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下人が笑う-1

5-2


 6月12日



 モノトーンの彩度の低い、明るさのない天井。まぶたを開けて最初に見たのはそれだった。


「(知らない天井だ…………)」


 そんなことを言っている場合ではない。


「(なんだこここは)」


 早く体を起こさなければと思っているが何故か体が動かせない。それだけじゃない。何故か渉にはここの空気はおかしく感じる。世界の色が一段とあせたように見える。ぴくりとも体が動かせない。


 声を出して誰かを呼ぼうとしたが、声も出ない。


「(誰か!誰かいないのか!?おーい!)」


 声は出ない。

 頭がくらくらする。動くのは目だけみたいだ。現象を追う目だけが自由。まるで夢の中にいるみたいだった。


「(あれ……………?……………?)」


「(あれ…………?)」


 誰も来ない。ちょっと時間が経てばアリーシャか、久尊寺博士か、神威か、藍子か誰かが説明をしてくれると思っていた。だが、誰も来ない。さすがにこれが緊急状態であるということはわかる。いや、からだの五センチのところに薄い膜が張ってあるみたいな不安と恐怖がやってくる。


「(まままままぁ………落ち着いて。落ち着くんだ俺。落ち着いて状況をよく整理するんだ)」


 これは冗談やギャグで済まされることではないのではない。その事は頭のどこかに浮かんだが直視したくない考えだった。


「(あれ………?どうなってるんだ……?)」


 ピ……ピ……ピ……と断続して聞こえる電子音。


「(なんだこの音は)」


「(いつも通り昨日は家で寝たはずだ。いつも通り。こんなわけのわからないところに来るはずなんかない)」


「(なんだよ……なんだよこれ……)」


 喉からチューブが出ている。本当に、喉からありえないチューブが伸びている。喉に、穴が空いている。そして鼻にも管が二本通っている。頭の中で転がり、爆発しながら急転直下した。


「(うわぁあああああああああああああああああああっっあああっあああああああああああああああ!!!!)」


 だが恐ろしいことはそれだけではなかった。こんなに叫び、暴れまわりたいと精神が訴えているのに身体どころか表情すら動かないのだった。鼻に通る二本のおぞましい管からなんらかの液体が迫ってくる。


「(なんだこれ……………!!)」


「(水じゃない)」


 どろっとした緑色の液体がチューブを流れ鼻に入る。

 目を下に向ける。胸に白いシーツがかかっているのは分かる。そして今着ている服は昨日寝た時に着ていたものではない。薄緑色の見も知らない服だった。こんな服は着た覚えはない。渉の服ではない。何故ここにいるのか分からない。


「(いや…………分かりたくない)」


 ゴオオオオオオオ。

 暴力的にまでうるさい空調の音。この程度の音が頭に響く。


「(うるさい!うるさい!うるさい!)」


「(なんでなんだ……何がどうなってるんだ。分からない。分からない。誰か)」



  ◇ ◇



 ある一人の人間がいた。

 事のはじまりにさかのぼる。はじまり。

 あるところに浦賀という名字の家族あった。


  旦那は人の顔をしたげじげじのような生き物だった。 この男は溶けてのこぎりのような歯になっている。 名前は浦賀繁。虫のように客に媚びて絡みつき、金をしゃぶる、詐欺師のような男だった。

 奥さんは太ったガマガエルとカマキリを足して割ったような姿だった。名前は浦賀卯乃。 世の中のひどいと言われている人間の中でも最悪の部類に入るような人種だった。それはその旦那も同じことだった。

 

  彼は浦賀家に三男として生まれた。兄と姉がいる。二人とも歳は近かった。


 浦賀家に平等という概念は無かった。いろんなものが破綻していた。破綻していても、その家はやはり子供にとっては世界なのだ。やはり幼児は周りの人間についていってしまうものなのだ。しかし、卯乃と繁はそれを振り払った。生かさず、殺さず………そういうことに関してだけは才能のある人間だった。八歳の彼はみすぼらしく痩せていて、宇宙人のように頬はこけ、目も落ち窪んでいた。朝九時に起きて、家の雑事をする。店の前を掃除し、店の掃除をして、重たいバケツで何往復もしながら掃除をした。そしてようやく食べられる朝ごはんは昨日の客が残していった残飯だった。

 兄妹は母の方針で自分が作ったご飯を食べさせなくてはいけないと母自らが毎日つくった。彼はそれを食べることは許されなかった。

 ものごころついた兄妹は母や父が彼を冷酷に扱うのを真似して、残酷に扱った。

 彼は泣かなかった。泣くと余計ひどい目にあうからだった。


 彼は頑張った。毎日捨てると脅され、ミスをすると殴られるから、殴られることが嫌で頑張った。ある日から仮想の父と母を誰に教わったわけではなく自分の中につくった。仮想の父と母に褒めてもらう。仮想の父と母に愛してもらった。そうして彼は精神のバランスをとった。それは彼の成長と共にどんどん増長してゆくこととなる。


 友達もできなかった。小学校でも彼は働かなければならなかった。給食費や学校に必要な道具をなかなか渡してもらえないから彼は周りの人達の責めを受けた。だから、人一倍働いた。掃除も授業も。何一つ手は抜けない。学校に関係するありとあらゆる雑事をやった。誰もやりたがらないことを渉にある少ない時間でやった。とにかく先生に嫌われまいと必死にやった。正に命懸けで。だがそれはまわりのこどもたちとの軋轢となり、そのしわ寄せは教師に行き、結局は教師は彼に冷たくあたった。それでも渉は働くことをやめることはできなかった。それすら辞めたら、さらに惨めで暗い生活が待っていたから。


 まさに召使いのように働いた。気づけばそうだった。現状については特に考えることもなかった。ただしょうがないと諦めていた。仮想世界では父と母に兄妹もいるようになった。設定はどんどん細かく、増えていった。


 彼を取り巻く世界では彼が手に入らないものをみんな周りの人間は貰える。生まれてから彼にとっては辛い日々だった。辛いなんてものではない。同級生はみんな自分には持っていないものを持っている。兄妹は自分に持っていないものを持っている。辛くて惨めで悲しく辛かった。自分の味方は自分の体だけだった。だから、母や父、兄妹、学校のやつらにまけないように大きくなあれ。大きくなあれと思いながら体をさすった。

 


 父と母は言った。お前は黙って働いてりゃいいんだよ。と。母と父は渉が働かないならば捨てるつもりだった。父は金になるからという理由だけで実の息子を家に住まわせていただけだった。収益がマイナスになればどことも知らないところに売るつもりだった。母は彼が働いていても彼のことが嫌いで嫌いで仕方なかった。もっぱら彼を虐めるのは母の方だった。母は働いていても今すぐにでも渉を追い出したかった。だが彼の生殺与奪の権利は父にあった。この二人はこんなゴミのような人間を慈善で育てている聖人だと自分達のことを思っていた。


 家事や雑事をやっている時母の機嫌が悪くなると彼は全身が恐怖で震えた。


「早く寝ろ!」


「早く寝ろと言ったじゃない!」


「何でなの!何で言うことが聞けないの!」


 ヒステリックに顔を真っ黒に変える母。


 全身が恐怖で震えた。彼は渉に今一番できる笑顔で


「母さん。もう少しで終わるから」


 と言って急いでキッチンを片付ける。母に顔を向けてない時は恐怖で顔が引きつっている。


 母に頬を叩かれた。しかし、終わらせなければならない。震えながら皿のねっとりとへばりついた油をとる。その時は母は彼が振り向いた時に腕をすぱっと切った。直感的にこれはやばいと思った。


「口答えしてすいませんでした。もう寝ます」


 ハキハキと言って、回れ右をして寝床に行った。部屋の戸を開ける前に気づいた事があった。このままだと服を汚してしまうということ。それから布団まで血で汚してしまうということ。慌ててタオルをとってから布団に入った。明るいところでみると血がどくどくと溢れてきて、今まで生きてきて一番深い傷だということが分かった。タオルを腕に巻いて布団に入った。そしてそのまま眠った。ずきずきと頭が痛く、胸にバスケットボールが乗ったようだった。腕が焼けるように痛かった。このまま血が出つづけたら死ぬじゃないかという怖さが襲ってきたが、それ以上に父と母が怖くて、明日早く起きて今日の続きができるかどうかだけが一番の心配だった。


  この少年の名前は渉。性は浦賀。彼の戸籍謄本には無機質に、ただの書類の山の片隅に、浦賀渉と書かれている。埋もれていても、誰からも見えなくても、確かに世界から見れば彼の名前は間違いなく浦賀渉だった。


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