇宙の不思議を解いた気になって。知識欲を満たすのに見境のない変な生き物に思えてきたよ。

 人間、お前たちはどこに向かって行くつもりなんだい?

 僕はフランス島でマリーと出会い、ブルゴーニュ吸血族になった。

 もう、よく覚えてないけど、あの頃の僕はかなり頭に来ていたんだな。不死人になれば、もう一度ヴィーナス・トランジットを見られるという考えに憑りつかれていたんだ……」

「それでマリーの血を分けてもらったのね。科学者とオカルトって仲がいいのかしら」 

「そのとおりだよ、カレン。僕はどうしても1874年に生きていたかった。19世紀のヴィーナス・トランジット観測をすることが、僕のル・ジャンティ殿への供養だった、情熱にあふれた力強いル・ジャンティ殿への。

 マリーと僕がフランスに戻ったのは1775年、ブレスト港を発ってから15年だ。

 前の年に新国王が即位して、パリ天文台の僕の席は消えていたし、家族は僕が死んだと思い込んでいた。それはそれで都合が良かったさ。吸血鬼の身で『ただいま帰りました。』って会いに行けるかい?

 マリーは上手い具合にどこかから資金を手に入れて、ボルドー近くの街道の村で暮らした。

 そのあとパリに行ったのは、マリーが金策に走った1785年だ。

 僕の足はクリュニー海軍天文台、今のクリュニー美術館へ向かった。

 ラランド先生はまったく気づかなかった。紅顔の美少年が日焼けしたオッサンになっていれば。

 ところが、僕は失態を犯した。まさかそこにル・ジャンティ殿がラランド先生を訪ねてくるとは。彼は再会を喜んでくれた。必死で人間のふりをしたさ。体温を上げて息をして!

 ル・ジャンティ殿は60歳になっていた。彼は僕を見て『変わらないな』と穏やかに笑ったよ。

 彼がパリに戻れたのは4年前、すでに彼の相続人たちは死亡宣告を出し、科学アカデミーは除籍処分になっていた。裁判でやっと財産を取り戻し、アカデミーも彼のために席を用意した。

 彼は遅い結婚をし、インド洋の回想録とマダガスカル島の地図を出版した。幸せそうだった。

 ただ、ヴィーナス・トランジットのことはひとことも口にしなかった。ひとこともね……。

 それがル・ジャンティ殿と会った最後さ。」

「長い昔話ね。」

 ジャン=バティストは黙ってうなずいた。

 カレンの顔に、かつての舞台人の表情が浮かんでいた。

「ねえ、ネット検索を頼める? 私、ル・ジャンティとあなたのために踊りたいの」

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