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下人が笑う-2

5-3

 何も、本当に何も無い、ただ苦しみだけが横たわるような病室に渉も横たわっていた。

 冷や汗が吹き出す。ここにいるのにたしかに自分がここにいると感じられない。ここに確かさはほとんど無い。


「(俺の名前は……上妻………渉だろ……)」


 何かが引きちぎれそうだった。限界を超えて張られていることは分かった。


 音が本当に煩い。そしてここは暗い。やけに暗い。何重にも見えないベールで目の前が覆われているようだった。空気の味が違う。


「(俺の家の匂いと違う。俺の家の匂いがしない)」


「(俺の家…………)」


「(か、帰らなきゃ。うちに帰らなきゃ。かえらなきゃ……カエラナキャ…………)」


 ────────────────────



  十二歳になった渉は父に金を稼いでこいと言われる。気づけば新聞配達の仕事をやらされていた。

 詳細を言えばキリがない。渉の中の意識だけの存在はより確かに、より優しいものになっていった。

 とうぜん家の仕事が免除されたわけではない。成長したので仕事を早くできるようになったので時間にむりやりにつめこんだだけの話だった。


 新聞配達が始まって半年すぎたころだった。その日は前日に客が多かったので、最後の客が帰ってから片付けをするのだが、短い時間に多い後片付け。そして大量に消費した食べ物の仕込み。すでにもうなにか一つアクシデントが起きるだけで破綻しかねないほど危険で、圧迫された渉の生活だった。

 まだまだ日は昇らない時間から新聞配達をしなければならない。新聞屋に遅いと怒られてからよたよたと自転車に新聞を積み込む。紐で結んだらいつものように出発。


 その日は本当に遅れていたので全部を配り終えるために必死で自転車を漕いでいた。そして全部配り終わったのは朝も明けきった時間だった。登校する周りの子供たちをもう見なくなったころに全部を投函し終わった。はっきり言って周りの、特に同い年ぐらいの子供にこの姿を見られるのが一番嫌だったけど、子供の登校時間までには間に合わなかった。そしてもちろん投函時間もとっくに過ぎていた。絶対に新聞屋に殴られるだろう。そして父にも殴られるだろう。とても疲れていたのでどこか怖さも麻痺していた。


 ふらふらと自転車を漕いでいたら、ぼーっとしていたらしい。道路に飛び出していたいうで、反対側から来た乗用車に正面衝突した。

 痛い。痛い。痛い。気持ち悪い。と思っていたけどじきにそういう感覚はなくなってきた。ばたばたと形相を歪ませ、大声で怒鳴る車に乗っていた人たちに、謝ろうとしたが声が出なかった。本当に申し訳なかった。こんな大事を起こしたんだ。これでもう父と母に完全に殺されると思っていた。そこで渉の意識はなくなった。




 手術は夜中まで行われた。

 病院に父と母がやってきた。


「息子は!?私の息子はどうなったんですか!?ああなんてこった。孝行息子がこんなことになるなんて……」


 演技派の浦賀繁が医者の前で涙を流しながら必死に息子を心配する父親を演じた。

 浦賀繁がちらっと浦賀卯乃を見る。何してる。お前も泣け。というサインだ。悪徳夫婦は彼らにだけは通じるアイコンタクトがあった。

 さめざめと粛々と浦賀卯乃は泣いた。


「なんてことでしょう。私の愛する息子がこんなことになってしまうなんて……」


 医者はすっかり、よくできた息子を心配する善良な夫婦だと思い込んでいた。


「命は大丈夫です」


「しっかり気持ちを持ってよく聞いてください。外傷は軽度なのですが、脳に損傷があります。」


「意識障害を起こしています」


「どういうことですか?」


「今のところ目が覚めません」


 浦賀繁と浦賀卯乃は黙っている。その態度を聞きたくないけど続きを促す怯えた夫婦とみた医者は続きを話す。この時浦賀繁は金のことと、虐待の事実が発覚するかどうかを考えていた。浦賀卯乃は渉が死んでくれるんじゃないかと期待した。


「病態は脳挫傷及び、びまん性軸索損傷。ここまでひどいのは見たことがない」


「そんな!!」


 父は大声を上げた。


「(せっかくの金づるが!!)」


「とても重傷ですが脳の中では手が出せません。おそらく……目が覚めることはないでしょう。奇跡でも起きないかぎり。それくらい絶望的です」


「目が覚めても大きな障害が残るでしょう。元の状態には戻らないと思ってください」


 誤診だった。これは誤診だった。昏睡状態で回復の見込みはないと医者は誤診をした。


 渉の意識はあった。

 その時の渉の本当の病態は閉じ込め症候群と呼ばれるものだった。

 交通事故で植物状態と診断されたが、渉には意識があった。しかし、それを周りに伝えることはできなかった。

 脳幹へ血液を送る太い欠陥がつまることで、近くにある運動神経の束が全て破壊され、手足が麻痺。その一方で運動神経とは全く関係ない触覚、味覚、嗅覚は普通の人と同じである。

 一番忘れてはいけないのは心もまた普通の人と同じなのである。

 大脳の動きも正常だった。これは完全な誤診だった。


 そこから渉の入院生活が始まった。



 

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