ヴィーナストランジット1761
ジャン=バティストは話を戻した。
「とにかく!とにかく僕はル・ジャンティ殿が隊長を務める観測隊員になった。
1760年3月、船はブレスト港を出た。何本もの色つきガラスを嵌めた望遠鏡、直径2メートルの象限儀、職人が作り上げた精巧な時計たち。
そして祈ったさ。海よ、波涛よ、願わくば、イギリス軍艦を遠ざけてくれ。風よ、霧よ、フランスに味方してくれ」
「ああ、戦争中だものね。はい、3分よ。ワインを頂戴」
「そう、戦争中だったんだ。人類史上初の世界大戦さ。
観測地はインド南東海岸のフランス領、ポンディシェリ。そこはイギリス軍に占領されちまった。イギリスの戦列艦が睨みを効かせてた。船長はフランス島へ戻ることにしたよ」
「ちょっと!ワイン!」
「聞けよ。1761年6月6日、世界中で数百人の天文学者が、数万人の天文愛好者が次々に観測する日だったんだ!フランスで、イギリスで、ロシアで、北アメリカ、北欧、インド洋の沿岸と島々、喜望峰、セントヘレナ島、ジャカルタ!マニラ!
僕はシルフィード号の甲板にいた。赤道直下のインド洋。この上ない晴天。でも、固い大地じゃない、波に押される船の上だ。
ル・ジャンティ殿は揺れる船の上で砂時計を使うしかなかった。最初から正確な記録が取れないのは承知でもやるのが観測者の意地さ。
その日は朝からずっと望遠鏡で太陽を追い続けた。波があれほど恨めしかったことはなかった。船が揺れるたびに望遠鏡の焦点が外れてしまう。辛かった。
けど、ル・ジャンティ殿はせめて金星が太陽面から出る時刻だけでも測ろうとがんばり続けた。あとで思うと、彼が一番辛かったんだよ」
「世界規模の観測に失敗したのね。それでフランスへの憂鬱な帰り道が待っていたわけね」
「そんなに口をぱくぱくすると金魚みたいだ、カレン。僕は喋り出すと止まらないんだ。はい、ワインをどうぞ。
ル・ジャンティ殿は物事を良い方に捕える才能と情熱の持ち主でね。観測隊は意気消沈していたけど、彼は8年後の6月4日の金星太陽面通過に賭けるとに宣言した」
「2回目ってこと?」
「うん、この天体現象は約120年ごとに8年の間をおいて、2回起こるのさ。
ル・ジャンティ殿は、早速パリの王立科学アカデミーに手紙を書いた。
『至急、遠征費用と給料を支払われたく候。次回の金星太陽面通過観測までの間、我、マダガスカルおよびインド洋海域にて正確な海図の作成、博物学に有益たる自然物収集活動に貢献いたすものなり。必ずや、祖国フランスの栄光に寄与すると確信す』と。
一方、観測隊員の半分は帰国希望者。死んだり、逃亡したりで、ル・ジャンティ殿の元に残ったのは、僕を含めて3人だった」
「さすがフランス人はマイペースだわ。」
「僕はね!……ル・ジャンティ殿を尊敬してた……とても好きだった」
「ゲイなの、ジャン=バティスト。」
「君とマリーはそうだけどさ。誤解だよ、カレンちゃん。
彼はせっかちで一時もじっとしてないタイプの人間で、突っ走っては体を壊したり、怪我したり。そりゃもう傍にいてハラハラしたね。
僕はかげながら彼を支えたかった。友情なのか、なんなのか、もう分からないけど」
「じれったいわ、ジャン。長い話になるなら先にワインを全部飲むわ」
「なるほど。天文現象に興味が湧いたかい?」
「あなたの友情か何かわからないところが気になるのよ。」
「ちぇっ。さっさとグラスを空けてくれ」
カレンにグラスを渡すと、ジャン=バティストの口調は熱を帯びた。
「8年間、僕らは絶え間なく航海した。
ル・ジャンティ殿は本当に多彩で万能で精力的だったよ。フランス島 、マダガスカル島、ブルボン島、ロドリゲス島を巡って緯度と経度を測量し、海図を描き直し、島々の動植物を山のように採取し、地質を調べ、今でいう文化人類学的な調査もやった。彼は疲れを知らなかった。
最初の観測から4年目の1765年、彼は2回目の観測準備を始めた。
僕は過去の観測データを元に、最適な観測場所を決める手伝いをした。結果はフィリピンのマニラを指していた。
それで翌年にスペイン船でフランス島を出発した。当時のフィリピンはスペイン領だ。マニラは観測に最適だった。なにしろ毎日が晴天だ。
問題はマニラ総督だよ。気まぐれで疑り深い彼は、ル・ジャンティ殿をフランスのスパイだと決めつけて妨害ばかりしやがる。
僕は一時期マニラ総督を暗殺することまで考えた。
そこへパリの科学アカデミーから連絡が来た。
『戦争終結にともない、ポンディシェリは我が国に返還されり。金星の太陽面通過観測はポンディシェリで行われたし』
ル・ジャンティ殿はフランス総督の援助を頼めると言って、いそいそと荷物をまとめ始めた。
さすがだ。さすが僕のル・ジャンティ殿。
もっと驚いたことには、インド行きのポルトガル船が嵐に遭ったときさ。
カレンちゃん、言っとくけど、マイペースなのはフランス人だけじゃない。ポルトガルの船長と操舵手なんか滅茶苦茶だったよ。暴風雨の中で操船方法をめぐって大ゲンカのあげく、自分の部屋に閉じこもったんだから。
ル・ジャンティ殿は舵の取り手がいないと分かって、とうとうご自分で操舵手をやってのけた。船は難破せずにインド洋を西へ向かった!
僕はもう心底シビれたね! 僕の隊長は最高だ!」
「やっぱり尊敬以上の感情としか思えないわ、ジャン=バティスト。」
「男が男に惚れるって、こういうことさ。
ポンディシェリの大きな港湾が目の前に迫った時、僕の胸は張り裂けそうだった。今度こそ完璧な観測データをパリに持って帰る!
観測台はイギリス軍に破壊された砦を修復して作り直された。当時のフランス総督は気前良くてさ。至れり尽くせり。ただし、観測台の下は火薬庫だったよ」
「爆発しなかったの?」
「するものか!していたら、僕はここで君の面倒みてないよ!
観測台で寝起きするうちに慣れちゃった。
象限儀を設置して、予定日のために太陽と星の運行観測、緯度経度の確定、新しい望遠鏡の注文、時計の調整と、素敵な毎日だった。そんな中でル・ジャンティ殿はヒンズー語を習って、インド暦を研究し、僕はインド暦を使った計算法で彼と演算をした。
あの年は宝物のようだった。
彼はよく早朝の波打ち際を歩き、夜明けの太陽が水面の果てまで光の帯を作るさまを眺めていた。
彼と歩きながら話をした。天体、哲学、詩、歴史上の人物、医学、王政と立憲主義、隣の国々について。それからワイン、女、男、死、人間、魔物、信仰……」
「魔物ね、なんか意味深だわ。」
「それはともかく!ついに待ち望んだ6月が来たんだ!観測隊はワクワクしていた。
5月後半は晴天続き。観測台上の機器はスタンバイ完了。観測の予行も完璧。あとは6月4日が来るだけだ。すべては上手くいく!ル・ジャンティ殿の8年間が報われる日だ!」
「それで成功したのよね?」