九十七話 喪失
頭部があった部分に布がかけられているが、その下には何もない。
それはあまりにも無慈悲で残酷で、衝撃的な姿だった。
困惑、悲嘆、絶望、悲しみ、苦しみ、憎しみ、恨み、怒り、苛立ち――様々なものが押し寄せ、強い感情に押しつぶされそうになる。
声も出ない。涙も出ない。ただただ、脳がぐらぐらと滾るような熱さに侵されていた。
説明できない感情に支配され、身動きすら取れなくなる。
時間がたつと、じわりじわりと怒りが湧き上がってきた。
いったい、誰が絋宇を殺したのか。
どうして、こんな酷い姿になるまで切り刻んだのか。
あのような痛めつけ方は、賊がするようなことだ。
ここで、違和感を覚える。
祖国の騎士達は、ここまで人の尊厳を粗末にする戦い方はしない。
人の命を奪う時には、急所を一点突きする。珊瑚も、そう習った。
人体を深く切りつけると剣がダメになる。それに、人を斬ると、体力も精神も擦り切れる。騎士の気力だって無限にあるわけでもないのだ。
さらに、戦場でこのような見せしめを行うことも禁止されていた。
皆、騎士道に則って、剣を握り戦っているのだ。
いくら、敵将が恨めしいからと、こんな下卑た行為をするわけがない。
ならば、いったい誰が殺したのか?
そんなことを考えてどうするのかわからなかったが、今は他に何も考えられない。
全身が沸騰しそうなほどの怒りに満たされ、絋宇にかけるつもりだった言葉すら消えてなくなっていた。
祖国の騎士が殺したようには思えない。
絋宇は兵部の兵士達に恐れられていた。だが、恨みを買っていたというわけではなく、話をする者の言葉尻には尊敬が滲んでいるように感じていた。
だから、味方兵士が絋宇を手にかけた可能性も低い。
もしかしたら、ここにいるのは絋宇ではないのでは?
そんなことすら考えてしまった。
辛すぎる現実から背けるために閉じていた目を開く。
視界の端に、地面に伏す星貴妃が見えた。
肩を震わせ、絋宇の死を嘆いている。
かける言葉は、見つからない。
紺々ならば、なんと声をかけただろうか。
彼女はいつでも落ち込む珊瑚を励ましてくれた。けれど、いざ自分が誰かを案じる立場になった途端、どうしていいのかわからなくなる。
紺々が珊瑚にかけてくれた言葉を振り返っていたら、ある一言にハッとなった。
――前向きに生きていたら、奇跡のような光の粒が、おのずと集まってくるのです。
その言葉は、珊瑚の心を占めていた、黒く醜い靄のようなものを、ほんのわずかだが薄くしてくれた。
しかし、だからと言って気分が完全に晴れたわけではない。
このままここで蹲るままでは、いけないということはわかる。
どれだけ泣いても、怒っても、絋宇は戻ってこない。
それよりも、確認すべきことがある。
大きく息を吐きだし、珊瑚は一気に立ち上がった。
横たわる絋宇は、直視できない。
すぐに踵を返して、遺体安置室から出る。
部屋の外には、顔色の悪い永訣が佇んでいた。
勇気を振り絞り、話しかける。
「あ、あの」
「なんだ?」
「こーうは、どのようにして、発見されたのでしょうか?」
その質問に対し、明らかな嫌悪感を顔に出す。だが、永訣は状況説明をしてくれた。
「想定外の敵の強襲により、陣形も組めぬまま戦いとなったらしい。絋宇は、最前線で指示を出していたが、潜伏していた騎士に囲まれ、味方から離されたあと、囚われてしまった。その翌日に、遺体となって放置されているところを、味方兵士が見つかったのだ」
どうやら、直接手にかけたところは誰も見ていないらしい。
一瞬見えた遺体が纏っていた装備は、将軍職の装いではなく一般の兵士の装備と同じに見えた。
「あの、服装が、兵士と同じように見えたのですが……?」
「ああ、あれは、装備がなくて、仕方なく着ていたようだ」
絋宇は永訣に、とにかく現場は物不足で困っていると訴えていたらしい。
「せめて、いい鎧を装備していたら、腕の怪我もしなかったし、無残に殺されることもなかったかもしれない。どうして私は、絋宇のためにそれをしてやらなかったのか」
今更悔やんでも遅い。
ただ、永訣は何もしていなかったわけではない。都で戦っていたのだ。
役人の悪政に苦しむ民のために、奔走していた。その中で、絋宇のことは後回しになっていたのだろう。
「絋宇は、死なないと思っていた。昔から運がよく、馬車にぶつかっても、流れの早い川に落ちて流されても怪我も病気もしないまま、大人になった」
永訣は絋宇のことを、劣勢さえも跳ね返すような強運の持ち主だと思っていたようだ。
「私はかつて、絋宇が生まれる前の日に、夢を見たのだ。地上に降り立った龍に片膝を突く、精悍な青年の姿を」
ここ国での龍という生き物は、神をもしのぐ尊い存在とされている。
彼こそが、汪家を繁栄に導く。生まれた絋宇を一目見た瞬間から、永訣はそんなふうに確信したらしい。
「私は昔から、絋宇に賭けていた。だから、一番に後宮へと送り込んだし、戦場に行くようにも命じた」
しかし、絋宇は死んでしまったのだ。
「けれどなぜ、顔がわからないのに、こーうだとわかったのですか?」
「私は、戦場にいる絋宇に剣を送った。その剣を、握った状態で発見されたのだ」
剣は手から離れず、今も握っているらしい。
その剣とは、絋宇が後宮にいる間、寄越すようにと再三手紙を送り続けていたものであった。
「そ、れは……?」
珊瑚は震える声で問いただす。
「珠珊瑚、お前が祖国から持ち込んだ、宝剣だ」
「!?」
珊瑚の持っていた宝剣とは、メリクル王子より賜った物である。
永訣はそれを絋宇が欲しがっていると勘違いし、託したようだ。
「どうした?」
「あ、あれは……メリクル王子の、剣です」
メルクル王子は暗殺対象になっていた。
顔を覆う兜を装着した状態ならば、絋宇とメリクル王子の見分けなどわかるはずもない。
判断材料は王家の紋章がある、宝剣しかないのだ。
「なんということなのだ! 絋宇は、私の託した剣のせいで、殺されたのか?」
絋宇は珊瑚が宝剣を取り返したいと思っていたので、永訣に要求していたのだ。
それを、永訣は絋宇が欲しいと勘違いし、戦場へと送った。
永訣のせいというわけではない。珊瑚も、絋宇の死に関与している。
しかし、胸が苦しくなって、真実を言えなかった。