七十六話 ありったけの勇気と共に
紘宇の愛を信じる。
それは簡単なことのようで、とても難しい。
けれど――勇気を出さなければ、前には進めない。
「こんこん、私、こーうと話をしてきます」
「珊瑚様……はい!」
紺々の応援を受け、珊瑚は紘宇のもとへと行く。
昨晩のように、美しい装いではなく、いつのも男装姿だったけれど、本当のことを打ち明けようと思った。
◇◇◇
吹きさらしの渡り廊下を歩いていると、雪がはらはらと降っていることに気付いた。
地面は雪の絨毯が敷かれたように真っ白だ。
初恋も、雪と同じようなものなのかと、珊瑚は思う。
しんしん、しんしんと降り積もり、春になったら溶けてなくなる。
それが、季節の流れというものだ。
初恋もきっと、そうなる定めなのだろう。
紘宇にだったら、すべてを捧げてもいいと思っていた。
もう、彼のように胸の奥底を焦がす相手もいないだろう。
恋とは、なんて辛いものなのか。
珊瑚は何度思ったかわからない。
ひゅうと吹いた風が、珊瑚の肌を粟立たせる。
冷たい風ならば耐えることはできるのに、想いはそうもいかない。
珊瑚は奥歯を噛みしめ、一歩、一歩と私室へと戻った。
扉の前で、息を大きく吸い込んで――吐く。白い息が、ふわりと浮かんだがすぐに消えた。
紺々と話をしている間に、紘宇は戻って来ているようだった。
意を決し、珊瑚は部屋の中へと入った。
部屋の中は火鉢が置いてあり、温かい。今まで寒い場所にいたので、指先がジンジンと痛む。
紘宇は窓の縁に腰かけ、外の景色を眺めている。
灯篭の灯りが照らす彼の横顔は、とても美しい。
「ただいま、もどりました」
「遅かったな」
「こんこんと、お話をしていました」
「相変わらず、仲がいいな」
「お友達、ですから」
珍しく、紘宇が珊瑚に傍に来るように言う。
何か、話があるのか。
珊瑚は紘宇の前に片膝を突いた。
「違う。隣に座れと言ったのだ」
「あ、はい」
部屋から突き出た窓は、足を伸ばしてゆったりと座れるようなスペースがある。ここは紘宇がいつも読書をしたり、休んだりしていた場所だ。
隣に座るように言われ珊瑚は嬉しく思いながらも、何か真剣な話があるのだと思って引き締めた表情で腰かける。
「今まで、いろいろあったな」
「え?」
「牡丹宮にお前が来てからだ」
いろいろと言われ、恥ずかしくなる。
最初は言葉を半分も理解できずカタコトで会話を行い、互いに勘違いをしていた。
珊瑚は紘宇のことを年下の青年だと思い、紘宇は珊瑚を男だと思っていた。
紘宇の勘違いは、今も続いているわけだが――。
「牡丹宮内の空気だけでなく、星貴妃や女官達は、変わったように思える。皆、よく笑うようになった」
そう言った瞬間、紘宇も微笑んだ。穏やかで、見惚れるような美しい笑みだ。
胸がぎゅっと締め付けられる。
それは、風の冷たさよりも、冷えきった指先が温められることによって感じる痛みよりも、ずっと切なくて辛い。
もしも、拒絶されたとしたら、二度とこの微笑みは見ることができない。
だから、こんなにも苦しくなるのだ。
「どうした?」
「いえ……」
紘宇は珊瑚の手をそっと握る。まるで、大事なものに触れるかのように、やさしく。
彼の手は、とても温かった。
「手が、冷えきっているではないか」
「す、すみません」
「なぜ謝る?」
「こーうの手が、冷たくなります」
「私はいい。普段から、こんななのか?」
「いえ、今日は、外が、寒くて」
「もっと着込め。体を冷やすな。ずっと、温かい場所にいろ」
「それは……」
服を重ねて着たら、動きにくくなる。そうなれば、戦えない。
もしも、珊瑚がただの女で、紘宇の妻であったら、笑顔で頷いていただろう。
しかし、今の珊瑚は罪人で、剣を腰に佩くことを許された者の一人であった。
どうしてなのかと、自身に問う。
国では、腰に剣を佩いていながらも、女であることを許されていた。
誰も、珊瑚に戦うことを強いていなかった。
けれど、その当時は男とか女とか、そういうことに頓着していなかった。
しかし今は、女でありたいと、強く思う。
せめて、夜だけでも、女になれないものか。
紘宇が、許してくれないだろうか。
そっと、紘宇を見る。
囁くような低い声で、ずっと秘めていた言葉を口にする。
「私は――あなたに、嘘を吐いています」
勇気を振り絞って言ったのに、紘宇の反応は薄いものであった。
「そうか」
あまりにも淡白だったので、胸の中にじわじわと不安が広がった。
もしや、気付いていたのではとも思う。
「こーう」
声が震えてしまった。早く言って楽になりたいのに、言葉が出てこない。
ジワリと浮かんだ表しようのない感情は、涙となってあふれ出る。
紘宇は珊瑚の眦に手を伸ばし、涙を親指で拭った。
「お前は……嘘を吐く奴ではない。吐いていたとしたら、よほどの事情があるのか、誰かに言わされているかだろう」
ぶんぶんと首を横に振る。
嘘を吐いていたのは紘宇に嫌われたくなかったからだという――保身のためだ。
「辛いのならば、言わなくてもいい。私はお前の嘘を、気付かないようにしておく」
「しかし、こーう」
紘宇は珊瑚を引き寄せ、抱きしめながら耳元で囁く。
「私は、お前の嘘もひっくるめて、愛するようにしよう」
「!」
涙が、あふれ出てくる。
それが喜びのものか、困惑のものか、なんなのか、珊瑚にはわからない。
ぽろぽろと、止まることなく涙が零れる。
「珊瑚」
「はい」
「私も、お前に言わなければならないことがある」
「?」
耳元で囁かれた言葉は、想像を絶するものであった。
「お前の国が兵を率いて攻めてきている。私は、戦場に行かなければならない」