六十八話 珊瑚、女装までの道のり その四
珊瑚は青い目を見開き、星貴妃をただただ見つめる。
紘宇を誘惑するように言われた。それは、どういう意味があるのか。
「理屈がわからぬ、という顔をしているな」
「はい」
「汪紘宇は都一の堅物だ。あれを虜にしたならば、己に自信が持てるだろう」
たしかに、そのとおりだと思う。
「さあ、今から誘惑をしに行くのだ」
「え!?」
「え、ではない。武芸会は明日だぞ」
「ですが、時間が……」
「朝まで十分あるだろう。私はもう寝る。報告は、明日の朝に聞こう」
「も、もしも、失敗したら、いかがなさるのです?」
「失敗した時の話はしとうない。しかし、お主がどうしてもできぬというのであれば――」
寝椅子に腰かける星貴妃は、姿勢を変える。目を伏せ、流し目で珊瑚を見る。
どれだけ頑張ってもできなかった、色っぽい目付きを星貴妃は難なくしているのだ。
「どうした?」
「いえ、今の目付きが、大変妖艶だったなと」
「無意識だったが」
ここで、星貴妃はぷっと噴き出して笑い出す。珊瑚の流し目の練習を思い出してしまったらしい。
「お主の流し目は、傑作だった」
「とても、難しかったです」
流し目をやる度に、星貴妃より「お腹が空いている犬のようだ。可哀想に」と、饅頭を貰ってしまう悲壮感溢れる結果になっていた。
「どうれ。もう一度、してみてくれ」
「ええ……」
珊瑚は一度目を閉じて、星貴妃より顔を背ける。
先ほど見た妖艶な流し目を思い浮かべつつ、伏せ目がちに開いて星貴妃を見たが――。
星貴妃は涙を浮かべ、豪快に「ははは」と笑い出す。
「可哀想に。お腹が空いているのだな。近う寄れ、菓子をやろう」
「うっ……!」
どうやら、またしても失敗してしまったようだ。
星貴妃は寝椅子の傍にある円卓に置かれた壺から一口大の干菓子を取り出し、やって来た珊瑚の口の中に入れてやる。
珊瑚は床に片膝を突いたまま、立ち上がれずにいた。
「申し訳ありません、私が、ふがいないばかりに」
「よいよい。これはこれで、愛いものだ」
目指しているのは妖艶だ。可愛いではない。珊瑚は盛大に落ち込んでいた。
落ち込んでいる様子を見かねたからか、星貴妃は髪に挿していた簪を引き抜く。
金細工に房が垂れた流蘇を珊瑚の髪に挿した。
「こ、これは!」
「貸してやるぞ」
星貴妃は円卓の上にあった手鏡で、珊瑚の姿を映す。
「世界一の美妃だ。私が言うから、間違いない」
「ありがとうございます。髪飾りも、とても綺麗です」
「その、珊瑚の簪ともよく合う」
「こんこんが、贈ってくれて……」
「そうか。あの娘、なかなか見る目があるな」
「はい!」
だんだんと、自信が湧いてくる。なんだか、うまく行きそうな気がしてならない。
が、その前に、話が中断されていたことを思い出す。
「あの、妃嬪様、先ほど言いかけていたことで、もしも私が、その、誘惑に失敗した時は、どうなるのかと」
「ああ、それか。それはだな――翼紺々を身代わりにする」
「え!?」
珊瑚の誘惑が失敗したら、紺々が星貴妃の身代わりを務めることになる。
命を狙われる、危険な役割なのだ。
「そ、そんな、こんこんが、身代わりを……」
「誘惑し損ねたらどうなるのか、わかっているな?」
珊瑚はコクリと頷いた。
そしてふらりと立ち上がると、キレのない抱拳礼をして下がっていく。
「あの、たぬきは……」
「たぬきは置いてゆけ。一晩、預かっておく」
「はい、お願いいたします」
珊瑚は布を被って姿を隠し、一礼したのちに部屋を出た。
◇◇◇
ふらふらと彷徨うように廊下を歩く珊瑚に、紺々が声をかける。
「あの、大丈夫ですか?」
「こ、こんこん」
珊瑚は紺々を見ると、目頭が熱くなってその身を抱きしめてしまった。
「さ、さん……」
女装姿は珊瑚と呼ばないようにしている。よって、紺々は言葉を呑み込んだようだ。
「こんこん、私、頑張りますので」
「え、ええ。応援、しております」
とりあえず、今宵は紺々を下がらせる。
化粧落としや着替えは、自分でできると言っておいた。
「身支度がありますので、日の出前に参ります」
「はい、よろしくお願いいたします」
紺々とは部屋の前で別れた。珊瑚は一人で廊下を進んで行く。
星貴妃と話し込んでいたからか、すっかり夜も更けてしまった。
おそらく、紘宇は寝ているだろう。
しかし、このままでは紺々が星貴妃の身代わりを務める事態となってしまうのだ。
なんとしても、紘宇を誘惑しなければならない。
私室に辿り着いた珊瑚は、深呼吸したのちに扉に手をかける。
居間も執務室も真っ暗になっていて、紘宇は眠っているようだ。
酷く緊張していて、胸がバクバクと高鳴っていた。
一度胸に手を当てて、もう一度深呼吸をした。
紘宇は女装姿を見てどう思うのか。
もしかしたら、ガッカリされるかもしれない。
彼は女性に興味がないのだ。
しかし、それを乗り越えた上で、誘惑を成功させなくてはならない。
成功したら、珊瑚の自信となる。
意を決して、寝室に入った。
寝室も真っ暗だったが、珊瑚が戸を開いた音に紘宇は反応し、モゾリと動く。寝ていたのに、起こしてしまったようだ。
「こーう、ただいま、戻りました」
「星貴妃のところで休むかと思っていたぞ」
「すみません」
二人の間には、御簾が下ろされている。
珊瑚は寝台に上がり、頭から被っていた布を取り去る。
枕元にあった角灯に火を灯すと、紘宇の寝姿が浮かび上がった。
「こーう」
一度声をかけてから、御簾に手をかける。
「どうした?」
紘宇は起き上がる。
そして、女装をした珊瑚の姿を見て、瞠目していた。
珊瑚は星貴妃に「お腹が空いた犬のようだ」と言われた流し目で紘宇を見て、ふわりと微笑んだ。