混濁
3-1
部屋に差し込む光で目が覚めた。部屋の中にまだ暖かい空気が残っている。
光でこの部屋は満たされている。渉はぼんやりと夢の中から現実へと戻ってきた。この暖かく、優しい、この世界へ。
最近夢を見る。とても、とても怖い夢を。
その夢から目覚める度に夢だったかと安心する。
その穏やかな気持ちで満たされると、潮が満ちるように、ふとあんなに怖い世界とこの暖かく優しい世界の果てしのない落差に不思議に思う。
まるで夢の世界と現実の世界とで法則そのものから違っているようだった。
お日様の光が部屋に優しく入り込んでいる。
「(お日様。あなたはどこにでもいるんですね・・・)」
渉はベッドの上で座ったまま顔を窓の方に上げた。
光が大窓から降り注ぎ、曙がもたらす一日の始まりの予感を渉は受けた。
渉は神のような暖かでそして偉大で力強い太陽に温かみの気持ちを向けていた。渉は何故かこんなことを思う気分だった。こんなちょっと変わったことを。
でも、たまには当たり前のようにいつも感じてることに嬉しくなったっていいと思う。
とても、静かだった。外からは僅かに鳥の声が聞こえる。
あれは鳩だろうか。渉が小さい時はなぜか梟の鳴き声だと思い込んでいた。
この島に生息する野鳥の全種類を知って図鑑を作りたいと渉は思った。そして全部の鳥の鳴き声を聞き分ける。
そんな考えを持った。
ベッドの上で座り、渉は未だ定まらない魂が自分の中に定着するのを待っていた。
かちかちかちと言う時計の秒針が動く音が渉の耳に入ってきた。
体をゆっくり、ゆっくりと動かし、ベッドの上で体勢を変える。窓を開けるためだ。
丸い大窓を開けると自分と外の世界とが確かな繋がりを得たような気がした。
窓を開けたことで鳥の声がクリアーになった。
少しひんやりとした、島の空気に渉の体がぶるっと震える。
毛布をマントのように被る。道産子のような姿になった。
それでも窓を閉めずにその柔らかな曙を眺めていた。風が気持ちよかった。
「おはようございます。」
渉は太陽に向かってお辞儀をした。
変といえば渉も少し変わっていた。
渉は太陽信仰を持つところがあった。そんなに大袈裟なものでもなく、江戸時代の人とかが太陽にお日様と言ったり、月にお月様と呼んだりするようなものだった。
「(確か世界には太陽信仰の本場とかあるはずだから、いつかそういう人とも話してみたいな・・・・・)」
ぼんやりと青みががった灰色に橙色の光が充満していくような風景を見ていて思った。
やっぱり渉はこの自然に感謝した。
窓のさんに肘をつかせる。ひんやりと肘が気持ちいい。穏やかな光と島の風が渉の頬にあたり気持ちがいい。
肘に顔を乗せる。気持ちが良すぎて二度寝してしまいそうだ。
渉は起き上がり、窓を閉めた。それからベッドから降り、カーペットを横切り、部屋の階段を降り始める。
階段の壁には渉が思い描く理想の写真や、絵が額に入れて飾ってある。ふと上を見上げると、大きな布の宝地図が帆のように天井にかけられている。それらのものがしっかりと渉を渉たらしめていた。
部屋のドアを開け、廊下に出る。
朔夜の部屋、未来の部屋、春日井の部屋、黒繭の部屋をただ通り過ぎる。部屋の中に入りたいと思ったけど、流石にそれははばかられた。男の部屋なら入っても大丈夫ではあると思う。そうか。じゃあ春日井の部屋でも入るか。
春日井の部屋に入ったが、その人はいなかった。そうか。と思い当たる。おそらく剣を振りに行っているのだろう。剣道でもフェンシングでもなく、「剣技」 を。剣の腕を磨いているのか・・・・自分を磨いているのか・・・。とりあえず渉は部屋を後にした。
春秋、久尊寺、真歌、漆の部屋の前を通る。少しばかり不安になる。確かにこの部屋の中に彼らはちゃんといてくれるのだろうか。と。もしかしたら一夜明けてこの家から俺以外の皆がいなくなってしまったのではないかと。もしかしたらみんな俺を置いてどこかへ行ってしまったんじゃないか?
誰もいないとても広い洋館に渉は取り残されてしまったんじゃないか?
真っ暗な海の中に放り出されたような気分になる。ここはとても豪華なのに。皆がいないと・・・・
頭の片隅ではそんなことありえないと解っていたが、この浮遊感のある想像に陥っていた。質の悪いことに俺はこの無理のある想像を簡単に受け取っていたことだった。
廊下を歩く。この広い館は皆でいるととても賑やかだが、1人でいるには広すぎて、そして寂しすぎる。
ガラスの扉を明けて、バルコニーに出た。とても広いバルコニーで縦15m。横は30mぐらいある。白の大理石でできた、そのバルコニーには今日は白いテーブルが1つと椅子が2脚、そしてやはり白色のパラソルが置かれていた。その椅子に座る人がいた。その人は風景を見ているようだったが、渉の方を振り向いた。ドアを開ける音をまったく立てなかったというのにこの人は渉の方を見た。この人は渉や家族以外の人だったらこんな穏やかな空気で人を迎え入れないんじゃないかとなんとなく思う。そんな人物が目の前にいた。
周りの白よりもより一層も白い肌。白磁のような白い肌だった。そして彼女の金色とライムグリーンの混じった髪が朝焼けに照らされて煌めいている。彼女は笑顔を渉に向けていた。渉はこの景色を独り占めできる自分が嬉しかったが、同時にそんな低俗な感情を抱いている自分がどうしようもなく、恥ずかしく、嫌悪した。
そういうわけで渉は少しの間口がきけなかった。だからアリーシャの目の前で突っ立っていた。
「おはよう渉。ふふ。どうしたんだいこんな朝早くから。」
アリーシャがそうごうを崩し、渉に話しかけた。渉に会えたことがまるで嬉しいかのように。
「おはようございます。」
渉はアリーシャにお辞儀をした。
それを見たアリーシャは少し怪訝な顔をしたが、やはり優雅な美しい動作で、(本人の自覚なし)立ち上がり、渉にお辞儀をした。
「おはようございます。」
渉は顔を上げた。アリーシャも顔を上げた。しかし渉は口をきかなかった。
「さあ。いつまでも立っていないで座りたまえ。」
アリーシャが渉をテーブルに促した。
渉はことここに至って自分のやっていることの失敗に気づきつつあった。いや、アリーシャは渉を対等の存在として扱ってくれてるのだ。実際は対等ではないとしても。そのことになぜ抵抗しようとするのか。自分の価値を下げるどころか、アリーシャが自分の価値を下げようとしてしまっている。完全に失策だ。そんなこと、あってはならないのに。
渉が硬直しているのを見てアリーシャはやや強引に出た。そういうところは、他の家族を見て憶えたのかもしれない。
「とりあえず座ってくれ。立ち話もなんだ・・・・という文化だ。」
やや渉よりも背の低いアリーシャが、渉の肩に触れ、椅子に促した。
渉はそのまま着席する。
向かいあった。しかし渉は自分がここにいることがどうも信じられなかった。この人の前にいることが。アリーシャはこの荘厳な例えるなら一枚の絵画のように周りのもの全てと調和していた。渉だけがこの景色の中で浮いているような気がする。そうなんだ。
「何故かそういう風に感じるんだ。俺だけがこの世界で生きていて何か馴染まないような。」
1人だけ違う次元の上にいるような。同じ平面上にみんなはいるのに自分だけが違うページにいるような。
「俺もそのページにいたいのに。いることはできないんだ。」
やめろ。頭の中で声がする。これ以上進むな。これ以上進むと、また同じことのくり返しだぞ?今まで何度俺は同じことを繰り返して来たと思っているんだ。また同じことを繰り返すのか?
・・・・・顔を伏せ、視界に入るのは自分の膝とその上に握られた拳だった。
ふと顔を上げるとそこにはソーサラーの上に置かれたティーカップがそこには置かれていた。そのティーカップは赤い紋様で装飾されたものだった。
「これ・・・・アリーシャが選んだティーカップ?」
「いや。これはイフリートが選んだものだ。やつの趣味だ。」
アリーシャが俺の疑問に答える。
「(うん・・・・・なんとなくそう思ったんだ。)」
ウンディーネが水を生み、イフリートが湯を沸かす。
「私は一であり、全でもある。」
アリーシャは少なくともそう言う。人間の認識と同じであるという風に言う。何故アリーシャはそんなことを言うのだろう。俺にそんな圧倒的な力があったのなら俺は・・・・
「アリーシャはさ・・・・人間になりたいんだろ?」
「だから、俺みたいなやつにも優しくするし、深く関わっていこうとする。なるほど。俺みたいなやつは愚かで馬鹿で情けなくって、無力で粗野で、無知で、そして・・・・汚く、汚らわしい存在だから。そうでしょ?」
そう考えると一番整合性がある。俺の中で一番納得がいく。まぁもっとも・・・俺が考えたことだから、結局正しい保証なんてないのだけれど。そもそも正しいってなんなんだ?何が正しいと決めるんだ?そういう絶対的最低権を持った誰かがいるのか?そんなことはない。だから科学や数学が好きなんだ。誰が観測してもほぼ同じ結果を見ることが出来るんだから。もう俺しか見えない景色なんか見たくない。みんなと同じ景色が見たい。やばいな・・・・・分かってるよ。やばいってことぐらい。分かってる・・・・・・これは自分で自分がやっていることにうんざりしてきているってことだ。どこにも進みようがない袋小路。何たってこんなことになったんだ?あの時あの道を通らなければ・・・・・あの仕事を選ばなければ、いや選択の余地なんかなかった。何にも分からないガキだった。いや・・・もっと前・・・あそこに居続けたことが間違いだったんだ。
記憶が混濁する。
「渉。」
確かに、だが微かに聞こえる声。凛としたよく通る声だが、同時に幽かな声としか渉は受け取ることが出来ない。
渉の瞳に映るのは精霊王の幽かな微笑み。それは陽炎のように儚い。だが同時に鮮烈に渉の心に残った。
「渉。」
もう1度精霊王は俺の名前を呼んだ。そして、身を乗り出し、俺の肩を触れた。いや、触れたなんて優しいものではなく、その両手で俺の肩をがっしりと握った。俺は恐れ多くて体をねじらせて避けたかった。俺に触ることで穢れがまるでこの精霊王に移ってしまうと本気で思った。そして、単純に接触する事が怖かった。太陽は暖かく必要であるけれど、長く見ていれば目が潰れてしまう。太陽のように眩しいが太陽のように俺の身を焼く。
「私は君を愛している!!」
体には力が入らない。まるで糸の切れた操り人形のようだ。体をアリーシャに揺さぶられている。
「私はこの世界が好きだ。この世界を守ることが私の役割なのだ。この世界にいる人を守ることが。私はこの世界にいるみんなが好きだ。上妻家のみんなが私は好きだ!みんな大好きだ!渉のことも大好きだ!イフリートやウンディーネ、シルフ、ノームが私の大切な1部であるように、渉も私の大事な1部なんだ。ああ、私の中の君を君にも分けてあげたいぐらいだ。」
「君は知らないのだろう。私の中の君の存在を。」
「渉が嬉しいと私も嬉しいし、渉が悲しいと私も悲しい。」
アリーシャの体から光が放たれた。アリーシャと共にいる四大精霊がこの世界に顕現する。
まず現れたのは土の精霊ノーム。
『まぁそう深く考えることないって。ごーろごろして思いついたことをやってればいいんだよー。』
ゆったりとした声で渉に語りかけた。
次にいたずらっ子のような癇の強そうな声で話すのはシルフだ。この精霊は風と共にやってくる。
『世の中の人はお前のことなんかそんな注目してねーよ。』
「・・・・シルフ。」
アリーシャがものを言いたげな長年の付き合いがあるがゆえに通じる視線をシルフに投げかけた。
「あー・・・」
わしゃわしゃと自分の髪をかき混ぜるシルフ。自分の応援する野球チームがエラーをした時のような顔をするシルフ。
「つまり、世の中の人間そんなに暇じゃないのは分かってるだろうけど、そんなにお前のこと悪く思っちゃいないよ。客観的に見るとな。そんなにお前が思ってるほど、お前はマイナスじゃねーよ。」
空気中の水分が膨れ上がるように何も無い空間から現れたウンディーネ。
「アリーシャったら毎日渉のことを話すんですから・・・・」
「ご・・・・ごほん!」
アリーシャが大きく咳払いをする。
「まぁ・・・・・そのつまり、確かによく話すことは認めるが、毎日はなしているかと言われればだな・・・・」
顔をどんどん赤らめるアリーシャ。
その隣にくるくると回るようにして現れたイフリートと同じくらい赤いアリーシャの顔。
「(この話題の主が俺じゃなかったらもうちょっと微笑ましく見ていられたものを。)」
そう。周りでちょうど見ている四大精霊のように。
そう呑気に構えられない事実を渉は頭の片隅に追いやろうとした。
「(だいぶ・・・・・人間らしくなった。)」
向かいに座る、真紅の宝石のような瞳を持つ、人形のような顔の女性。
「(精霊王が人間に近づくってことはいい事なんだろうか・・・・初めて会ったときはもっと・・・人間ではなかった。)」
「(全てを解って、悟っていた、まるで・・・・・神のように。)」
その神の性質とも呼ぶべき全知全能さが薄れ、ただの人間に近づいていくことは俺にとっては嬉しくもあり、何か残念な気持ちを湧き上がらせた。
「(やはり・・・・・俺はどうかしているな。まぁ俺がどうかしているのは今に始まったことじゃないが。)」
「(神威か、藍子か、久尊寺と相談しよう・・・・そうすればきっと解決する。)」
「(しかし、あれ?目の前の彼らと相談するっていう選択肢がないな。)」
「(どうしてだろう・・・・・何故家族がいて、みんながいて、なのに何故俺の心はこんなにも満たされないんだろう。こんなにも不安定なんだろう。)」
それを言ってしまったら、全てが壊れてしまうような気がする。決して超えてはいけない線を超えてしまうような。そこからとそこまででは見た様子では何の変わりもないのだが、引き返そうとすると見えない透明な壁に阻まれるような。その壁は決して壊れることなくどこまでも続いており、向こうの様子をただ見ていることしかできない。
渉は目の前のコーヒーを飲んだ。美味しい。そう。まだ美味しいと感じることが出来る。
「こんな日は、神威と農作業するのがいいかもしれない。」
俺はふとそう呟いた。
俺はモーニングコーヒーを飲み干した。それにしても、朝焼けがやけに美しい。