五十六話 星貴妃の新たな愛人? その四
星貴妃から解放された游峯は、子どものように頬を膨らませていた。
突きたくなった珊瑚であったが、怒られそうなので我慢する。
星貴妃の寝屋から出て、廊下を歩いていた。
珊瑚が前で、後に游峯が続く。その後ろを、たぬきがちょこちょこと歩いていた。
「ゆーほう、今から、こーうのところに行って、挨拶をします」
游峯の身分は第二宮官。珊瑚が第一宮官なので、直属の部下という扱いになる。
「え、今、なんて言った? 聞き取りにくかったんだけど」
「えっと、すみません。名前の発音が、難しくて」
「待って。名前って、さっきのゆーほうって僕のことだったの?」
「はい、そうです」
「やっぱりそうだったのか。言っておくけれど、ゆーほうじゃなくて、游峯だから!」
「ゆーほーう?」
「遠くなった! 違う! ああ、もう、腹が立なあ!」
華烈の言葉で一番難しいのが名前の発音であった。日常会話と違って、名前には古代語鈍りという、独特の発音が入る。よって、いまだにきちんと呼べる人は一人もいない。
紺々はこんこん。紘宇はこーうと、珊瑚は好き勝手に呼びやすいよう、呼んでいる。
「すみません……」
「まあ、異国人だから、難しいんだろうけれど」
「ゆ! ……え~っと、ゆうほー?」
「ぜんぜん違う!」
何度か呼びかけてみたものの、一つも言えないという結果に終わる。
キリがないので、名前は呼ぶなと言われてしまった。
気分を入れ替えて、これからの予定について話す。
「今から、こーう……内官のところへ、行きます」
「こーう内官って、汪紘宇のこと?」
「はい、そうです」
紘宇の名前を出した瞬間、游峯の表情は凍り付いてしまう。どうやら、会いたくないらしい。
「僕は宮官だから、会わなくてもいいでしょう?」
「後宮の男性を取りまとめるのが、こーうなのです」
「やだ、会わない!!」
そう叫び、游峯はあろうことか珊瑚の脇を通り過ぎて駆け出す。
「ちょっ、ゆーほう!」
珊瑚はたぬきを脇に抱え、あとを追う。
游峯は風のように、長い廊下を走っていた。
「ゆーほう、待ってください!」
「嫌だ!」
よほど、紘宇のことが恐ろしいらしい。
「こーうは、その、怖くないですよ!」
「嘘つけ!」
「本当です! あ、まあ、ちょっと怖い時もありますが……」
「やっぱり怖いじゃないか!!」
このままでは距離を離されるだけだった。游峯はかなり足が速いようだ。
珊瑚は一瞬の逡巡ののちに、儀礼部の部屋へと入った。
中では、女官達が二胡の練習をしていた。
「やだ、珊瑚様!」
「何か御用ですの?」
「すみません、少し通らせてください!」
稽古部屋を抜け、尚儀部の女官長李榛名の睨む視線に会釈しながら茶室を通り過ぎ、三つめの物置の窓から逆方向の廊下に跳び出る。
「うわ!!」
すると、角を回って走ってきた游峯と鉢合わせすることになった。
逃げないよう壁側に追いつめる。
「な、何を――」
游峯を追い詰め、空いている手で壁にドン! と手を突いた。
珊瑚が脇に抱えるたぬきも、トン! と壁に前脚を突く。
まさかの展開に、游峯は目を丸くしている。
珊瑚はにっこりと微笑みを浮かべながら言った。
「やっと、追いつきました」
一拍遅れて、たぬきも「くうん」と鳴く。
珊瑚の腕と、たぬきの前脚で游峯を囲んだ。
「な、なんで拘束するの!?」
「逃げるので。こーうの所へ行きましょう」
「やだって言っている、って力強いな、あんた!!」
それから、鷹の爪のようにがっしりと游峯の腕を掴み、紘宇のもとへと連れて行く。
游峯が嫌がっていたので、さながら連行のようであった。
逃げられたら大変なので、問答無用で引っ張る。
珊瑚と紘宇の私室に連れて行き、椅子に座らせた。
紘宇は執務室にいるようだ。
游峯が逃げ出さないための対策として、漬物石のようにたぬきを膝の上に置いた。
「た、狸を置くなよ!!」
「少し、そこで、大人しくしていてください」
若干、游峯はたぬきを怖がっているようだった。
野生でしか見たことのない生き物なので、仕方がないだろう。
珊瑚も、犬と思わなかったら連れ帰らなかったかもしれない。
「ああ、尻尾が、尻尾がフワフワ!」
游峯は手先に触れるたぬきの尻尾に悶絶していた。ぶんぶんと振る度に、柔らかな毛が当たるようだ。
「大丈夫ですよ。たぬきは何もしません」
「すごい僕を見てくるんだけど!」
「可愛いですよね……」
しみじみと、珊瑚は言う。
たぬきは世界一可愛い生き物である。珊瑚は游峯に狸自慢をしていた。
「いや、狸なんか飼っているの、世界を探してもいないと思うけれど! だから、ある意味世界一か……?」
たぬきが世界一可愛い件について同意してくれたようだ。
「ありがとうございます。可愛さをわかっていただけて、嬉しいです」
「ねえ、僕の話、きちんと聞いていないでしょう?」
そんなことはないと反論しそうになったが、ここでたぬきについてじっくりと語っている場合ではなかった。
「こーう……内官を呼んで来ますので」
「いいよ、連れて来なくて」
その願いは聞けない。
珊瑚は執務室に行って、紘宇に声をかける。
紘宇は山のように積み上がった巻物に囲まれながら、執務に就いていた。
「こーう、ただ今戻りました。閹官より、星貴妃様の新しい愛人を選び、連れて来ております」
「そうか。星貴妃はなんと?」
「お気に召したようです」
珊瑚の報告を聞いた紘宇は顔を顰める。
「……あの、男嫌いの星貴妃が、か?」
「ええ。閹官ですので、その辺は気にならなかったのかなと」
「なるほどな」
もう少ししたら終わるので、しばし待つように言われた。
執務室から戻ると、扉の開いた音で游峯はビクリと肩を震わせていた。
「内官は、もう少ししたら来るそうです」
「焦らすね」
游峯は盛大な溜息を吐いていた。
たぬきは励ますように、「くうん」と鳴いている。