五十話 星貴妃の野望
大変な騒動だったので早めに眠りたいところであったが、まずは星貴妃に報告にいかなければならなかった。
紘宇は珊瑚の手を引いたまま星貴妃の寝屋まで辿り着いたが、中に入る前に離される。
今回の件についても秘密の話なので、寝台の上に招かれる。だが、紘宇は血塗れだったので湯と新しい服が用意された。
女官は着替えをするようにと、四方を囲む御簾を用意してくれた。
問題は個人用ではなく、紘宇と一緒だったことだ。珊瑚も着替えなければならないらしい。服は二人分、用意されていた。
紘宇を着替えさせて、先に出てもらわなければ。
女であることが、バレるわけにはいかないのだ。
「あの、こーう、私が」
紘宇が手巾に伸ばしていたが、珊瑚が寸前で掴む。湯を十分に浸し、絞った。
「そんなことをお前がせずとも、自分で」
「い、いいえ、やらせてください。こーうの、ために、何かしたいのです!」
焦って行った行動であったが、紘宇の役に立ちたいというのは本心である。
行動を制する言葉は返ってこなかったので、顔に付着していた返り血を拭った。なかなか取れずに、力を入れて擦っていたら痛いと抗議の声が上がる。
「す、すみませ……!」
ここでふと気付く。思いの外、至近距離に紘宇の顔があったので、珊瑚は照れてしまった。
しゃがみ込んで手巾を湯に浸し、水分を多めにするように絞る。
頬からどんどん体が火照ってしまい、最初に湯に手を入れた時よりも熱く感じてしまった。もちろん、問題は自身にあることは分かっている。
二度目は綺麗に血を拭うことができた。
紘宇が珊瑚に背中を向け、帯を解く。するりと上に来ていた華服は落ち、白い上衣と黒いズボンの姿となる。
上衣にも、血が染み込んでいた。
紘宇は舌打ちし、上衣を脱いだ。上半身は裸になる。
「おい、手巾を寄こせ」
「あ、わ、私が拭きます」
「いい」
「やらせてください」
早く着替えろと言われないために、珊瑚は手伝いを申し出る。
「こーう、お願いします」
「そこまで言うのならば、まあ、分かった」
渋られると思ったが、紘宇は申し出を了承し、珊瑚の前にドカリと座った。
素肌に、血がこびりついている。
「あの、こーう」
「なんだ?」
「今日は誰も殺してないですよね?」
「殺していない」
あまりにも血が付着し過ぎていたので、質問してしまった。曰く、一人も殺していないとのこと。しつこく絡んできたので、動けなくなるほどの怪我を負わせてしまったと話していた。また、一人で数をこなしたので、このようになってしまったとも。
「疑うならば、兵部の者を呼んで――」
「いえ、大丈夫です。こーうを信じています」
珊瑚は先ほどの同様に、水分が多めに残るよう絞った。
手巾を広げ、胸辺りに付着した血を拭う。
「怪我は、していないですね?」
「ああ」
「良かったです」
ゆっくり丁寧に拭っていく。血色に染まった湯は何度か交換してもらった。
綺麗になった体を見た珊瑚は、我に返る。
目の前には、鍛え抜かれた紘宇の体があった。今までは作業に夢中で、気付かなかったのだ。
騎士隊でも男性の上半身の裸を見ることは多々あった。その時はなんとも思わなかったのに、紘宇の裸を見るのは酷く恥ずかしい。
珊瑚は顔を逸らしながら、話しかけた。
「えと、終わりです」
「ああ、ありがとう」
下は素肌まで血は染み込んでいなかったらしい。着替えるだけでいいだろうと言っていた。
紘宇が着替えをする様子を視界に入れないよう、珊瑚は目を閉じた上に顔を背ける。
すぐに終わったようなので、御簾の外へと追い出した。
「なんだ、お前は私の着替えを見ていたクセに」
「み、見ていません!」
とにかく、御簾の外で待機をしておくように言った。
こうして、一人きりとなった珊瑚は、大急ぎで着替える。
準備が整ったら、帳が下ろされた星貴妃の寝台の中へと入った。
「問題解決は案外早かったな」
すべては紘宇の奮闘と、現場を取り仕切る能力のおかげである。さすが、元武官だと思った。閹官や武官をどう動かすべきか、彼はきちんと把握していたのだ。
「ん? そういえば、たぬきはどうした?」
珊瑚は紺々にたぬきを預けている旨を説明した。
「連れて来ましょうか?」
「よい。たぬきはまた今度にする。どれ、報告を聞かせよ」
紘宇が淡々とした口調で一部始終を述べた。星貴妃は目を細めながら聞いている。
「なるほどな。しかし、外の武官の警備態勢はどうなっているのか……」
「商人の男は、武官に金を積んで入ったと」
「ならば、暗殺者も同じように、金の力で侵入したというわけか。まったく、兵部はどうなっているのやら」
星貴妃のぼやきに、紘宇は顔を俯かせる。
「ああ、お主は元兵部の者であったな。内部は、どうであったか? もしや、金で地位を得た者もいるのでは?」
「それは――」
「ふむ」
具体的な話を聞くと、珍しく紘宇は言葉に詰まったようだった。
不正は蔓延っていると先ほど怜悧が言っていた。それを、紘宇も把握しているのだろう。
何も言えないということは、認めたことになる。
「あくまでもそういう噂があっただけで」
「しかし、今回の事件でそれが真実であったと証明することになるやもしれぬ」
「まあ、そうとしか言えんが」
とりあえず、暗殺者は全員拘束された。今から、兵部の調査が入るだろう。
「だが、上が腐っていたら、いくらでも真実は揉み消される。でも、後宮に住む我らには関係のないこと――と言いたいところだが、私が皇太后となった暁には、兵部が腐っていたら困る」
珊瑚と紘宇は、星貴妃の発言にパチパチと目を瞬かせる。
突然の皇太后発言に、言葉を失っていた。
「なんだ? 私が皇太后になることが、そんなにおかしいのか?」
のらりくらりと三十になるまで牡丹宮で暮らすと言っていた星貴妃の、意外な野望であった。
「私も、襲撃や今回の事件を受けて、考えが変わったのだ」
命を狙われていたり、内部の守りの脆さを実感したり、上層部の腐りきった内情など、我慢できないことが続いたと語る。
「こうなったら、私が正すしかないと思ってな」
「しかし、皇太后になるには、子どもが必要だが?」
紘宇の指摘に、星貴妃は嫣然と微笑む。
「では、珠珊瑚よ、共に子を作ろうではないか」
「へ!?」
まさかの提案に言葉を失い、全身の力が抜ける。
その隙を見て、星貴妃に引き寄せられ、瞬く間に押し倒されてしまった。
「あ、あの、その、私は、えっと、お風呂に入っていませんし」
「よい、気にするな」
「ほ、他にも、いくつか、き、気になる点がありまして!」
「よい、気にするな」
頬に口付けをされてしまった。真っ赤な紅が、珊瑚の頬に付く。
「ひ、妃嬪さまあ~~」
「ふふふ、愛い奴め」
涙目になる。星貴妃が珊瑚をからかって遊んでいるのは分かっていた。
どうにかして体勢を整えようと思っていた矢先、ゾクリと悪寒が走る。
紘宇が、凄まじい形相で星貴妃を睨んでいたのだ。
「ああ、汪紘宇、お主はそこで応援でもしておけ。御子が授かるようにな」
「本気なのか?」
「ああ、私は本気だ。皇太后になって、この腐った国を正す」
どうせ実家に帰っても後ろ指を差されるばかりだ。最悪、一族の恥として殺されるかもしれない。ならば、別の道を探すしかないだろうと、あっけらかんと言った。
その別の道が皇帝の母――皇太后になることだった。
「そのためには、子種を仕込んでもらわなければいけないことなど、承知しておる」
「それは……」
「安心せい。お主の子種は要らぬ」
星貴妃は高笑いしたのちに言った。
「私にも好みがあるからな! 汪紘宇、お主はまったく可愛くない。私は、珊瑚のように可愛い者が大好きなのだ!」
「だったら」
紘宇は星貴妃に宣言する。
「今度開催される武芸会で、星貴妃好みの男を引き抜いてこようではないか」
武芸会百花繚乱で勝つと、相手の男を牡丹宮に招くことができる。
紘宇は星貴妃好みの男を連れて来ると言った。
「珊瑚より可愛い者がいたら、大歓迎をするとしよう」
「珊瑚より、可愛い……?」
紘宇は腕を組み、眉間に皺を寄せた。小声で、「難しいかもしれない」と言ったのは、きっと聞き違いだろうと思うことにする。