四十六話 星貴妃の暗躍
「う……ん?」
寝返りを打とうして、誰かに頭を撫でられていることに気付く。
その昔、怖い夢をみた晩、母親の寝台に潜り込んだ記憶があった。
母に身を寄せていると、頭を優しく撫でてくれた。そうしているうちに、眠ってしまう。
あれは、何歳だったか。
あの頃は何も知らずに毎日無邪気に過ごし、幸せだった。
今は――。
ここで珊瑚はハッとなる。
「あ、わっ、妃嬪様!」
珊瑚の顔を覗き込むのは、若き日の母親ではなく、星貴妃である。
ずいぶんと寝ていたような気がした。慌てて起き上がろうとしたが、肩を押さえられる。
「まったく学習しない。私が起きろというまで、起きるなと言っただろう?」
「……はい、申し訳ありませんでした」
星貴妃は悦楽の表情で見下ろしている。
珊瑚は恐る恐る話しかけた。
「あの、妃嬪様、私はどれくらい、寝ていました?」
「もう夜だ」
「え!?」
ここに来たのは夕方になるかならないか。夜になっているということは、数時間眠っていたことになる。
「す、すみません」
「いいと言っておる。なかなか、お主の寝顔を眺めるのも愉快であった。眉間に皺を寄せたり、小さな幼子のように微笑んだり」
「ああ、そんな……」
星貴妃は楽しめたと言っていた。ますます恥ずかしくなる。
ここでようやく、起き上がる許可が出た。
「ゆっくり休めたか?」
「はい、おかげさまで……。その、ありがとうございました」
「よい、許す」
ここで、星貴妃に食事に誘われた。ちらりと紘宇の顔が脳裏を過ったが、断ることなどできない。
「どうだ?」
「はい、喜んで、ご一緒させていただきます」
夕食は寝室に運び込まれた。
室内は暗いので、灯篭がいつくも運び込まれる。
「実は、ここに来て誰かを食事に誘ったのは、初めてのことだ」
「光栄の至りです」
閨房に卓子などはないので、膳立てに載せて運ばれる。
いつもは肉と揚げ物の食事であるが、星貴妃の食事は蒸した野菜と魚が中心だった。
膳の上にある小鉢は美しく、料理も色とりどり。
「どうした?」
「いえ、とても、綺麗だなと」
「普段と違うのか?」
「はい」
「なるほど。男は精を付けなければならないので、そのような食事内容なのだろう」
味付けも薄く、上品であった。
「どちらが好みだ?」
「どちらも美味しいです」
「ふむ。好き嫌いがなくてよい」
食後は茶と菓子が運ばれてくる。
酒饅頭に、嗅ぎ慣れた香りを漂わせる茶。
「こ、これは……!」
「紅茶。お主の国で愛される茶だ。今日、商人が来ていただろう? そいつから買った」
「妃嬪様……! もしや、私のために?」
「他に誰が好んで飲む?」
「あ、ありがとうございます!」
「礼は良いから飲め」
「はい」
花柄の磁器の茶器に注がれた紅茶の香りを、めいっぱい吸い込む。
祖国の茶の香りに、気分はホッと落ち着いた。一口飲んで、ほうと息を吐く。
「どうだ?」
「美味しいです」
「そうか」
祖国の茶と、酒饅頭は不思議と合う。
しみじみ思いつつ、味わっていると、星貴妃に見つめられていることに気付いて、喉に饅頭が詰まりそうになった。
「む、どうした?」
「い、いえ、妃嬪様が、私を見ていたので」
「見るのは自由なのだろう。お主は、私の愛人なのだから」
「せ、性別が判明しても、愛人なのですね」
「当たり前だろう」
星貴妃ははっきりと言う。男の愛人は可愛くないと。
紘宇ですら近くに寄り過ぎると、鳥肌が立つらしい。
「その点、お主は可愛い」
「はあ、可愛い、ですか」
「自信を持て」
「ありがとう、ございます……」
以前より、不思議に思っていたのだと言う。男性に触れられるたびに、全身鳥肌が立ち、気分が悪くなるのに、珊瑚は平気だった。
「初めは、珠珊瑚が生殖機能のない者だから、平気だと思ったのだが……」
その点に気付いた星貴妃は、牡丹宮の外の警備を務める武官を労うために茶会を開いた。
彼らも珊瑚同様、生殖能力のない者達なのだ。
「しかし、違った。武官に囲まれた私は酷く落ち着かない気持ちになり、酷く具合が悪くなった」
極度の男嫌いは相変わらずで、その日は食事も喉が通らず、寝込んでしまったらしい。
「あの日は大勢の男を相手にしたから、疲れたのだと思い、今度は隊長だけを誘った。結果は同じだった」
よって、星貴妃は珊瑚だけ平気だということが発覚した。
「だが私は、珠珊瑚だけ特別だということを、認めていなかった」
最後に、珊瑚の男性的な部分を目の当たりにしたら嫌悪感を抱くのでは?
「そう考えた私は、一緒に風呂に入ろうと思った」
「は、はあ、それは……びっくりです」
「それくらいしか、方法を思いつかなかったのだ」
星貴妃は一週間、風呂に張り付く。珊瑚が入り浴室に行ったあと潜入しようと考えていた。
「しかし、待てども、待てども、待てども。お主は風呂にやって来ない。毎日、毎日、毎日、来るのは汪紘宇ばかり。いったいどうしたものか。不思議でならなかった」
朝も昼も、風呂に入っていない。
「まさか風呂に入っていないのではと思ったが、お主は誰よりも清潔だった」
今度は珊瑚を直接見張っていた。すると、驚きの事実が発覚する。
「仲良く翼紺々と風呂に入っていたではないか。こいつら、私に隠れていろいろ楽しんでいたなと……」
風呂から出てきたところを、現行犯逮捕をしようと思ったが、ふと、ある違和感を目にした。
「違和感、ですか?」
「ああ。お主の胸辺りに、大きな膨らみが見えたのだ」
「そういえば、風呂上りは胸に包帯を巻いていなかったような……」
風呂上りは体に外套をかけているばかりである。
女官は食事の時間なので、出会うことはない。その時は気を抜いていたのだろう。
一方、星貴妃は気配遮断を身に着けているようで、まったく潜伏に気付いていなかった。
「妃嬪様に気付いていないなんて、護衛失格です」
「私のことはよい。それよりも、普段から、胸を潰しているのか?」
「はい。邪魔になるので……」
それも気の毒な話だと言われる。珊瑚は慣れているので、なんてことないことであったが。
「その日は驚いて、声をかけることはしなかった」
数日の間、星貴妃は珊瑚を観察する。
「意識すれば、お主が女子にしか見えなくなって――」
男のわりに線が細い。肌が綺麗で、腰は細く、尻は大きい。
最後に星貴妃は珊瑚に喉仏がないか確認する。
「それが、先日よ。押し倒したついでに、可愛がる振りをして確認した」
「まったく、気付きませんでした」
以上が、星貴妃が珊瑚の性別に気付いた経緯である。
「そういえば、玉の有無を聞いた時、どうしてお主はないと答えたのだ?」
「玉、ですか?」
「襲撃事件のあと、広間で話をしただろう」
「ああ、あの時は、こーうにいただいた琥珀の球を捜していたのです」
星貴妃はぐったりと脱力していた。
あのやりとりで、珊瑚は腐刑を受けた男であると勘違いしたのだと、怒られた。
「す、すみません。まさか、勘違いをされていたとは」
「まったくだ」
問題はこれだけではなかった。
「おそらく、お主を男だと思っているのは、私や汪家当主だけではない。ここにいる全員がそうだろう」
「な、なるほど……」
別に、今まで困ったことが発生しなかったのが不思議だと思う。
否、困ったことはあった。
「だから、こーうと寝室が一緒だったのですね」
「気の毒な話だったな」
「でも、困ったことといっても、寝顔を見られたくらいですが」
星貴妃は言う。汪紘宇には女であることを明かさないほうがいいと。
「それは、なぜ、ですか?」
「女だとわかれば、ヤツはお主を襲うだろう」
「そんなことは……!」
ここでハッとなる。
紘宇は珊瑚のことを男だと思っていた。
想い合っていることはうっすら気付いていたが、紘宇の恋愛対象が男性のみであるという可能性が浮上した。
珊瑚は頭を抱える。
「どうした?」
「い……いえ」
星貴妃には言えない。
珊瑚が恋をしていることは内緒なのだ。
心配するような視線を向けられていることに気付き、しどろもどろの口調で誤魔化す。
「あの、こーうにも、男と思われていたことが、衝撃で」
「まあ、仕方がないだろう。男だと思っていたおかげで、今まで襲われなかったではないか」
「え、ええ……」
紘宇は鋼の理性を持っているように思える。たとえ、珊瑚が女性だと分かっていても、襲わなかっただろう。
問題は、紘宇の恋愛対象が男性だということだ。
もしも、珊瑚が女性だとバレてしまえば、途端に嫌われてしまう。
星貴妃の言う通り、この先も男装を続けなければならない。
それは、自らの貞操を守るためではなく、紘宇の愛を失わないためであった。
心の内は複雑であったが、愛に飢えていた珊瑚は、これからも男の振りを続けることを決意した。