四十七話 メリクル王子からの手紙
もうそろそろ帰らなければ。ソワソワしていたら考えていることがバレたのか、星貴妃は笑みを深めている。
「なんだ。部屋に戻りたいのか?」
「も、申し訳ありません」
「よい、戻れ」
珊瑚は深々と頭を下げた。
立ち上がった瞬間、手招きされる。
「これを、女官が持って来た」
星貴妃が見せたのは、一通の手紙。宛名はコーラル・シュタットヒルデとある。もちろん、祖国の言葉で書かれていた。
裏面に書かれてある差出人も見せてくれた。メリクル王子の名前があった。
ハッと息を呑む。
「先ほど届いたようだ」
「は、い……」
メリクル王子の字を見た瞬間、ドクンと胸が大きく高鳴った。
何度もペンで書かれてある文字を目で追う。
「読みたいか?」
「許されるのであれば」
つい、早口になった。
「許す。だが、ここで読め」
「はい、ありがとうございます」
手渡された手紙をすぐさま開封する。
便せんに書かれてあったのは一行だけ。実に、あっさりとしたものであった。
しかし、その内容を読んだ珊瑚は瞠目する。
「珠珊瑚よ、いったいなんと書いてある?」
珊瑚は息を大きく吸い、深く吐いた。
胸を押さえ、星貴妃に手紙の内容を報告する。
「その――気が変わったのならば、夜、今日会った東屋で待っている、と」
「なるほど」
手紙を持つ指先が震えた。なぜならば――。
「どうした? やはり、国に帰りたくなったのか?」
珊瑚は首を横に振る。
「あの、少し、こーうと、相談をしたいのですが……」
星貴妃は珊瑚を追及することなく、部屋に帰るように言ってくれた。
別れ際に、信じているからという言葉がかけられる。
珊瑚は深々と包拳礼をして返した。
「あの、こんこん、すみません、お願いがあるのですが」
「はい、なんなりと」
珊瑚はたぬきを紺々へと託す。それから、自分の部屋で待っているように命じた。
一人になると、走って紘宇のもとへと向かう。
扉の前で一度息を整えたのちに、中へと入った。
紘宇は居間にはいなかった。執務室も無人である。
残るは寝室。
そっと戸を開くと、紘宇は寝台の縁に座って窓の外を眺めていた。
「こーう」
珊瑚は紘宇のもとに向かい、片膝を突く。
そして、顔を見上げる。
目を合わせてくれなかった。視線は夜空にある。
いつもはキリリとした目は、ぼんやりとしていた。
どうしたのか。
しかし、それを問いかけている場合ではない。
珊瑚は星貴妃から受け取った手紙を紘宇に見せながら話す。
「あの、今、メリクル王子から手紙が届きまして」
「なんと、書いてあった?」
いまだ視線も合わせず、どうでもいいとばかりの声色で問いかけられた。
「心変わりをしたならば、さきほどの東屋に来い、と」
「行けばいい」
「え?」
「……悪かった。私が引き留めてしまったから、ここに残ることを決意させてしまった。今までずっと考えていたのだ。どうすれば、お前を国に帰せるのかと。王子が迎えに来てくれるのならば、好都合だ」
紘宇の様子がおかしかったわけを察する。
珊瑚を国に帰してくれようと、考えてくれていたのだ。
「あの、私は、こーうと生きることを決意していました。だから、そんな風に突き放されてしまったら――」
「だったらなぜ、仕えていた男の手紙を私のもとへと持って来た?」
「違うんです。これは、この手紙は、メリクル王子の書いた字ではありません」
「なんだと?」
毎日メリクル王子の字を見ていた珊瑚が見間違えるわけもなかった。
手紙に書かれている文字は、他人の書いたもの。
これを意味するわけは――あまり考えたくない。
しかし、見ない振りはできなかった。
「お前を、狙っている、というのか?」
「たぶん」
いったい誰が?
珊瑚を殺して得をする者など、いるのだろうかと考えるが浮かばない。
「そもそもだ。お前はこの国で、いったいどんな罪を犯したのだ? 何をして、宮刑となった?」
墓場まで持って行くつもりであったが、今回の問題と向き合うため、珊瑚は紘宇に話す。
「実は……」
外交で華烈を訪れ、歓迎会のあった翌日に事件が起きた。
「メリクル王子の寝台に、皇帝直属の武官の妻が忍び込んでいて、その夫が糾弾していたのです」
姦通罪は重い罪――つまり、死刑となる。
「武官はメリクル王子をその場で斬り伏せようとしました」
「それで、お前は王子を庇ったと」
「はい」
紘宇は深い溜息を吐く。
「腑に落ちた。ずっと、お前が何をしたのかと、気になっていたのだ」
「すみません」
「確かに、この内容であれば、おいそれと言えることではない」
もちろん、珊瑚が何か罪を犯したとは思えなかったと紘宇は言う。
「おそらく、何か事情があるのではと思っていたが、考えてもまったく見当もつかなかった」
紘宇は珊瑚を信じてくれていた。その事実は、何よりも嬉しいことである。
「お前ほど、真面目な奴はいないからな」
「ありがとうございます……」
ここで、話は事件当日のことに戻る。
「私は、武官に斬られそうになりました。しかし、ここで、こーうのお兄さんが、助けてくれたのです」
「なんだと!?」
紘宇は珊瑚の肩を掴み、本当かと問いかける。
「ええ、ちょうど、刃が届く前に、助けていただきました」
「そんなの、茶番だ!」
「え?」
「いくら罪人とはいえ、その場で処刑することなどありえない!」
ましてや、相手は異国人である。
問答無用に処刑したら、国家間の問題にもなりかねない。
「それに、兄上がその場に偶然通りかかるのはおかしい」
「たしかに……」
すべては仕組まれたことだったのかと、珊瑚は呟く。
「でも、どうして……?」
「共犯者が、お前の国にいるのではないか? 王子を恨んでいる奴とか、いなかったか?」
「――あ!」
メリクル王子は国王の不貞を糾弾した。多くの臣下がいる前で。
もしも、そのことを国王が怒っているとしたら――。
「非常にお恥ずかしい話なのですが……」
珊瑚はメリクル王子が華烈に来ることになった経緯を語った。
紘宇の兄永訣は外交を司る礼部の長官である。国王と繋がっていても、なんら不思議はない。
「しかし、それだけで自らの息子を陥れようとするとは、狭量な……」
紘宇の言葉に同意したかったものの、まだ証拠はない。奥歯を噛みしめ、湧き上がった感情を抑えつける。
「おそらく、だが。王子のところにも、お前が書いた手紙とやらが届いているかもしれん」
「そんな!」
「ちなみに、王子のほうは、お前の文字を知っているか?」
「いいえ、それはないかと」
護衛をしていた珊瑚はメリクル王子の文字を毎日のように見る機会はあったが、逆はありえない。
「ならば、届いた手紙を、王子はお前からと信じて疑わないだろう」
もしも、東屋に行ったらメリクル王子共々殺されてしまう。
珊瑚は血の気の引く思いとなった。
「どうしたい?」
「え?」
「お前は、どう思う?」
「わ、私、は――」
王子が死ぬのを見過ごすことなんてできない。
しかし、一人で刺客と対峙するのは、あまりにも無謀だろう。
一度、故郷は捨てたが、騎士として戦わなければならないのか。
自らに問いかけるが――分からない。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
今は、かつてメリクル王子を守ろうと身を挺して飛び出した時のような覚悟が珊瑚の中になかった。
その地点で、騎士失格だろう。
ぶるぶると、膝の上で握った拳が震える。
今まで自分の命など惜しくなはいと思い、剣を握って来た。
けれど、今、助けなければならない相手がいるのに、恐怖のほうが打ち勝ってしまう。
立ち上がって一歩を踏み出すことが、できなかった。
その感情は、涙となって溢れてくる。
「……珊瑚」
紘宇の声は今までにないほど優しかった。
名前を呼んでもらえて嬉しいのに、喜べない。顔すら、見上げることはできなかった。
そんな珊瑚の手を紘宇は引いて立ち上がらせると、腕の中へと引き寄せる。
幼子をあやすように、珊瑚の背中を擦ってくれた。
「泣くな」
「泣いて、いません」
「泣いているだろう」
その後、会話は何もなく、ただただ、紘宇は珊瑚の背中を優しく撫でてくれた。
涙が止まると、耳元で紘宇は囁く。
「王子を、助けに行くぞ」
「こーう、どうして?」
問いかけにはただ一言の答えが返ってきた。
「お前が泣いているから」