六十四話 まさかのお役目
游峯は左足をぐっと踏み出し、指先を刃のようにした右手を首もとへと突き出す。
攻撃が届く前に紘宇はひらりと回避し、伸ばされた游峯の腕を掴むと一気に引いた。勢いのままに、游峯は転倒する。
「ぐわっ!」
悲鳴を上げつつ倒れた游峯に、紘宇は鋭い手刀を首元に突き出したが、当たる寸前でピタリと止めた。
ぎゅっと目を閉めていた游峯は、恐る恐る瞼を開く。
紘宇は低い声で声をかけた。
「実戦ならば、お前は死んでいた」
「しゅ、手刀で、殺しができるの?」
「できる」
戦闘が終了すると珊瑚は勢いよく立ち上がり、紘宇に手巾を持って行く。
「こーう、どうぞ」
「ああ」
受け取った紘宇は、額の汗を拭っていた。
続いて、珊瑚は倒れたままの游峯に手を貸しに行こうとしたが、星貴妃より待ったがかかる。
「よいよい、そやつは放っておけ」
訓練は暗殺者を欺くため、後宮にある地下の部屋の一室で密やかに行われている。
表向き游峯は女官だが、実は男で護衛を兼ねているということは一部の者のみが知ることであった。
彼の女装姿は完璧で、どこからどう見ても、絶世の美少女にしか見えない。
ただし、喋るとボロが出るが。
今日は星貴妃も訓練の様子を見たいと言い出した。
初めこそ、星貴妃は膝の上にたぬきを置いて撫でながら嬉しそうに眺めていたが、紘宇の実力が圧倒的に上で、つまらないと言い始めた。
その発言を聞いた游峯は、ガバリと勢いよく起き上がって口答えする。
「こんなピラッピラした服装で、まともに戦えるわけないでしょ!?」
「そうだろうか? 汪紘宇ならば、女装しても見事な勝利を収めると思うが?」
星貴妃はちらりと、紘宇を見る。
「私は女装なんか、絶対にしないからな」
「まだ、何も言っていないだろう。それに、お主が女装しても、可愛げがないことはわかりきっている」
珊瑚は言い合う二人の様子を交互に見て、オロオロとするばかりだった。
「珠珊瑚!」
「は、はい」
星貴妃より、ピシッと団扇で差されながら命じられる。
「次は、お主が汪紘宇と戦って見せい」
「はっ!」
珊瑚は服の上から着ていた金で刺された刺繍入りの華美な上着を脱ぐと、紺々に手渡した。
何度か膝の屈伸して、筋の伸縮をされたのちに、紘宇の前に対峙する。
「こーう、よろしくお願いいたします」
「受けて立つ」
互いに抱拳礼をする。
きちんと、このように挨拶しあって戦うのは初めてだった。いつも、合図なく唐突に戦いは始まっていた。
一挙一動が洗練されていてさまになる紘宇をいつまでも見つけていたかったが、すぐに始め! という星貴妃が出した合図で戦闘が始まってしまった。
接近し、素早く突き出された指先の突きを、珊瑚は冷静に捌く。
上体を捻って攻撃を躱し、左腕を迫る右腕に被せて掴むと、体を引いて密着させる。左手は拳を握って突き出したが、あて身は失敗となる。力技で拘束から逃れられてしまった。
それどころか、腹部への一撃が向かってくる。
珊瑚は咄嗟に体を反転させて回避。次なる攻撃を繰り出そうとしたが――顔を掴まれ、軸足に蹴りを受けてしまい、均衡を崩してそのまま転倒する。
「うっ!」
床に背中を強く打ち付けた上に、額を指先で押さえられて起き上がれなくなった。
勝負はあっという間についてしまう。
手が離された瞬間、珊瑚は跳び上がって戦闘態勢を取ったが、パンパンと星貴妃は手を打って止めさせた。
「ふむ。まあ、煉游峯との手合わせよりは、見ごたえがあったぞ」
珊瑚は深々と、頭を下げた。
星貴妃は秘密の話があると言って、団扇を優雅に振りながら部屋にいる者達を近くに寄らせた。
「皆の者、どれ、近う寄れ。内緒話がある」
それは、武芸会での話だった。
戦いは勝ち抜き戦であった。このままだったら、紘宇一人でも十分優勝できるのではと星貴妃は予測する。
「以前から考えていたのだが、もしも、暗殺者が動くならば、他の妃との交流を行う武芸会だろう。戦力を固めるならば、武芸会のほうではなく、私のほうだ。そこで、一つ提案したいのだが――」
星貴妃はもっと、近付くように命じた。
集まるのは星貴妃が信頼を置く傍付きの女官四名――うち、一名は麗美である。
他、紺々と珊瑚、紘宇、游峯の八名と、たぬき一匹であった。
低い声で星貴妃は発言する。
「私の身代わりを立てようと思っていてな」
武芸会当日、星貴妃は女官を務めるつもりらしい。それから、游峯にも女官をして傍に控えるように命じた。
「武芸会への参加者は、汪紘宇と、残り二名は見目麗しい閹官を借りて行う。先日、それについての話はつけた」
だったら、武芸会のためにやって来た游峯は意味がないではないかと反発した。
「いや、この作戦は女装を得意とするお主あってのものだ」
「別に、女装は得意じゃないし!」
「いや、得意だろう?」
游峯は周囲の者に「そんなことないよね?」と声をかけたが、誰もがそっと目を逸らし、否定しなかった。
游峯は頬を膨らまし、不機嫌顔になる。なんとも可愛らしい拗ね方だった。
星貴妃は目を細め、初孫を愛でる爺婆の眼差しを向けていた。女官達も同様である。
その中で一人、珊瑚は気が気でなかった。
役目が発表される中で、珊瑚だけがまだ言われていなかった。
残る役目は一つしかない。
「珠珊瑚よ」
「えっと、はい」
「お主は、私の身代わりを務めてくれ」
やっぱり、と思いながら心の中で涙を流す。
しかし、妃の役などできるわけない。珊瑚はすぐさま訴えた。
「し、しかし、私では、力不足なのでは?」
星貴妃は後宮の妃の中でも一番の美妃である、という噂が流れていると以前女官から聞いたことがあった。仮面で顔を隠すとはいえ、演じきれる自信がまったくなかったのだ。
「よいよい。最近は、男よりも背が高く、逞しい妃であるという噂も流れておる」
よって、珊瑚にぴったりだと言われてしまった。