九十四話 戦場に星はない
紘宇は荒野を眺め、溜息を一つ落とす。
異国の騎士が三千ほど押し寄せた戦場に、彼は身を置いていた。
何日経ったとかは、覚えていない。
兵士が千五百しかいない華烈軍は――意外なことに奮闘していた。
というのも、戦地が黄土高原だったことが幸いしている。
吹き荒ぶ風が、砂が、敵国の騎士を翻弄しているのだ。
黄土高原というのは、砂泥で黄濁した川が中心に流れる高原で、これまでも他国の進撃を許してきた国境である。
見渡す限り緑はなく、あるのは砂と泥、それから強い風だけ。
数千年間、この地は他国の侵略に開墾、遊牧民の放牧、森林伐採を繰り返し、荒れ果ててしまった。
今は、華烈の者でさえ近付く者のいない土地となっている。
今日も空は晴天であったが黄土平原の砂が舞い上がり、ぼんやりとした景色となっている。
この砂嵐の影響はここだけではない。
華烈全体に行き渡り、夜空の星を遠ざけるのだ。
異国の地は満天の星が見えると珊瑚は話していた。いったい、どのような光景なのか。
紘宇には想像もつかない。
また、満天の星を知る珊瑚の同郷の者を斬ることに、胸が痛んだ。
戦争は国と国、思想と思想の紛争である。
そこに、個や心は存在しない。
剣を交える騎士も、華烈が憎くて戦っているわけではないことは、重々承知の上だ。
それでも、紘宇は剣を振るう。
感情は胸の奥底に押し殺し、戦争を終わらせるために戦うのだ。
今日も、黄土高原は風が吹いている。
不思議なことに、華烈軍がいる場所が追い風となるのだ。
敵は毎回強い向かい風を受けている。
これは、華烈を守護する龍の力だと、兵士達は口々に言っていた。
砂が混じった風は、異国の騎士達の視界を塞ぐ。
そのおかげで、戦いは有利に運んでいた。
しかし、戦場は厳しい状況だ。
兵士の数が、圧倒的に足りていないのだ。
それに、兵糧も日に日に量が減っている。
食料の流通がどこかで滞っているのだと、誰かが話している。
皇帝不在の影響が、じわじわ浮彫りになってきているのだ。
紘宇は天幕の陰でじっと息を潜め、兵士達の雑談を聞く。
「なんでも、皇帝が崩御したらしい」
「嘘だろ!?」
「そんなの、信じられるか!」
皇帝崩御の噂は、このような末端の兵士達にも知れ渡るまでになっているようだ。
おそらく、宮中で働く者のほとんどは把握しているだろう。
でないと、戦場に兵糧食の配給が滞ることなどありえない。
皇帝不在の中、役人達が好き勝手しているに違いないと紘宇は考える。
後宮は――牡丹宮はどうなっているのか。
維持費のかかる後宮が潰されていないか、心配になった。
ただ、牡丹宮にいる女達は皆強かだ。
中でも、星貴妃は強い。珊瑚がきっと、支えてくれているだろう。
戦場に身を置いていると、珊瑚と過ごした日々が遠いように思える。
短い間であったが、紘宇の中で平和の象徴だったように感じていた。
今日は、あのまぬけ面のたぬきの頭を撫でたい。
珊瑚の笑った顔も見たかった。
紘宇は、平和な日々を取り戻すまで、剣を握っている。
負けるわけにはいかなかった。
◇◇◇
それから数日が経つ。
今日も追い風が吹き、戦場は有利な状態であった。
数で劣っていたが、統率と地理を生かした戦いをし、なんとか相手を撤退まで追い込む。
異国の騎士は、半分ほどに減っただろうか。
華烈軍の負傷兵は二百ほど。
痛手であるものの、千五百対三千だったことを考えると、よくやっているほうだと判断している。
今日、紘宇は腕を負傷した。
利き手ではないものの、傷口がズキズキと鈍い痛みを訴えている。
傷口から熱を発していたが、だいぶマシになる。
夜となり、やっと落ち着くことができた。
報告書をまとめたあと、何も書いていない巻物を取り出した。
今まで、後回しにしていたこと――珊瑚へ遺す手紙を書き始める。
こんなもの必要ない。そう考えていたがどうしてか書かなければならないと思い、筆を手に取る。
これが珊瑚に届くのは、紘宇が命を落とした時だ。
最後に、気持ちを伝えなければならない。
書き綴ったのは、感謝の言葉だ。
今まで何度も冷たく接してしまったが、紘宇は珊瑚の存在に救われていた。
それから、今日まで戦場で頑張れたのも、珊瑚が待っているからだ。
託された琥珀の紐飾りにも、何度も勇気をもらっている。
深く、感謝していると、何度も書いた。
そして最後に、死んだ自分のことは忘れ、珊瑚らしく、自由に生きてほしいと、たった一つの願いを認める。
墨が乾くのを待ち、くるくると巻いて紐で結んだ。
それを、部下に託す。自分が死んだあと、牡丹宮にいる珠珊瑚という男に届けるように命じていた。
天幕の中、なんとも言えない感傷的な気分になった紘宇は、一人外に出る。
砂交じりの、冷たい風が吹いていた。
空を見上げると、星の一つも見えない。
以前、珊瑚が話していた、強い光を放つ彗星ならば見えるだろうか。
そんなことを思いながら、空を眺める。
と、ここで、見回りをしていた兵士の話し声が聞こえてきた。
「いやはや、兵糧がまともに届くようになってよかった」
「本当に」
兵士達の話す通り、兵糧食は人数分届くようになった。
戦場から何度も抗議文を送ったのに効果はなかったのだが、数日前から急に改善されたのだ。
「なんでも、悪政を強いる役人を殺して回る奴が現われたらしい」
「すげえな」
都では、役人の政治に憎悪を抱く者が、反乱を起こしているようだ。
「今では英雄扱いなんだとか」
「いったい誰なんだ?」
「――鼬仮面の剣士と呼ばれているらしい」
都の英雄は鼬の仮面を被った、筋肉隆々の大男らしい。
「なんでも、謀反を起こして囚われていた兵士達を、己の拳のみを武器にたった一人で助けたんだとか」
「おお……!」
「それから、悪政強いる役人の首を大鎌で刎ね、流れる血を啜って力を蓄えているらしい。鼬の纏う外套は役人の血で赤黒く染まり、殺されることを恐れた役人は真面目に仕事をするようになったと」
「すげえな」
「夜な夜な、役人の枕元に鼬仮面の剣士が現われるんだとよ。悪い役人はいないか~、悪い役人はいないか~って囁きながら」
「今夜、眠れないかもしれねえ」
そんな話を聞いた紘宇は、誰もいない場所で一人ツッコむ。
「化け物か!」
清廉潔白な英雄狸仮面の剣士の噂が、巡り巡って面白可笑しく脚色されていることなど、紘宇は知る由もない。