九話 一日目、なんとか終了。そして――
寝間着は白く上下が繋がった薄い深衣が用意された。胸に襟を合わせ、体に巻き付ける衣服である。
「ええ~っと、下着はですね」
新品の女性用下着はないので、男性用の物を紺々は用意していた。
ぴらりとひろげたそれは、珊瑚にはただの長い布に見える。
「珊瑚様の祖国の下着と形が違うのですね。これはですね、股に挟んで、後ろは捩じって体に巻き付けて、結ぶんですよ」
「へえ」
六尺褌と呼ばれていると説明する。
「女性の下着は……その、こちらです」
上は乳児が纏っているような腹当てに似ている物だった。表は花の刺繍が成され、銀糸で縁取られている。裏は絹の布があてられていた。
祖国の下着には、胸の形を整える鯨髭が入っている。一方で、華烈の物にはそういった機能は備わっていないようだった。
不思議に思っていると、紺々がそのわけを説明する。
「たぶん、うちの国の女性は胸が平らな人が多いので、胸の形を整える必要はないのかな、と」
「ウ~~ン」
下に穿くのは、ひも付きの布地。これを股に合わせ、左右に結べば完了。
珊瑚が今まで使っていたのはゴム入りの物だったので、裏表と構造を確認していた。
紺々は私物の下着を見られて、恥ずかしそうにしている。
「え~っと、それでですね、女性物の下着の、未使用の物がなくて、珊瑚さんの下着は男性用の六尺褌しかなくて……」
「大丈夫、デス。多分」
何事も挑戦である。そう思い、一枚の長い布を手に取った。
「お、お手伝い、いたします」
紺々は珊瑚から、六尺褌の布地を受け取った。手早く体に巻き付けて結ぶ。
「きつくないですか?」
「大丈夫。でも、なんか変デス」
「お尻がきゅっとなりますものね」
前はきっちりと布地で覆われている状態であったが、お尻は中央に沿って捩じられた布地が食い込んでいる状態なのだ。
「なるべく緩くしてみましたが」
「ありがとう、デス」
「いえ……。新しい下着があれば良かったのですが」
「平気デス」
次に、珊瑚は胸を圧迫していた布地を手に取った。
「珊瑚様、そちらは洗濯をしましょうか? 一晩干していたら、乾くと思います」
「あ、うん、そう、ですヨネ」
見た目は汚れているわけではないが、今日は変な汗などもかいたので、洗ったほうがいいと思う。
素肌に深衣を纏う形になると言われ、珊瑚は眉間に皺を寄せる。
隣に異性が眠っている状態で、いささか無防備ではと思った。
けれど、相手は汪紘宇。人となりを理解をしているわけではないが、一見して、鋼の理性を持っているような印象があった。珊瑚が女性とわかっていても、監視の任をまっとうするに違いない。そう思って、諦めることにする。
紺々に手伝ってもらいながら、深衣を着用した。
寝間着用の物なので絹の生地は薄く、体の線をくっきりとなぞっていた。大丈夫なのかと、若干不安になる。
「こんこん、これ、問題ない、デス?」
「問題大ありですね。お身体を見られたりしたら、女性だとバレてしまいます。ですが、汪内官は一度眠ったら、なかなか目覚めないと女官達が噂していたのを聞いたことがあるので、おそらく大丈夫かと」
「そう……」
大丈夫という言葉だけ拾えた。紺々を信じよう。珊瑚は自身に言い聞かせる。
念のため朝早く、紘宇が起きる前に紺々が起こしてくれることになった。着替えも、紺々の部屋で行うことにする。
「そういえば私、一人部屋なんです」
通常、女官は三人から四人部屋である。紺々はここでも特別扱いされていたのだ。
「なので、何か困ったことがあれば、いつでも駆け込んできてくださいね。着替えも、私の部屋で行いましょう」
「こんこん、ありがとう」
「いいえ。他に、困ったことがありましたら、遠慮なくおっしゃってください」
困ったことがあったら言って欲しい。何度か聞き返して、意味を理解する。
「あの、こんこん、ごめんなさい。少し、お喋り、早い。ゆっくり、喋ったら、少し、ワカル」
「あ、ああ、そうですね。すみませんでした」
以降、紺々はゆっくり喋ることを約束してくれた。
紺々は素早く自身の着替えを済ませると、風呂場から出る。
そして、来た時同様、珊瑚の頭の上からすっぽりと布を被り、紘宇の部屋まで移動する。
まず、紺々の部屋を教えてもらうことにした。渡り廊下を通れば、風の冷たさに肌を震わせる。
それから、雲で霞んだ銀色の月に気付いて、立ち止まってしまった。
「珊瑚様、どうかしましたか?」
「月が、銀……」
祖国の月は金色だと告げれば、紺々は目を見開いて驚いていた。
「あれは、空に黄砂が漂っているので、空に灰色の靄のような物が重なって、あのような色合いになるのです」
「こうさ?」
「黄砂は、えっとですね」
紺々は黄砂の説明を必死にする。
「うちの国の西方に、広大な黄土高原がありまして、風によって砂や埃が舞い上がってきたものが上空に広がって、空の色をぼんやりとさせてしまうのです」
なので、晴天の日は一ヶ月の間に片手で数える程度だと言う。
「祖国、こうさ、ナイ」
「でしたら、珊瑚様の国は、満天の星空が広がっているのでしょうね」
「星……ああ、ここは、ぜんぜん、見えないのですね」
「ええ。残念ながら。なんでも、信じられないくらい綺麗だそうで、中でも彗星……箒星とも呼ばれる、尾を引いて空を流れる星はひと際美しいのだとか。ああ、一度でいいので見てみたいものです」
いつか、紺々に星を見せてあげたいと思ったが、後宮から出ることができないので、それは叶わぬことだろう。なんとも切ない願いであった。
紺々がくしゃみをして我に返る。寒空の下、話し込んでしまった。
「こんこん、こっち」
「へ!?」
珊瑚は頭から被っていた布の中に、紺々を引き寄せた。
「一緒、温かい、デス」
「えっ、あっ、そそ、そうデスネ」
二人は肩を寄せ合って、渡り廊下を通り過ぎた。
紺々の部屋の位置を確認し、紘宇の部屋まで戻る。
寝室を覗き込むと、紘宇はまったく身じろがず、壁に背を向けた姿で、ぐっすりと眠っているようだった。
「大丈夫、みたい」
「ですね」
紺々は明日の朝、起こしに来るという。珊瑚はよろしくお願いしますと、ぎこちない華烈の言葉で返した。
寝室の扉を音がしないように閉める。
足音と気配も消して、寝台へと近づいて行った。
頭から踝まですっぽりと被っていた布は椅子にかける。
靴を脱ぎ、寝台に入った。
ギシリと、思いの外大きな音が鳴って、ぎくりとする。けれど、紘宇が目覚めた様子はなかった。ホッとしつつ、布団に潜り込む。
外からは、虫がリンリンと鳴く声が聞こえた。
たまに、紘宇が身じろぎ、布が重なり合う音がする。
瞼を閉じたが、眠れない。
自分は案外繊細なんだと、気付いた珊瑚であった。
◇◇◇
翌朝、遠くから紺々の声が聞こえ、珊瑚は目を覚ます。
外はまだ暗かった。
目をパチパチと瞬かせる。
薄暗い中だったが、はっきりとわかる。いつもと見える天井が違うことに。
ふと、胸元に寒気を覚える。がばりと起き上がれば、自身の姿に驚くことになった。
深衣の襟がはだけ、胸がむきだし状態になっていたのだ。
ぎょっとして、襟を元の位置に戻す。
慌てて隣を見たが、紘宇は安らかな顔ですうすうと寝息を立てていた。
大きく胸を撫で下ろす。
「あの、珊瑚様?」
「あ、はい、今、行きマス」
頭の上から布を被り、寝室から出て行く。
この先、本当に大丈夫なのかと、不安に思う朝だった。
珊瑚は紺々の部屋で、着替えを行う。
「これ、きちんと乾いていました」
紺々が差し出すのは胸を押さえる包帯。ふわりと、石鹸の清潔な香りがする。
ありがたく受け取り、体に巻いていった。
「それ、痛くないんですか?」
珊瑚は首を横に振る。
十七の頃からずっとしていたことなので、慣れてしまったのだ。
包帯を胸に巻いたきっかけは、刺青を入れた時。剣を揮う時に胸が邪魔になっていたので、ちょうどいいと気付いたのだ。
「珊瑚様は、武官様だったのですね」
「ぶかん?」
「戦うことや、守ることを、お仕事にされている方ですよ」
「ああ」
ゆっくり話してくれたので、言っていることが理解できた。
「はい、私、ぶかん、デス」
「素敵ですねえ」
紺々と二人、ほのぼのと微笑み合いながら着替えをする。
紺々の手伝いで股衣と上衣下裳を纏い、帯でしっかりと締める。
髪も綺麗に結い上げてもらい、帽子を被った。
「珊瑚様、今日は目元に紅を入れましょう」
コンパクトに入った紅を持ち、目元を示す紺々。
すぐに、紘宇のように化粧をするのだと察して目を閉じた。
すっと、筆で優しく紅が引かれる。
何度か重ねて塗り、完成した様子を丸い鏡で見せてくれた。
「どうですか?」
「こんこんは、どう、思いマス?」
「とっても素敵だと」
その言葉に、にっこりと笑顔を返す。
戦闘準備――身支度は整った。
今日から、新しい日々が始まる。
目を閉じ、瞼の裏に感情はすべて押し隠す。
覚悟を決めた珊瑚は青い華服の裾を翻し、部屋を出た。
◇◇◇
長い長い廊下を歩いていると、遠くから誰かが走って来る。
「あ、あれは――」
紺々がぎょっとしていた。
「ん、誰?」
目を凝らすと、昨晩風呂場で出会った少女――麗美であることがわかった。
「珊瑚様~~!」
全力疾走で接近していたが、ツルツルの床で滑り、珊瑚の目の前で転倒しそうになる。
「ぎゃっ!!」
「危ナイ!!」
麗美が転ぶ寸前に、珊瑚がその体を横抱き――お姫様抱っこで受け止める。
「れいみ、ダイジョブ?」
「は、はい、ダイジョブです」
頬を染め、うっとりと珊瑚を見上げていた。
「あ、あの、私、重たくないですか? 前に兄から、お前はのっぽで体重も重いって、言われたことがあって……」
早口で言葉を聞き取れず、紺々に助けを求めた。
「その、麗美さんは背が高くて、体重もあるので、重たくないかと」
「ちょっと紺々、なんですって!!」
麗美の言ったことを伝えただけなのに、紺々は反感を買ってしまった。肩を竦め、すっかり萎縮している。間に割って入ったのは、珊瑚だった。
「喧嘩、ダメ。仲良く」
「あ、はい、もちろんですわ。紺々は、私の大親友です。ね!!」
迫力のある「ね!!」だった。紺々は戦々恐々としながらも頷く。
「それと、れいみは重たい、ない。ダイジョブ、デス」
「さ、珊瑚さま……」
すっかり、麗美は珊瑚を気に入ったようだった。
「それで、何かヨウ?」
「はい。こちらを、珊瑚様に」
胸の合わせ部分から取り出されたのは、三角の赤い紙に包まれた何か。
「これハ?」
「細工飴ですわ」
紙を開いたら蝶結び状になった、薄紅色の一口大の飴が入っていた。
「わ、カワイイですネ」
「ええ、そうでしょう? 実家から、送って来たんです」
お近づきの印に、珊瑚にくれるらしい。
「れいみ、ありがとうございマス」
「いえ、それほどでも」
珊瑚が微笑むと、麗美は今まで以上にぽぽぽと顔を真っ赤にさせる。
「ン、どうかしたデス?」
「い、いいえ。あ、もうすぐ、朝礼なので、では!!」
紺々とのすれ違いざまには、「ごきげんよう」と笑顔を振りまいて去って行った。
「は、初めて、麗美さんに挨拶していただきました」
「嵐みたいな、娘デスネ」
「本当に」
珊瑚と紺々は、麗美の後姿を言葉もなく眺めていた。