六十九話 珊瑚、女装までの道のり その五
紘宇は弾かれたように起き上がる。
「……珊瑚、だよな?」
「はい」
胸が張り裂けそうなほどに、ドクドクと鼓動を打っていた。
紘宇は珊瑚を受け入れてくれるのか。それが、一番の課題であった。
ただただじっと見つめ合い、静かな時が流れる。
先に視線を逸らしたのは、珊瑚であった。
「あの、すみません」
「なぜ、謝る?」
「すみません」
せっかく着飾ったのに、紘宇は無反応だった。やはり、女性には興味がないのかと、落胆してしまう。
珊瑚は男ではない。姿形はそう見えても、男にはなれない。
今まで、男になりたいと思ったことはなかった。
騎士として身を立てている中でも女の身を嘆くことはなかったし、比べて劣っているなどと思ったこともない。
しかし、今、この瞬間に、この身が男に変わればいいと望んでしまった。
恋とは、実に愚かなことだと珊瑚は思う。
何もかも擲ってでも、成就させたいと願うのだ。
だから、初恋は実らないのだろう。
もう、ダメかもしれない。
そう考えたら、着飾っている自分が馬鹿馬鹿しくなる。
落胆から顔を俯かせたら、シャランと髪飾りが鳴った。
髪には、星貴妃に借りた流蘇と、紺々から貰った珊瑚の髪飾りが挿さっている。
珊瑚はハッと我に返った。
この装いには、紺々や星貴妃の思いが込められていると。
紘宇は女性らしい装いに興味がないかもしれない。しかし、彼を誘惑させなければ、紺々が星貴妃の身代わりを務めなければならないと思う。
命を狙われる可能性がある役割を、させるわけにはいかなかった。
珊瑚は一瞬にして、覚悟を決める。キッと顔を上げ、紘宇をまっすぐに見た。
見られた紘宇は、驚いた顔をしている。
「おい、どうした?」
「あの――」
普段ならば、絶対に訊かないようなことを言ってみる。
「私のこの恰好、どう、思います?」
寝台に手足を突き、四つん這いの恰好でじりじりと紘宇に接近した。
返事はない。
乾いた唇をぺろりと舐め、紘宇を見上げる。
「お前、酔っているのか?」
その問いかけには、コクリと頷いた。そして、追い打ちをかけるような反応を返す。
「ええ、あなたに」
その言葉を言った瞬間、くるりと景色が反転する。
瞬く間に、珊瑚は紘宇に押し倒されてしまった。
「んっ、こーう!」
紘宇は珊瑚を跨ぐように膝を突き、両手首を押さえている。
見下ろす目は――肉食獣のようだった。
珊瑚の肌は、ぞくぞくと粟立つ。
ジワリと、眦が熱くなっていくのを感じた。
それは羞恥心か、それとも喜びか。
誘惑は――成功した。そう受け取っていいのか。
濡れた目で、そっと紘宇を見上げた。
「なんで、今日、こんなことをする?」
それは――星貴妃に紘宇を誘惑してこいと言われたからだ。
言えるわけもないが。
「ただでさえ、明日は武芸会で、気が昂っているというのに」
「こーう、ごめんなさい」
「お前はいつも、そうやって謝るばかりだ」
「ごめんなさい」
「なんの謝罪だ?」
「好きになって、ごめんなさい」
珊瑚の眦から涙が溢れ、頬を伝っていく。
「なぜ……謝る?」
珊瑚は男ではない。紘宇の好みから外れているのだ。
今、それを告白する勇気はなかった。
「もしや、私の今までお前に示した好意は、伝わっていなかったというのか?」
珊瑚はぶんぶんと首を横に振る。
紘宇は照れ屋で、わかりやすい好意を向けることはない。しかし、珊瑚のことは好きだと言ってくれた。
堅物の紘宇からしたら、最大の愛情表現だろう。
「じゅ、十分、こーうの愛は、伝わっています。でも……」
震える声で、言葉を振り絞る。
「わ、私は、自分に自信がないのです……!」
星貴妃の言うとおりだった。いくら見た目を美しくしても、中身が伴っていなければ意味がない。
情けなくなって、余計に泣けてくる。
「泣くな」
「は、はい」
そう返事はしたものの、涙はとめどなく溢れ出てきた。紘宇は珊瑚の頬に手を伸ばし、指先で拭った。
「色気のない泣き姿だ」
「え?」
「おかげで、冷静になれたぞ」
「……」
珊瑚は衝撃を受ける。
やはり、誘惑は失敗だったのだ。
「あ、あの、こーう」
「なんだ?」
「どうして、私を押し倒したのですか?」
「……」
紘宇はそっと顔を逸らして答えた。
「隙が、あったからだ」
「!!」
そもそもこのように押し倒したのは、色気も何もない話だったようだ。
紘宇の肉食獣のような目付きは、珊瑚の魅力に中てられたのではない。単なる捕食者の目だった。
「しかし珊瑚」
名前を呼ばれ、ドキリと胸が高鳴る。紘宇は、滅多に珊瑚の名を呼ばない。
ぐっと接近し、耳元で囁いた。
「今日のお前は、とびきり美しい」
内緒話をするかのような低く艶のある声で言われたため、珊瑚は恥ずかしくなって頬を薔薇色に染める。
「お前は――」
「?」
紘宇は頬を撫でるように触れた。ぐっと接近し、もう少しで唇同士が触れそうな距離まで近づく。
珊瑚はドキドキしていたが、すぐに紘宇は離れた。
「いや、今日ではない」
紘宇はぼそりと呟いたあと珊瑚の上から退き、腕を引いて起き上がらせた。
「まったく、らしくないことをした。……私も、お前も」
「はい」
「どうせ、星貴妃に何か言われたのだろう?」
「それは……」
ここで観念して、白状する。誘惑を成功させないと、星貴妃の身代わり役ができないということを。
「翼紺々を人質にされたから、このようなことをしたのだな」
「申し訳ありませんでした」
星貴妃にはなんと報告すればいいのか。珊瑚は困り果てる。
「星貴妃には、誘惑が成功したと言え」
「え!?」
「なんだ、え? とは」
「だ、だって、誘惑なんて、欠片も……」
紘宇は目を泳がせながら言った。
「最後の、私が褒めたあとの表情は、なかなかそそった」
珊瑚は目を見開き、口元に手を当てる。
「だから、自信を持って報告するといい」
「こーう!!」
珊瑚は感極まり、紘宇に抱きついた。
「ありがとうございます!」
勢いあまって、押し倒してしまった。
「おい、何をする!」
「ありがとうございます!」
「何がありがとうだ」
「だって、謝ると、こーうは怒りますし」
「時と場合による!」
いろいろあったが、珊瑚はなんとか紘宇の誘惑に成功した。