四十八話 月夜の晩に
今回の件は紘宇には関係ない。けれど、メリクル王子のところへ、共に来てくれると言った。
「こーう、こーう……!」
胸がいっぱいになり、言葉にならない。
紘宇を抱きしめ、ひたすら礼の言葉を繰り返す。
「そんなに礼を言うな。この件は、汪家の者である私にも関係のある話でもある」
「しかし、こーうのお兄さんは、いったい何を……?」
「兄上の狙いは最初に聞いたものと同じだろう。星貴妃との間に子どもを産ませるために、お前を送り込んだのだ」
「……はい」
やはり、紘宇も珊瑚のことを男と思い込んでいるようだった。今まで、どうして気付かなかったのか。
異国での生活を送るために、いっぱいいっぱいだったのだと思うことにする。
そんなことよりも、気になることがあったので質問してみた。
「あの、皇家に異国人の血を入れることに関しては、抵抗などなかったのでしょうか?」
華烈は閉鎖的な国に思えてならなかった。しかし、紘宇の兄汪永訣は珊瑚を引き入れ、星貴妃と子作りをさせようとしていた。
「元々牡丹宮に引き入れようとしていたのはメリクル王子で、異国人でも王族の血筋だから良いだろうと考えたのだろう」
異国人との結婚は、ありえないことだとはっきり言われた。
「王族でない代わりに私を連れてきたのは?」
「まあ、兄にとっても、王子を庇ってお前が出てきたことは想定外だっただろう」
しかし、珊瑚を見た瞬間、永訣は星貴妃を陥落させることができるだろうと判断したのだろう。紘宇は兄の狡猾な一面に嫌悪感を示しつつ、当時の事情を推測する。
「とにかくだ。まず、王子を助けなければならん。星貴妃に報告しに行くぞ」
「はい」
◇◇◇
「――なるほどな」
星貴妃はすべての事情を聞き、険しい表情を浮かべている。
「ここ数日、庭を出入りする不審者が報告されていたのだが――まさか、ここと繋がっていたとは」
一応、相手の企みが分かるまで、自由にさせていたらしい。
その分牡丹宮の外の警備は厚くして、警戒していたとか。
「敵の数は、おそらく十か二十か。内部の者の手引きがあるとは思うが、これ以上は無理だろう」
敵の実力のほどは不明である。危険なので、牡丹宮の外を警備している閹官を付けてくれることになった。
星貴妃は女性武官に呼び、戦闘準備を命じていた。
「私も行きたいところであったが」
今回は牡丹宮で待機しておくようだ。
女官達が泣きそうなので、思いとどまったとのこと。
「異国の王子など放っておけ、というのが本心ではあるが――まあ、見ない振りはできぬのだろうな」
「すみません……」
「よい。私はお主のそういう、甘ったれたところが、好きなのだ」
「妃嬪様……」
星貴妃は、今度は紘宇のほうへと視線を向ける。
「汪紘宇。全力で戦い、全力で珠珊瑚を守れ。何かあったら、絶対に許さぬ」
「元より、珊瑚のことは命を懸けて守るつもりだ」
二人の視線の間には、ジリジリと燃えるような熱いものが滾っていた。珊瑚は居心地悪く思う。
ここで、女性武官が戻ってきた。外の閹官の戦闘準備は完了したらしい。
「ふん。想定外の事態のために準備していたことが、さっそく役立つとはな」
星貴妃は閹官達に、庭の侵入者と戦闘を見越した警戒をしておくよう、命じていた。
武官の数も増やすように申請し、新しく配備された武官を招いて歓迎の茶会を行ったばかりだったと話す。
「まあ、よい。珠珊瑚、汪紘宇、欲にまみれた悪漢を、成敗してくるといい」
星貴妃の命令に、珊瑚と紘宇は包拳礼を返す。
「今日の私は大将らしくここでお主らの帰りを待つ。今宵は良い報告しか聞かない。さあ、行け!」
時間は限られている。
珊瑚と紘宇は床に置いていた剣を帯に差し、東屋のある庭へと急いだ。
◇◇◇
空には月灯りに照らされて輪郭が浮かび上がった雲が流れていた。
風で雲が流れ、まんまるとした月が顔を出す。
ピリピリと、緊張感や警戒心の含んだ風が流れている。これは、庭に配備されている閹官のものなのか。
珊瑚は三日月刀の柄を握りしめ、東屋への道のりを急ぐ。
思いの外、落ち着いていることに気付いた。
それは、すぐ目の前に紘宇がいるからだろう。
紘宇が共にいたら、負ける気がしない。
それは今まで感じたことのない、感情であった。
二名、護衛の閹官と合流する。
一人は筋肉隆々として厳つい顔をしており、もう一人は女性のように線が細く背も珊瑚より小さかった。しかも美しい。
闇に慣れた目が、月灯りに照らされた閹官を照らした。
「あの、何か?」
「いえ、すみません」
女性のような閹官に思わず見とれてしまったようだ。
隣に立つ紘宇もそうなのではと、横目で見た。しかし、紘宇の視線は、東屋のある方角を向いていた。
自分も集中しなければと、頬を打つ。
一人、闇色の服を身に包んだ閹官が近寄って来る。
メリクル王子らしき人物が、東屋に到着したことが告げられた。
王子の近くには三名の護衛がついているらしい。騎士ではなく、凱陽が寄こした者だろうと。
それとは別に、数十名の侵入者が潜んでいるという。
まず、珊瑚が一人でメリクル王子のもとへ行くことになった。
「安心しろ。誰も、お前のもとへと近付けさせない。私が斬り捨てる」
「こーう」
紘宇は珊瑚の手を握りながら言った。
しばし見つめ合っていたら、閹官に咳払いされてしまった。
「すみません。メリクル王子に接触します」
「ああ、行ってこい」
珊瑚は一礼し、東屋のほうへと駆けていく。
『メリクル王子!』
『コーラル!」
メリクル王子は駆け寄る珊瑚を抱きしめた。
周囲に潜伏する者に聞かれないよう祖国後で、話しかける。
『あの、殿下、私は――』
『コーラル……あの手紙はどういうことだ?』
メリクル王子への手紙には、紘宇に脅され、毎日犯されているという、とんでもない内容が書かれていたらしい。
『コーラルがそんな目に遭っているとは知らず……』
珊瑚はメリクル王子に抱きしめられたまま、耳元で囁く。
『殿下、今から言うことに、大きな反応を示さないでください』
メリクル王子はコクリと頷く。
『それは私の書いた手紙ではありません』
ハッと、息を呑んでいた。紘宇の名誉のために、犯されているという事実はないことを伝える。
『皆、よい方ばかりで、楽しく暮らしています』
『コーラル……』
『ここからが本題なのですが、殿下は命を狙われております』
『やはり、そうなのか』
『ええ』
メリクル王子は自分を取り巻く状況を、それとなくおかしなことだと感じていたようだ。
しかし、今まで気のせいであると思っていたらしい。
『ここへの呼び出しは、殿下を暗殺するためだろうと』
『そうか……父はそれほどまでに……』
メリクル王子は誰に狙われているか、即座に気付いたようだった。
『華烈への外交を命じられた地点で、気付くべきだったな』
かける言葉は見つからず、代わりに周囲の警戒態勢を報告した。
『周囲には、武官達が潜伏しております。訓練を積んだ者ばかりですので、恐らく負けることはないかと』
恐らく、今は二人の隙を狙っているのだ。
そう耳打ちすると、メリクル王子は提案をする。こちらから、隙を見せようと。
凱陽の護衛を下がらせる。
メリクル王子は華烈の言葉を使い、わざと大きな声で叫んだ。
「ああ、コーラル。なんて可愛い人なのだ。こうして、逢いに来てくれるなんて!」
いきなり始まった情熱的な演技に珊瑚はついて行けず、戸惑いを覚える。
『コーラル、頼むから応えてくれ』
一人でするのは恥ずかしかったらしい。珊瑚も覚悟を決め、メリクル王子の演技に応える。
「アア、王子、私のタメに、ウレシイ……」
頑張って演じたが、片言になってしまった。
周囲から「くっ……」と、誰かの笑いを堪える声が聞こえた。
恐らく、味方のものだろうが、珊瑚は恥ずかしくなる。
『コーラル、あとは任せてくれ』
『すみません、本当に』
身を委ねてくれと言われたので、肩の力を抜く。
すると、東屋にある大理石の卓子に押し倒された。
頬を両手で包み込まれ、口付けする振りをされた。唇は触れるか触れないかの位置で止められている。じっとそのままの体勢でいたが、まだ、襲って来ない。
一度離れたメリクル王子は、珊瑚の服の襟を開いて唇を寄せる。今度は振りではなかった。鎖骨辺りの肌に鈍い痛みが走る。
「――んっ!」
なんだか恥ずかしくなったが、これは演技だと思い込むようにした。
早く出てきてほしい。そう願った瞬間、東屋に一人の男が飛び出して来た。
メリクル王子を殺すために潜んでいた暗殺者であった。
振り上げた剣は――下ろされない。なぜならば、紘宇が男を斬り伏せたからだった。
男が倒れたのと同時に、暗殺者達が襲いかかって来る。
紘宇は周囲の閹官に命じた。
「総員、戦闘用意! 星貴妃の名において、目の前の敵を排除せよ!」
配備されていた閹官が十五名に対し、敵は二十名ほど潜伏していた。
恰好や装備から騎士ではなく、華烈の者であることが判明する。
すぐさまメリクル王子は閹官に保護された。珊瑚は起き上がって剣を抜き、得物を振りかざしてきた男の一撃を寸前で回避する。
剣を突き立て相手の腕を裂き、隙を見て男性の急所を蹴り上げた。
二人目は珊瑚の目の前で倒れる。その後ろに、紘宇が血の滴る剣を携えて立っていた。
珊瑚と目も合わせずに、次なる敵へと切りかかる。
甘く見られていたのか、暗殺者は紘宇や閹官の敵ではなかった。
戦闘能力は低く、まるで相手にならない。
能力の低い暗殺者であった。その場にいた者は誰もがそう思っていたが、事情は異なる。
星貴妃のもとへと送られたのは、閹官の中でも性格に難のある問題児が集まった集団であった。だが、彼らは個々の能力は高かったのだ。
それをまとめ上げたのが、星貴妃である。
知らぬのはこの場にいた当人ばかりであった。
それに、閹官の中に武官の出世頭であった紘宇も混ざっていた。
暗殺者は運が悪かったとしか言えない。
こうして、メリクル王子の暗殺は阻止された。
忍び込んでいた暗殺者は一人残らず生け捕りにされ、兵部に引き渡される。