八十三話 游峯の旅 その二
游峯は生まれて初めての船旅であった。もちろん、港街にやってきて、広大な海を見るのも初めてである。
小さくなっていく港街を、船尾から眺める。
閹官仲間に港街出身の者がいた。
市場には毎日新鮮な魚が揚がり、大変賑わいのある場所だと聞いていた。
しかし――先ほど立ち寄った街は閑散としていたのだ。
旅の食料を商店に買いに行ったところ、物価が倍になっていて驚く。
これも、皇帝不在の影響だろう。
国はどんどん、悪いほうへと傾いている。都だけではない。それは、一目瞭然だった。
戦争をきっかけに、国はよいほうへと変わるのか。
紘宇の汪家が、星貴妃の星家が、正しい国に導いてくれたら心強い。
物乞いも、いなくなればいいと游峯は思う。
豊かな治政を得るためには、次代の皇帝が必要だ。
後宮が機能しているうちに、星貴妃は子を産まなければならない。
種馬――夫となる者を探すという、大変な役目を游峯は担っていた。
正直、重荷である。さっさと、汪紘宇と子を作ればいいのにと思ったが、可愛くないというので仕方がない。
紘宇の可愛げのなさは、游峯も同意する。
星貴妃の好みは、珠珊瑚のような者だろう。金髪碧眼の男なんて、この国にいるわけがない。
游峯は珊瑚が巻いてくれた腕の飾り紐を見る。
旅人の女神が導いてくれるというが、ご利益はあるものか。
不安から、はあと溜息を一つ落とした。
船は超満員だった。船代を節約するため二番目に安い第三級の船室を選んだところ、寝泊りする大広間は人でぎゅうぎゅう。
見たところ、若い男が多い。
場所取りに失敗した游峯は、こうやって切ない目を海原と港街へ向けていたのだ。
「よう、お兄さんも南の地方へ職探しかい?」
振り返ると日焼けした船員が「よっ」と言いながら、手を上げている。気さくな船乗りのようだ。
お兄さんもということは、どうやらこの大勢の乗船客は南の島へ出稼ぎに向かっている模様。
游峯もそのうちの一人と思われたようだ。それ幸いと、話題を振る。
「そうなんだ。僕も、母親に無理矢理船に乗らされて……南の島がどんなところで、どんな仕事があるかどうかわからないんだけれど」
「それは大変なこった。南の島は――国内有数の豪族、景家が経営する大農園がある。あそこは不況の波の影響も受けず、比較的平和らしい。物価も、都よりずっと安いんだとよ」
「ふうん」
南の島から安く野菜を仕入れても、関税で値段が跳ね上がる。船の輸送費も高くなっていた。
だったらと、職を失った若い衆は出稼ぎに向かうようになったらしい。
「南の島を領する景家も、出稼ぎの者を好待遇で迎えているとか」
「景家って、後宮入りした人がいたような」
「あ~、いたいた。景淑妃、だったか。あの御方が次代の皇太后になったら、食いもんで困ることもないよなあ」
それはどうだろうかと思ったが、頷いておく。
游峯はさらに探りを入れた。
「そういえば、南の島で妹の夫になる男を探して来いと言われたんだ。島に、良い男っているのか?」
「おうおう、南の島の男は、どいつも明るく働き者で、良い奴らばかりだ」
「そっか」
星貴妃の好みの者がいるかはまだわからないが、話を聞いていると良い男がいそうだった。
「そういや、ドえらい綺麗な男がいるって聞いたな」
「え!?」
詳しく聞かせてくれと、船乗りに迫る。
「なんでも、見たねえないくらい生っ白い肌に、黒光りした髪、ガラス玉みたいな青い目に、見上げるほど背の高い男だ。村の女共は、色っぺー、色っぺーって騒いでいるらしい」
「へえ」
船乗りの説明ではいまいち見た目が想像できなかったが、星貴妃の気に入りそうな男がいたようだ。
背が高く、青い目ということは、珊瑚と同じ異国人だろうか。
俄然、気になる。
「そいつ、どこにいるの?」
「景家の屋敷にいるらしい」
「ゲッ」
その辺にいるのかと思っていたら、景家に身を寄せていると。会える確率がぐっと下がった。
「おじさん、その人見たことある?」
「いんや、ないなあ。この客船に乗って来たらしいけれど、その日は非番で」
「そうだったんだ」
まあいい。良い情報が手に入った。游峯は幸先の良い出発になったと一人満足していた。
◇◇◇
船の中でも、星貴妃の婿候補を探す。
しかし、どの男達も痩せていて、目は落ち窪んでいる。健康そうには見えなかった。
今まで、自分達は贅沢な暮らしをしていたのだなと、実感することになる。
船内には食堂があって、朝と夕の二回食事が提供された。
乗船賃に食費は含まれておらず、各自負担で食べることになる。
夕食時、游峯は食堂に向かった。
机や椅子などはなく、床に座って食べるようだ。
游峯は閹官時代の一日の給料と同じ値段の代金を支払い、食事を受け取った。
物価が上がっているので、価格が十倍以上にはね上がっているのだ。
食事の内容は――粥と漬け物のみである。
「うわ……」
粥はほとんど具がなく、漬け物は塩気がない。
想像上の貧しい食事に、游峯は言葉を「ひでぇ」と漏らした。
毎日これだと、游峯も出稼ぎの男のようにやせ細ってしまう。
早く南の島にいる良い男を連れ帰らなければと、決意を固めた。