親馬鹿と女たらし
深夜遅く、全身痣だらけで帰宅したエインスの姿に、ライン家は大騒ぎとなった。
中でも、ジェナードの怒りはこれまでと比較にならないものであり、翌日の彼の執務室の机の上には、真っ二つに折られたペンが五本も転がっていた。
「先日も体中を腫らして帰って来おって。まったくあの家庭教師が来たところで、何の役にもたっておらん。やはり、あの者はクビにするべきかと思っているのだが、お前はどう思う?」
「あら、別に彼が悪いわけじゃないでしょ。だいたいまだエインスと顔さえ合わせてないんだし。少なくとも、一度は対面した上で授業を受けさせないと、評価なんてできないと思うわ」
ジェナードは妻であるルネを招いて、エインスのこれからを相談していた。その中でユイに対するうっ滞した不満をジェナードが口にすると、ルネはニコニコとした笑みを崩すこと無く、彼を庇ってみせる。
「しかし、ルネ。奴に教師としてのカリスマ性がないから、エインスが逃げ出しているとは考えられんか」
「あらあら、カリスマ性が無いから家を飛び出すというのでしたら、貴方のカリスマ性が一番足りないことになるわよ。なにしろあなたがこの家の当主なんですからね。少なくとも、一度くらいはお互いを紹介して、対面させてあげるべきだと思うわ。少なくともその程度のことは雇った側の責任として行うべきだと思わない?」
「むぅ……確かに、それはそうかもしれんが」
ルネの彼に対する手厳しい意見に対して、思わずジェナードは口ごもる。そしてジェナードが腕組みをして黙りこんでしまったところ、ノックすることもなく突然部屋の中へ、執事のローゼルフが飛び込んできた
「旦那様、旦那様!」
ローゼルフはあまりに慌てたためか、普段の紳士としての気品を投げ捨てた表情を浮かべ、ここまで走ってきたためか肩で息をする。
「どうしたローゼルフ。何をそんなに慌てている。またあいつがなにかやらかしたのか?」
「それが、それが」
ローゼルフは驚きのあまりか、うまく言葉にすることができず、それ以上の言葉が出てこない。すると、ルネが優しい笑みを浮かべて、彼に向かって先を促した。
「ローゼルフ、まず大きく深呼吸をしましょうか。それで落ち着いたら、ゆっくりでいいから教えて下さいな」
ルネの言葉を受けて、ローゼルフは二度大きく深呼吸を行うと、先ほど彼が目にした光景を脳内で整理し、二人に向かってその内容を告げた。
「それが……坊ちゃまが勉強をされておられるのです。先ほどから部屋で黙々と」
「な、なんだと!」
ローゼルフの口から発せられた予期せぬ内容に、思わずジェナードはその場から立ち上がると、まっすぐにエインスの部屋へと駆け出していく。そして勉強の邪魔をしないように気遣いながらそっと扉を開けると、そこには彼の見たこともない光景が繰り広げられていた。
「おお……」
エインスが机に向かい、本を広げる。彼が一度も目にしたことのないその姿に、できるだけ声を出さないように心がけたつもりのジェナードも、思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
「なんだい親父? 今、忙しいんだから、邪魔するなら出て行ってくれ」
その声を耳にしたエインスは、体は机に向かったまま視線だけをジェナードに向けると、迷惑そうな表情を浮かべてそう言い放った。
「あ……ああ。そ、そうだな。すまなかった」
エインスから向けられた冷たい視線に、思わず部屋の外まで後ずさりしたジェナードは、音を立てぬようにゆっくりと扉を閉める。そして側に控えていたローゼルフに視線を移すと、彼に向かって口を開いた。
「一体、何があった?」
「それが……どうもイスターツ様と何やら約束をされたようでして」
ローゼルフもはっきりと理由を確認できていないため、やや曖昧な口調でそれだけを告げる。
「……そうか。ん、そういえばイスターツは? イスターツはどうした?」
エインスが勉強しているにも関わらず、彼を教えるために雇ったイスターツの姿がないことに、ジェナードは初めて気がつく。
「それが……どうも今日は夕方まで自習と言われているそうで、本日はまだお見えになっていません」
「……一体、何がどうなっているのだ?」
ジェナードは彼自身エインスに教育を受けさせたかったにもかかわらず、実際に彼が勉学に励む姿を目の当たりにして、なにか不吉なことの前触れではないかと、思わずにはいられなかった。
「イスターツ君、これはどういうことだ? なぜ奴に勉強させることができたのだ? そしてなぜ君はあいつが勉強しているにもかかわらず、こんな時間まで姿を見せなかったのだね?」
ユイはエインスと約束していた夕刻を過ぎて、もう夜と呼んで差し支えない頃合いにジェナード邸へ到着した。そして彼が玄関をくぐった瞬間、すごい勢いでジェナードが彼に向かって詰め寄ってきた。
「えっと、すいません。どうされたのですか? いや、急にそんなたくさん言われてもですね……」
「なに!」
予想外の勢いにユイは両手で落ち着くようにジェスチャーを行う。その仕草にジェナードはその場で静止したものの、目を見開いてユイを睨みつける。
「いや……別にやましい事があるわけではないので、ちょっと落ち着いて頂けますか。取り敢えずですね、エインス君が勉強を始めた理由については、彼なりに学ぶ目的を見つけたからだと思います」
「むぅ、目的……か」
ユイが慌てて説明を始めたため、ジェナードはやや落ち着きを取り戻すと、ユイの言葉に耳を傾ける。しかし彼が落ち着きを取り戻したのは僅かな間だけであった。
「実は昨日、偶然彼にお会いしまして。その際にどうも自らを磨くことを意識したようです。そういったわけで、予め彼の部屋に用意しておいた課題を行うように指導しましたので、今日は夕方に確認に来ると約束していたわけです……まぁ、少し昼寝をしていたらですね、ちょっと予定より遅くなってしまいましたが」
「なに、貴様! あのエインスが勉学に励んでおるのに、昼寝をしておったというのか!」
「いや、その。全くその通りではあるんですが。ええと……」
今にもクビだと言い出しそうな勢いで、ジェナードは再びユイに向かって詰め寄ってくる。その勢いに、ユイは心底弱ったような表情を浮かべると、二度頭を掻く。
「親父、その辺で止めなよ。先生が困っているじゃねえか」
「エインス!」
そんなユイを掴みかからんとしていたジェナードを制止したのは、ユイから出された課題を終わらせたエインスであった。
「親父、あんまり細かいことにこだわって、うるさく言っているとハゲるぜ」
「馬鹿者、誰のことでこんなことをしておると思っているのだ。やはりこの男はクビだ。こんないい加減な奴に、家庭教師など出来るわけがない」
目尻を釣り上げたジェナードは、ユイを指差しながらそう宣言する。するとエインスは冷めた目つきでジェナードをひと睨みし、口を開いた。
「おっと、親父。はっきり言っておくが、ユイ先生以外の人間に教わる気はねえよ。ユイ先生をクビにするっていうんなら、金の無駄だから、次の家庭教師は呼んでこなくていい」
「なにぃ……お前、一体どういうことだ?」
エインスのユイを庇うような言動に、思わず狼狽したジェナードは呻くような声を上げる。
「どういうこともなにも、俺はユイ先生からしか教わる気はないってことだ。さて、俺は先生に教わりたいことが山積みなんだ。これ以上用がないなら、邪魔せずにどっか行ってくれないか?」
エインスから最後通告とも言える宣告を受けたジェナードは、頬を引き攣らせると、複雑な表情を浮かべながら二人に向かって口を開く。
「むぅぅぅ……わかった。好きにしろ!」
「へへ、ありがとよ。じゃあ先生、ちょっと教えて貰いたいことがあるんで、部屋まで来てもらえませんかね?」
「あ、ああ……では、申し訳ありませんが、失礼させて頂きます」
ユイはわずかに申し訳無さそうな表情を浮かべると、頭を一度下げた後にエインスの後を追いかける。
「……一体、どういうことだ? あの二人に何があったのだ?」
「ふふ、いいじゃない。何があったのだとしても、教師と生徒の仲が良いことは素晴らしいことだわ。それにあのエインスが自分から進んで学ぼうとしているのよ、下手に詮索しては逆効果になりかねないわ」
一連のやり取りを遠巻きに眺めていたルネは、優しい笑みを浮かべながらそう口にする。
「だが……」
「貴方が実は非常に過保護なことは、十分に知っているわ。でも貴方、こういう時はどっしり構えて、エインスの成長を見守っていたらいいと思うの。それが親にできる唯一のことじゃないかしら?」
「……わかった。確かにあいつが初めて自ら学ぼうとしているのだ、邪魔をするわけにはいかん。しかし、ユイ・イスターツ……か」
ジェナードはなんとも言いがたい表情を浮かべながら、既にいなくなった二人の姿を追うように、エインスの部屋の方向へと視線を向けた。
「先生。昨日の帰りに約束したところまでは、既にやり終わったよ」
エインスは学んだことを示すように、読み終わった本と学ぶために使用した薄汚れた紙を彼へと手渡す。
「ふむ、約束通り頑張ってくれたみたいだね。あ、そうそう。別に僕のことを先生なんて呼ばなくていいよ。そんなに歳が上なわけでもないしさ」
「じゃあ、なんと呼べばいいんだよ?」
エインスはそう問いかけると、代案を考えていなかったことも有り、ユイは思わず考えこんでしまう。
「そうだねぇ……イスターツさんでも、イスターツ君でも、今までどおり兄ちゃんでも構わないよ」
「なんかなぁ。俺は教わる立場だし、中途半端は嫌なんだ。できれば先生と呼びたいんだけど……もし嫌だっていうんなら先輩でどうだい?」
エインスの言い出した予期せぬ単語に、ユイは怪訝そうな表情を浮かべ思わず聞き返す。
「先輩?」
「ああ。俺が士官学校に入ったとき、おそらく先輩は最高学年にいるはずだぜ。だからちょっとその先取りをするのさ。というわけで、これからよろしくな、ユイ先輩」
「先輩……かぁ。まぁ、そのあたりで手を打つとするかな」
新入生として士官学校に入学したばかりのユイとしては、先輩という呼ばれ方に違和感を覚えていた。しかしながら、先生などという今後二度と呼ばれることはないであろう敬称で呼ばれるよりは、多少ましだと考えて妥協する。
「それで、ユイ先輩。約束通り課題はやったんだから、例のものを教えてくれよ」
「今からかい? まあ約束だからいいけど、そんなに強くなりたいのかい。別に君の場合は、君自身が強くなるんじゃなくて、組織を強くするための努力を行うべきだと思うけど」
先日ユイに依頼してきた、武術の講義をねだるエインスに対して、頭を掻きながらユイはそう口にする。
「確かに先輩の言うとおりだとは俺もわかっている。でもな、この前みたいに自分の目の前で女性が危ない目に合っているのをさ、見過ごしたくないんだ。俺はさ、俺を慕ってくれる女の子たちを守れる男になりたいのさ」
「うん、まあ気持ちはわかるけどね……ん? 女の子……たち?」
エインスの言葉の中に含まれていた単語に、ユイは僅かな引っ掛かりを覚え、それとともにある仮定を脳裏に描く。すると彼の予想を肯定するかのように、エインスは力強く宣言した。
「ああ、アンナも、エリーザも、ミラも、フラウも、ミリエッタも、ローザも、マリアも、彼女たちみんなを守れる男に俺はなりたいんだ」
全く遠慮や恥じる様子もなく、堂々とそう宣言したエインスに対して、ユイは大きな溜め息を吐くと天井を見上げる。
「そりゃあ、普通以上に頑張らないといけないね。一応、僕からの忠告だけど……君は万が一の場合を考えて、武術の訓練以上に背中の筋肉をよく鍛えておいた方がいい気がするよ。たぶんね」
こうして二人の先輩後輩としての関係は始まった。この二人の出会いが、この国の歴史における大きな分岐点であることを、この時点で知るものは誰ひとりいない。




