九十六話 懇願
星貴妃より告げられた言葉は、雷が頭上に落ちてきたような衝撃を珊瑚に与える。
景色がぐにゃりと歪んだ上に、ズンと奈落に落ちるような感覚にくらくらと眩暈を覚えた。
王絋宇は戦死した。
そう、聞こえた。
信じたくなくて、嘘だと思いたくて、もう一度星貴妃に問う。
「ひ、妃嬪様、い、今、なんと?」
「王絋宇は死んだのだ。何度も言わせるな」
嘘ではなかった。聞き違いではなかった。
珊瑚の眦から、つうと熱い何かが流れる。
混乱した頭の中では、零れる涙が何か理解できなかった。
「あの、そ、それは……」
「先ほど、早打ちが届けられた。私の密偵からの報告ではなく、汪永訣からだ」
珊瑚はハッと息を呑み、そのまま数秒息をすることを忘れてしまう。
絋宇の兄永訣からの連絡ということは、嘘偽りのない確かな情報だろう。
「王絋宇は戦場で利き腕を損傷し、完治しない状態のまま戦いに挑み――」
敵の騎士に囲まれ、無残な姿で味方兵士に発見されたという。
「お主にだけ、手紙を残していたようだ」
そうだったのですね、と返そうとしたが言葉にならない。
何度か咳き込んだあと、今まで息をしていなかったことを自覚する。
絋宇は死んだ。
間違いなく。
そして――落としてしまった絋宇の手紙が書き綴られている巻物を手に取り、ぎゅっと胸に抱いた。
「絋宇は、都に帰ってきているのですか?」
「……」
「妃嬪様、教えてください」
「ああ、戻ってきておる」
「でしたら、一目、絋宇に会いたいです」
役人のお渡りまで、数時間の余裕がある。その間に会えないかと、珊瑚願った。
「もう二度と、会えないので、どうか……」
「そう言うと思ったから、教えたくなかったのだ。汪絋宇に会うことは、ならぬ」
「お願いします。最後に、最後に一度だけ、彼に触れて、言葉を、かけさせて、ください……」
床に額を付け、珊瑚は星貴妃に懇願する。
ポタリ、ポタリと珊瑚の目から次々と流れる雫は、雨のように床の上に水滴を残す。
止まることを知らない。
「もう二度と、このような願いは言いません。これより先は、あなたの忠実な剣になります。だから――」
星貴妃は返事をせず、じっと珊瑚を見下ろしていた。
その間、珊瑚は平伏し続ける。
たっぷりと五分間、二人はその状態でいた。
先に動いたのは、星貴妃であった。
扇を広げ、口元を隠しながら珊瑚に問いかける。
「王絋宇は、生前と同じ姿で戻ってきたわけではない。それでもいいのか?」
それは、五体満足ではないことを意味する。
星貴妃が絋宇に会わせることを反対した意味を、今になって理解した。
珊瑚が衝撃を受けることを案じていたのだ。
再度、星貴妃は珊瑚に問いかける。
死した汪絋宇が汪絋宇の姿をしていなくても、会う勇気はあるのか。
星貴妃の問いかけに、珊瑚は頷いた。
「わかった。だったら、ついてこい」
星貴妃は汪永訣に呼び出されていたようだ。
まずは、身支度を整える。死を悼む時は、華美な恰好をしてはいけない。
珊瑚と星貴妃は黒を纏い、隠し通路から外に出る。
絋宇の遺体は、兵部の地下にある安置所に置かれていた。
案内された客間で、永訣と合流した。
長椅子に座る威厳ある礼部の尚書は、項垂れていた。珊瑚と星貴妃がやって来ても、声をかけるどころか顔を上げることすらしない。
いつも自信に溢れ、高圧的な態度に出る永訣の姿とは程遠い、弱り切っている姿だった。
「汪永訣よ、汪絋宇のことは……残念だったな」
星貴妃が声をかけても、反応しない。
黙ったまま立ち上がると、部屋を出る。どうやら、絋宇のもとへと向かうようだ。
地下は石の床には点々と蝋燭が置かれているが薄暗く、ヒヤリとしていた。石造りの個室が並び、一部屋につき一人の遺体が収められているようだ。
使っている部屋には見張りがいて、神妙な面持ちで立っている。
ここは上官用の安置所で見張りの兵士の人数から、部屋のほとんどは使われていないようだ。
地下だからか、遺体の安置所だからか、雰囲気が重々しい。
どこからともなく独特な薬草の香りが漂い、誰かのすすり泣く声がかすかに聞こえていた。
珊瑚は拳を握りしめて、自らを鼓舞しながら一歩、一歩と前に進む。
そしてついに――奥から三番目にある二枚扉の前で永訣が立ち止まった。
ここに、絋宇がいるようだった。
「私は、もう見た。お前達だけで、別れを済ませてくるといい」
本人確認は済んでいるようで、珊瑚と星貴妃だけ中に入るように促した。
「先に、私が行こう」
星貴妃はそう言って、珊瑚の反応も確認せずに中へと入る。
すると、数秒と経たずに、中から星貴妃の嗚咽するような声が聞こえてきた。
「妃嬪様!?」
「無理もない。あれは、絋宇ではない。肉の、塊だ」
「!?」
珊瑚は意を決し、中へと入る。
内部は部屋の四方に灯篭が置かれ、独特な強い匂いを放つ。
石の棺に、絋宇は横わたっていた。
その姿を見て、珊瑚は膝から崩れ落ちる。
絋宇は首、右腕、両足が切断された状態で、戻ってきていた。