七十話 武芸会にて その一
早朝、珊瑚の身支度が開始される。
服装は贅が尽くされた、絹製品であった。星貴妃の色である、青で揃えられる。
上は青地に金糸で蔦模様が刺された襟で、肩や胸に牡丹の花が描かれた豪奢な意匠だ。下は丈の長いもので、濃い青と薄い青の布を重ねて濃淡を作っているという、美しい装いである。肩から腕にかけて、透けるほど薄く長い絹の肩掛けをかけた。
靴は動きやすい、踵のない物が用意される。足元は見えないので、問題はない。
髪は櫨蝋で固められ、黒く長い鬘を被った。髪は頭部で輪を二つ作り、髪飾りを挿す。
紺々から貰った珊瑚の髪飾りと、星貴妃の流蘇が挿された。他にも、花細工や金の櫛で飾られる。一気に、頭が重たくなった。
その後、何種類もの化粧水をしっかり塗りこまれ、白粉をはたかれる。
眉墨で眉を黒く染め、額には花鈿と呼ばれる額の化粧を行う。縁起の良い、梅の花が描かれた。目元にも、朱色が引かれる。
口紅と頬紅を塗ったら、化粧は完璧なものとなった。
「珊瑚様、お美しいですわ」
身支度を手伝った麗美がうっとりと言う。
珊瑚は笑顔を浮かべながら、礼を返した。
「そうだな。昨日よりも、綺麗に見える」
大股で部屋を闊歩しながらやって来たのは、武官の服と帽子を被った見目麗しい青年である。
背は珊瑚より少し小さいくらいか。長い髪を三つ編みにしており、一切の隙がない目元はキリリとしている。なかなかの色男であった。
彼はいったい誰なのか。
珊瑚の頭上には、疑問符が浮かんでいた。
「あ、あの、あなたは?」
「なんだ。私のことが、わからないのか?」
珊瑚の肩を掴み、ぐっと顔を接近させる。唇と唇が付きそうなほどだったが――ここで誰か気付く。
「ひ、妃嬪様、でしょうか?」
「そうだ。今気づいたのか」
「す、すみません」
星貴妃は完全な男装を見せていた。声も普段より低いので、星貴妃と気付く者はいないだろうと、本人も自信があるらしい。
「どこで気付いた?」
「匂いです」
「は?」
「妃嬪様の匂いで気付きました」
「お前は犬か!」
その言葉を否定する言葉が見当たらず、笑うしかなかった。
皆、身支度は整ったようだ。紺々が報告してくれる。
「たぬきも、綺麗にしてもらったぞ」
「たぬきも、ですか?」
「そうだ。どれ、たぬきを連れて来い」
侍女の一人が、たぬきを抱いてやって来る。
「わ、かわいい!」
たぬきは、星貴妃を象徴する青で仕立てられた服を着ていた。
「あの、もしかして、たぬきも武芸会に連れて行くのですか?」
「そうだ。存分に、たぬき自慢をしてくるといい」
「はい! ありがとうございます!」
最後に珊瑚は冪蘺と呼ばれる絹製の紗を頭からすっぽりと被る。顔には白磁の仮面を被っているので、視界はとことん悪い。
前を歩くのは、紘宇だ。迷いのない足取りで、歩いているように見えた。彼が視界にいるだけで、珊瑚は安心する。
牡丹宮を警備する閹官も、今日は護衛として連れていた。大所帯であった。
女官達が珊瑚の周囲を取り囲み、左右の二人が手を引いて誘導している。
まるで、お姫様のような扱いだ。当然である。珊瑚は、星貴妃の身代わりを務めているのだから。
たぬきは紐で繋がれ、傍を歩く紺々が引いていた。トコトコと元気よく歩いている。
会場は四つの後宮が建つ中心部に位置する公園だ。そこに幕を張って囲いを作っている。
近くには、四人の妃が休む平屋も建てられていた。
まずはそこで、四名の妃達が顔を合わせる。
珊瑚は背中をピンと伸ばし、堂々と歩いて行く。
しかし、内心は穏やかなものではない。礼儀を間違えば、それは星貴妃の恥となるのだ。
そんな思考は、途中で中断することになる。
「妃嬪様、あちらが休憩をする菊花殿となります」
麗美が教えてくれた。
急遽建てられたものだと聞いたが、屋根が重なった寄せ陳造りで立派な建物に見える。
塗ったばかりの赤い柱や壁が眩しいと珊瑚は思った。
菊花殿の中へと入る。石造りの廊下を抜け、星貴妃に充てられた休憩所へと案内された。
椅子に腰かけ、ここでふうとひと息吐く。
「珊瑚、大丈夫か?」
紘宇が片膝を突き、顔を覗き込んでくる。
まるで、童話に出てくる姫君と騎士のようだと思った。
今日は、紘宇も華美な装いであった。思わず、見惚れてしまう。
「……」
「大丈夫じゃないな」
「安心せよ、汪紘宇。たぬきでも膝に乗せていたら治る」
星貴妃の言う通り、紘宇は珊瑚の膝にたぬきを乗せてみる。今日は服を着ているので、服に毛が付く心配はない。
珊瑚はたぬきの頭を撫でている間にハッとなる。
「あ、えっと、こーう、何か言いました?」
「武芸会が始まったら、今みたいにぼんやりするなよ」
「は、はい。わかりました」
もうすぐ、武芸会が始まる。
もしも、紘宇が負けてしまったら、他の後宮で引き抜きになる可能性もあった。
しかし、紘宇が負けるところなど、想像できない。きっと、心配いらないだろうと思っている。
しかし、念には念を入れたい。
「こーう、まじないを、させてください」
珊瑚は先日、紺々に呪いを習ったのだ。
「あまり、上手くできませんが」
それは、手のひらに「護」の文字を指先で書くだけというもの。しっかりと、祈りは込める。紘宇はじっと見るだけだったので、続けた。
「これで、大丈夫です」
紘宇は珊瑚の言葉で我に返ったようで、照れたように「ありがとう」と言っていた。