五十八話 風呂場にて、大事件
夕方、紘宇より訓練を受けていた游峯が戻って来る。
「ほら、しっかり歩け!」
「くそ……覚えてろよ……」
「おい、煉游峯、何か言ったか?」
「な、なんでもない!」
紘宇はそのまま風呂に向かうようだ。
その様子を見て、游峯はホッとする。
「お疲れ様です」
「まったくだよ」
珊瑚は女官に冷たい飲み物を持ってくるようにお願いする。
游峯はどっかりと、椅子に腰かけた。
「こーうとの訓練はどうでしたか?」
「死ぬかと思った」
「私も、何度か思ったことがあります」
紘宇の手合わせは容赦ない。ひと時でも、気を抜くと体が宙に舞っていることがある。
毎回、投げ飛ばされたと気付いたのは、地面に体を打ち付けた瞬間なのだ。
「こーうとの訓練は、限りなく実戦に近いものです。厳しいですし、体が悲鳴を上げます」
しかし、実力は付く。頑張れば頑張るほど、上達するのだ。
「こーうから教わったことは、かならずあなたの力となるでしょう。きついでしょうが、今が頑張り時ですよ」
游峯は頬を膨らませ、ふんと鼻を鳴らして顔を背ける。
こうしてじっくり見てみると、彼はずいぶんと子どもっぽい容姿をしている。
実に若輩者らしい、態度でもあった。
比べて、紘宇は童顔ではあったものの、態度やふるまいは成熟した大人の男性だった。
どうして、勘違いをしていたのか。
理由として、見た目が大半を占めるものではあったが。
紘宇が風呂から戻ってきたあと、珊瑚は游峯に風呂の場所を案内することにした。
「では、お風呂の場所を教えますね」
「それは私が教える」
突然間に割って入ってきたのは、紘宇であった。
有無を言わさず、游峯の腕を掴んで連行するように連れて行ってしまった。
「え~っと?」
「くうん?」
たぬきと共に首を傾げる。
なぜ、風呂に行く時に游峯は置いて行ったのか。結果、紘宇は二階も風呂場に行くことになり、二度手間になっている。
それに、游峯は珊瑚直属の部下だ。案内するのも珊瑚の仕事であるが……。
紘宇の考えていることについては、いくら悩んでもわからないので頭の隅に追いやることにした。
気分を入れ替えて、紺々の部屋へ遊びに行くことにした。
「こんこんのところに行きましょう」
「くうん!」
たぬきは尻尾を振って、嬉しそうにしていた。
卓子の上に残っていた茶菓子を手土産にすることにした。
女官はこういった菓子も、あまり食べられないらしいのだ。
游峯への歓迎の印であった、白玉団子は本当に美味しかった。紺々にも食べさせたかったと思う。
乾燥果物と、砂糖まぶしの梅を、手巾に包んで懐へとしまう。
「よし、たぬき、行きましょう」
「くうん」
珊瑚とたぬきは軽やかな足取りで紺々の私室まで歩いて行った。
◇◇◇
紺々は珊瑚とたぬきの訪問を喜ぶ。
「どうぞ、いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
「くう~ん」
土産の茶菓子も喜んでもらえた。ちょうど、茶の時間にしようとしていたらしい。
囲炉裏で沸かした湯で、茶を淹れてくれた。
しばし、疲れを忘れてほっこりとした時間を過ごす。
「今日はこのままお風呂に行かれますか」
「はい、そうですね」
いつもの通り、紺々は「ご一緒させていただきます」と言う。
ここで、ハッとなった。
紘宇が突然風呂場に案内すると言ったのは、游峯が珊瑚の風呂の世話をさせると勘違いをしたからだろうと。
上官の世話を下の者がするという話は、騎士にもある。
珊瑚は女性だったので、同性の部下がいなかったのでピンとこなかったのだ。
そもそも、異性同士なので風呂の世話を頼むわけがない。
紘宇は珊瑚のことを男だと思い込んでいるので、仕方がない話ではあるが。
風呂場に向かっている途中、星貴妃付きの女官がやって来る。
「珊瑚様。お探ししておりました」
「はい?」
抱拳礼をしながら膝を曲げたのちに、女官は用件を述べる。
「妃嬪様が、たぬき様を御所望でして」
「ああ、そうでしたか。こんこん、妃嬪様のもとへ、たぬきを連れて行ってください」
「えっと、お世話のほうは?」
「一人でも大丈夫ですよ」
風呂の世話は紺々の体を冷やすことになる。
やんわりと断っていたが、大丈夫と言って聞かなかったのだ。
たまには、紺々もゆっくり一人で入る日があってもいいだろう。そう思って、たぬきを星貴妃のもとへ連れて行くように命じた。
紺々に割り当てられた入浴時間は二時間ほどある。珊瑚は十分ほどあれば入れるので、問題はないだろう。
服を素早く脱いで、胸に手巾を当てて浴室へと入る。
桶で湯を掬い、肩から被った。
ほどよい温かさで、ほうと吐息を吐いた。
浴槽に浸かる前に、体を洗わなくては。そう思って立ち上がろうとしたが――いきなりガラリと浴室の扉が開いた。
「ねえ。背中、流してあげようか?」
聞こえた声は、あろうことは游峯のものだった。
どうやら、珊瑚が風呂に入ったところを目撃して、中に入ってきたらしい。
あとから紺々が来るかもしれないからと、脱衣所の鍵を閉めていなかったのだ。
珊瑚は驚き、その場にしゃがみ込んで叫んだ。
「あの、必要ありません。自分でできますので!」
「遠慮しないでいいから。いろいろ、気を遣ってもらった礼というか」
珊瑚の遠慮も聞かずに、ズンズンと游峯は歩いて来る。
「ほら、手巾を渡して――」
背中を向ける珊瑚から、胸に当てていた手巾を取り上げようと手を伸ばす。
しかし、彼が掴んだものは手巾だけではなかった。
「ひ、ひゃあ!!」
「え!?」
手のひらには収まらない、柔らかなものを力いっぱい掴んでしまう。
それは言わずもがな、男である珊瑚にあるはずのないものであった。