八十二話 游峯の旅
游峯は旅に出ることになった――良い男を探しに。
「なんだよ、良い男って」
ぶつくさと呟きながら、旅装束を整える。
結局、昨晩はふて寝をしてしまって、準備をしないままだった。
朝食はいつもの通りだった。女官が用意してくれる、至れり尽くせりのもの。
星貴妃の傍付きである游峯は、召使いの身分でありながら特別な扱いをされていた。
このあと旅に出るとは、まったく実感がわかない。
しかし、星貴妃が現われて「早う行け」と急かされると、否が応にも旅に出なければならないのかという気になる。
游峯は替えの服や女官からもらった餞別の菓子などを、大きな布に纏めて包む。
恰好は、目立たないほうがいい。
そう思って、星貴妃より賜った美しい青の服は抽斗に戻す。代わりに、閹官時代に着ていた、よれよれとなった服を引っ張り出した。
もう、二度と袖を通すことはないと思っていたが、捨てられなかったのだ。貧乏性が幸いする。金を持っているような装いは、自らの危険に繋がるのだ。
藁を編んだ帽子を被り、顔は見えないようにする。荷物を背負い、その上から外套を着こむ。
身支度を整えた游峯は、星貴妃へと挨拶に行った。
「ほれ、これを持っていけ」
差し出された革袋を受け取る。ずっしりと重かった。
中は、見たこともないほどの大金である。
「なっ、これ……!」
「旅の資金と、連れてくる男へ渡す褒美の前金だ」
「ゆーほう、私からは、これを」
游峯の腕に巻かれたのは、よれよれの花を編んだ青い飾り紐であった。
「昨日、こんこんと編みました。一晩で作ったものなので、上手くできませんでしたが」
「いや、一晩とかそういう問題じゃなくて、謙遜するまでもなく、どヘタクソだけど」
「す、すみません。星の形は、難しくて……」
花かと思っていたものは、星を模したものであった。
「これは、金色の女神という、私の国で導きの星と呼ばれる旅人の道しるべです。どうか、女神のご加護がありますように」
「まあ……ありがとう」
最後に、星貴妃が游峯にぐっと接近し、耳元で囁く。
「国内の情勢はかなりよくない。危ないと思ったら、戻って来るんだ。それから――」
星貴妃が右手を上げる。さすれば、麗美が鳥籠を持って来た。
「こいつを、連れていけ」
「は?」
鳥籠の中にいたのは、灰色の鳩である。
「何コレ。非常食?」
「違う。伝書鳩だ。これは、どこにいても、私のもとへと戻ってくる。火急の知らせがあれば、使え」
鳥籠から出して脚に括りつけた紐を引くと、星貴妃の手のひらにちょこんと飛び乗った。
それを、游峯へと差し出す。
渋々と紐を受け取ったら、肩に飛び乗った。耳元で「ポッ!」と鳴く。
「せっかくだ。旅のお供に名でも与えてやれ」
「……鳩一号」
「安易な」
游峯は鳩一号と共に旅立つ。
◇◇◇
游峯は短くても一年くらい後宮でぬくぬくできると考えていた。しかし、現実は厳しい。
女官達に見送られながら、後宮を出る。
空は曇天。肌を突き刺すような冷たい風がヒュウヒュウと吹いている。
旅のお供は一羽の鳩のみ。案外大人しく、じっと游峯の肩に止まっていた。
馬車に乗せられ、広大な皇帝の敷地内をあとにする。
街へ降りるのは、数年ぶりだった。基本的に、閹官は後宮の警護を命じられる場合が多い。
外出できるのは、一部の高官だけだった。
華烈の都は――以前の記憶では美しく華やかな街だった。
しかし、大通りを見た游峯は呆然とする。
何度も重ね塗りされた赤い塗装は褪せたり、剥がれたり。
大変賑わっていたのに、今は人通りもまばらだ。
客引きの声でうるさいくらいだったが、それもない。
魚屋の店先を覗き込む。
港から毎日新鮮な魚があがっていたが、今日は小さな鯵が数匹並ぶばかり。
「いらっしゃい」
「ねえ、今日ってこれだけ? 海が時化ていたの?」
「いいや、違うよ。最近漁師への税金がはね上がったから、廃業になって、みんな辞めちまってこのザマさ」
「そんな……」
八百屋や精肉店はマシだったが、それでも品数はぐっと減っていた。冬だから、というわけでもないだろう。
理由は一つである。皇帝の不在だ。
皆が皆、好き勝手な政をした結果がこれなのだろう。游峯でもわかる、ありさまだ。
街の様子は、悲惨なものであった。
話を聞いたら、たった数ヶ月でこのような状態になってしまったらしい。
今は、一ヶ月に一度塗っていた店の塗料を買う金もないと話す。
街の様子はどこも悲惨だった。
これならば、他国に攻め入られても仕方がない状態である。
街を見回る兵士も、一度もすれ違わない。
皆、戦場に送り込まれたのだろう。
路地裏では腹を空かせた子ども達が、物乞いをしている。
ふと、実家のことを思い出す。最悪の事態が脳裏を過った。
しかし、すぐに頭を振る。
今は、寄り道をしている場合ではなかった。
北の大陸で戦争が始める。
ならば、游峯は南に行けと、星貴妃は命じた。南の地方の者は、気質も穏やからしい。
星貴妃の気に入る者がいるかどうかはわからないが、行くしかなかった。
游峯は港街に移動し、南の大陸へ向かう船に乗り込む。
一週間の長旅であった。