奇人の秘蔵っ子
さてわざわざ自宅へと招かれたユイであったが、家庭教師をされる当人のエインスが不在であることから、顔合わせを含め講義は明日からという運びとなった。
そうしてユイを玄関まで見送ったジェナードとアーマッドの二人は、再びジェナードの執務室に戻ると、酒を片手にユイのことを話し始める。
「本当に彼で大丈夫なんだろうな? だいたいお前のところの手の空いている教師を紹介してもらうつもりで、お前に依頼したつもりだったんだが」
「ははは、それは申し訳ありません。でも、先日の報告書でも書いたと思いますが、彼こそがベストの人材だと今でも思っていますよ」
アーマッドは笑いながら、渋い表情をしたジェナードに向かってそう説明する。
「報告書は読んださ……しかし、その上で本当に彼でいいのかと言っているんだ。聞けばこの春に入学したばかりというではないか。百歩譲って教師でないとしても、お前のゼミにはもっと上級生がいるだろう、それも優秀な奴が。なんせお前のゼミは、士官学校のトップゼミだと耳にしておるからな」
アーマッド教室は戦略科に限らず全科の受け入れを行なっている珍しいゼミである。そしてアーマッド教室出身者は軍の中枢への出世率が高いことでも知られており、最も人気のゼミの一つであった。ちなみに後にこのゼミは、戦略省戦略局局長であったラインバーグと入れ変わる形で引き継がれる。そしてさらに別の人物へと引き継がれ、最人気のゼミとしての歴史は続いていくのだが、それは後の話である。
どちらにせよ、そんな人気であるアーマッドゼミに所属する学生を、今回なぜ選ばなかったのかということが、ジェナードにとっては不可解であった。
「はは、私もできることなら自分の直接の教え子を推薦したいとは思っていましたよ」
「ならば、なぜ?」
「上級生よりも新人の彼の方が、はるかに優秀だからですよ。決まっているじゃないですか」
わずかに苦笑いを浮かべながら、アーマッドが首を左右に振りつつそう口にする。その言葉を耳にしたジェナードは、わずかに眼光を鋭くして、アーマッドを睨んだ。
「……本当だろうな?」
「ええ、僕がおじさんに嘘ついたことなんて有りましたか」
「言い足りなかったことや、説明不足であったことは、これまでにもたくさんあったがね」
過去のアーマッドとの出来事を脳裏に浮かべながら、ジェナードは恨みがましい視線を彼へと向ける。
「いや、まぁ、それは……それとして。しかし、どうもおじさんはあまり乗り気じゃないようですね。これでも彼に顔を繋ぐためにかなり苦労をしたんですよ」
「苦労……お前がか?」
「ええ、ただの学生一人を斡旋するのも楽じゃないんですよ。特に彼のような人物の場合はね。どうも彼の見た目に騙されているようなので、少しだけオフレコの話しをしましょうか」
イマイチ乗り気に見えないジェナードに向かって、アーマッドはそう口にする。すると、ジェナードは途端に訝しげな表情を浮かべた。
「オフレコ? 何の話だ」
「いいですか、これは先日お渡ししたような公式資料には出ていないお話です。実は彼が士官学校に入学したのは、ある男の強い推薦によってなのです。そうでもなければ、身寄りもなく、お金もない彼が士官学校に入学するなんてことはなかったでしょうね」
この屋敷の安全性は理解しながらも、わざわざ周囲を見回した後に、アーマッドがやや声を低くしてそう説明する。
「ある男とはだれだ? わしの知っている人物なのだろうな」
「ええ、おじさんも御存知だと思いますよ。プロフェッサー・アズウェル。それが彼の後見人の名前です」
「な……アズウェルだと! あのマッド・アズウェルのことか?」
アーマッドの口にしたその人物名に、ジェナードは目を見開いてやや狼狽すると、確認するようにその名前を口にした。
「ええ、そうです。彼はあのアズウェル教授が直々にスカウトして、この学園に呼び寄せた男です。これだけでも、彼の価値がお分かりになると思いますが?」
その説明を耳にした途端、ジェナードは大きく溜め息を吐いて黙りこむ。そしてしばし思案を行った後に、ゆっくりと一度首を縦に振り、アーマッドに向かって受け入れる旨の言葉を口にした。
「……いいだろう。なるほど、奴の秘蔵っ子というのなら、ワシの大事なエインスを預けてもいいだろう。ただし、やはりふさわしくないと判断した場合は、その時は……わかっているな」
「はは、わかっていますよ。別に僕は、彼を何が何でも使ってくれと言っているわけではありません。ただ優秀な家庭教師をエインスにと思って、連れて来ただけです」
両腕を左右に広げてアーマッドはそう口にすると、ジェナードは意外そうな表情を浮かべながら、顎をゆっくりと手で撫でる。
「ならばいい。しかし他人に興味を見せないあのアズウェルがな……」
そう呟いたジェナードは、目の前のグラスに手を伸ばすと、中に入った琥珀色の液体をゆっくり喉に通していく。そうして一息つけたところで、アーマッドが話題を変えるように、エインスのことを口にした。
「そういえば、エインスはどこに行ったんですかね? 先ほどのおじさんの口ぶりでは、珍しいことでは無さそうですが」
「ああ……今日もどうせ女の尻を追い回しておるころだろう。つまりはそういうことだ」
頭を抱えながらジェナードがそう予想すると、アーマッドは興味深そうな視線を彼に向ける。
「へぇ……まぁ、そろそろ色を覚え始める年頃ですからね」
「それにしても毎晩だぞ、毎晩。いくらなんでも度が過ぎておるわ。まるでお前の若いころを見ているようだ」
思わぬジェナードの指摘に、アーマッドは自らの若かりし頃を思い出しながら、誤魔化すような苦笑いを浮かべる。
「あれ、私ってそんなにひどかったですか? でも、正直なことを言わせてもらえば、おじさんが異常なんですよ。このライン家に連なる男で、おじさんぐらいじゃないですか? 一人の女性に縛られていらっしゃるのは」
アーマッドの言い訳にもならないような反論に対し、アーマッドは彼を睨みつけると、声をわずかに荒げる。
「縛られているのではない! ただルネ以上の女がこの世におらんだけだ」
「それはそれは……ともかく、今回の件はこれで僕の仕事は終わりです。ここからはおじさん達とユイの問題ですので、あとはよろしくお願いしますよ」
自らの目の前に用意されたグラスを空にしたアーマッドは、そう口にすると、ゆっくりとソファーから体を起こす。
「わかっておる……一応、手間をかけさせたな」
「いいですよ、大事な本家の跡取りのためですから。それでは、失礼させて頂きます」
「どうしたのエインス。浮かない顔をしているけど」
今年オープンしたばかりであるグリーン亭という市内の店に、周囲から明らかに浮いたカップルがいる。
男の方はまだ幼さを感じさせる体格であり、大人になりかけといった印象の金髪の美少年である。そして女性の方は彼より若干年上の印象であるが、それでも十代特有の幼さを残しているブロンズ髪の美少女であった。
花のある整った顔立ちのこの二人がいるだけで、他の店であっても多少の視線が集まったかもしれない。しかしながら昼はともかく、夜は主に酒を取り扱うこの店の客層はほとんどが青年以上の男性であり、彼等の幼さは明らかに周囲とのギャップを生み出し、必要以上に周囲の視線を集めていた。
「ああ、マリア……それが親父が新しい家庭教師を雇いやがってね。全く、そんな授業なんて受けるわけねえのに」
周囲から送られる奇異の目線など気にする様子もなく、注文した琥珀色の飲み物を喉に送り込みつつ、少女に向かってそう愚痴を呟く。
「……何が問題なの? 別に放っておけばいいじゃない。そりゃあ、私としても多少は勉強したほうがいいと思うけどね」
「どうせ親父の後を継いで、先祖の連中と同じ事を繰り返していくだけなんだ。勉強したって何の役に立つさ? ただ、何もしていない家庭教師に金が払われるのも面白く無いんだよな。まったく親父のやつも無駄金を……」
エインスは自分の将来が最後まで既にレールが敷いてあると考えており、その考えに捕らわれるようになってから、努力を虚しく感じていた。しかしながら、彼の敷かれたレールによって影響を受ける領地の民たちのことは、彼なりに愛していた。そのため、彼等から収められた税をムダにすることには、多少なりとも抵抗があったのである。
「じゃあ、さっさとクビにしてもらえばいいじゃないの」
「親父と喋るの嫌なんだよ」
目の前のテーブルに突っ伏しながら、苦い声でエインスはそう告げる。するとそんなエインスの子供っぽい姿に、マリアはニコニコと笑みを浮かべる。
「あらあら、全く。それで、家庭教師ってどんな人なの?」
「さぁ。まだ顔も見てないからな。執事のローゼルフが言うには、ひ弱そうな男の学生らしいんだけどね」
昨夜、自宅に戻った際に彼の帰りを待っていたローゼルフに対し、彼は一度も会ったことのない給料泥棒の家庭教師の見た目を聞き出していた。
「へぇ、ひ弱ねぇ……となると士官学校の生徒じゃなさそうよね。もしかしてうちの生徒かしら?」
士官学校と対をなす学問に特化した王立学院の学生であるマリアは、自分の大学の知り合いの顔を数人ほど脳裏に浮かべながらエインスに向かってそう疑問を口にする。
「さぁな」
「でもさ、試しに一度くらい授業受けてみれば。嫌だったら、二度と受けなきゃいいんだし、そんな華奢なやつなら怖くはないでしょう?」
「怖いってなんだ、怖いって。でも、所詮学生だぜ? そんな大したことを教えることもできない奴に、習うことなんてねえよ」
やや強がるような口調でエインスはそう返答すると、拗ねたようにそっぽを向いてしまう。
そんな二人の姿を隣の席から眺めていた酒臭い男達の一人が、突然立ち上がると、エインスの肩に手を置き絡んできた。
「おい、坊主。ここはお子様の来る店じゃねぇよ。ガキはガキらしく、家で母親のおっぱいでもしゃぶっているんだな」
下卑た笑みを浮かべながらそう述べる酒臭い男の発言に、隣のテーブルの男たちはエインス達を馬鹿にしたように笑い出す。
「ははは、あんまからかってやるなよ。その乳臭い女の子なんか、お前の顔が怖くて、足が震えちまっているじゃねえか」
「わるいわるい、坊主達。まぁ、二人でミルクでも飲んで帰りな」
エインスの肩に手を置いた男は、そう口にして馬鹿笑いをする。すると、エインスは肩に置かれた手を払った上に、空いた手で手元のコップを握り締め、その男に向かって中身をぶちまけた。
「おっと、悪い悪い。おっさんがあまりにも臭いんでね、すこし綺麗にしてやろうと思ったんだけど、これでマシになったかな?」
マリアを馬鹿にされたことに苛立ちを覚えたエインスは、その男たちに向かって小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。すると、コップの中身を掛けられた男はもちろん、他の三人の男達もテーブルから立ち上がり、エインスを囲む。
「……小僧、調子に乗るなよ」
「聞こえなかったかよ? おっさんたちが臭いって言ってるんだ。このままじゃ匂いが気になって食事にならないから、あんた達がここから出て行ってくれねえか?」
怒りを隠すこと無く目尻を釣り上げたエインスは、その男たちに向かって怯える様子もなく、そう挑発する。
一方、自分たちの半分ほどの年齢の子供に馬鹿にされた男たちは、酒が入っていたことも有り、エインスを掴みかかろうとする。
「調子に乗りやがって……いい覚悟だ、坊主!」
そう言って男たちの一人が、エインスの胸ぐらをつかもうとした瞬間、エインスの隣で肩を震わせていたマリアが、必死に二人を分けようとその間に飛び込む。
「や、止めて下さい」
「うるせえ、このアマ!」
突然飛び込んで来たマリアに対し、男は手荒に彼女を突き飛ばす。そして華奢な彼女が突き飛ばされた先のテーブルの椅子の角で頭を打つと、意識を失った。
「てめぇら、ぶっ飛ばしてやる!」
マリアに手を出したことを目にした瞬間、エインスはその男に飛び掛ると、振りかぶった右拳を叩きつけた。