四十四話 珊瑚を愛する者達
紘宇とメリクル王子、同時に名前を呼ばれる。頭が真っ白になった珊瑚は、何も考えずに片方の名を叫んだ。
「――こーう!」
差し伸べた手は引き寄せられ、珊瑚の体は紘宇の腕の中へと収まった。
すぐに、三名の護衛が接近する。
紘宇は珊瑚を背中のほうへと回した。
「こーう、あの!」
「お前は武器を持っていないだろうが。そこで大人しくしていろ!」
紘宇はそう叫ぶや否や、腰に佩いていた剣の柄を握る。
護衛達も、帯剣していた。鞘から剣を引き抜いて、襲いかかって来る。
紘宇は剣の柄に手をかけたまま一人目の第一撃を避け、顎を蹴り上げた。急所への容赦ない攻撃に、身長百八十以上ある大男は倒れる。
今度は振り下ろされた剣を受けて弾け飛ばし、くるりと刃を回して剣穂――柄の先端に巻かれた房状の飾りで思いっきり相手の頬を叩く。
よろめいた隙に、空いている手に拳を作って男の腹部へと叩き込んだ。
二人目も倒れ、三人目の男と対峙する。
最後は棍棒使いで、蛇のように剣を絡めとられてしまった。孤を描いて、剣は遠くへと飛んで行く。
高く掲げられた棍棒が、紘宇の脳天へと振り下ろされる――が、接触する寸前で得物を掴む。手から腕にかけてビリビリと衝撃を受けたからか、苦悶の表情を浮かべていた。しかし、それも一瞬のことで手にしていた棍棒を振り払った。
すかさず、紘宇は相手の武器を持っている腕を掴み、鋭い手刀を喉元に叩き込む。男はうめき声をあげ、地に伏した。
肩で息をする紘宇は、ジロリとメリクル王子を睨みつけた。
「私兵はこれだけか?」
「残念なことに。武芸の達人と、聞いていたのだが」
凱陽を振り返ると、驚いた顔を浮かべていた。どうやら、とっておきの護衛を用意していたらしい。その男達を紘宇はあっさりと倒してしまった。
「我が騎士ならば、決して負けなかったのだが――」
メリクル王子は視線を珊瑚へと移す。
『コーラル、どういうことだ? お前は、いったい……』
メリクル王子はまさか、珊瑚から華烈に残るような行動を取るとは思ってもいなかったのだろう。
『殿下、ごめんなさい。私は、私は』
頭の中に浮かんでいた華烈に残りたい理由を、祖国の言葉で伝えた。
『彼を、お慕いしているのです』
『なんだと? たかが、数ヶ月の付き合いで、恋だの愛だの抱くような者だったのか?』
その問いかけに対し、否定する言葉はない。
紘宇と過ごした数ヶ月間は、珊瑚が国で騎士をしていた時間よりも濃密な毎日であった。
『そもそも、私が騎士であり続けることは、逃げ、だったのかもしれません』
『どういうことだ?』
騎士としての務めを果たしながら、親の決めた相手と結婚し、子どもを産む。
少女時代の珊瑚は、それが可能であると信じて疑わなかった。
しかし、母親に騎士の証である刺青――庚申薔薇を見られた瞬間、傷物扱いされ、騎士としての誇りも同時に傷付けられたような気がした。
それからの珊瑚は、人との付き合いに壁を作っていた。
騎士としても貴族としても中途半端で、身の置き場がなかったのだろう。今になって、当時のことを振り返る。
『でも、今の私は、コーラル・シュタットヒルデではありません。誰も、私のすることに、後ろ指を差さない』
珠珊瑚となることによって、新しい自分になることができたのだ。そう、メリクル王子に伝える。
『しかし、私と結婚すれば、貴族女性としての務めを果たせるではないか。この婚姻は、シュタットヒルデ伯爵家にとっても、大きな益となる。それに、騎士を続けたかったら、続けるといい。お前のやりたいことを、私は反対しない』
ありがたく、光栄な申し出であったが、珊瑚は首を横に振った。
『王家と我が家では、とてもではありませんが、つり合いが取れません。裏で、殿下がいろいろ言われるのは、許せません。それに、私は……』
長年、黙っていたことを白状する。できるならば言いたくはなかった。記憶の隅のほうへと押しやり、忘れようとしていたことである。
『私は、殿下へ色仕掛けをして、近衛騎士の座を得たと言われたことがあるのです。愛人であるということも』
『馬鹿な! 誰がそんなことを』
珊瑚は首を横に振る。個人の名を言うつもりはない。
『女である私が、近衛騎士をするということは、大変な妬みの対象となっていました。男性からも、女性からも』
珊瑚は鈍感である振りを続けなければならなかった。しかし、それにも疲れてしまった。
『私が殿下と結婚すれば、愛人であり、色仕掛けで役目を得たことを、認めることになります。どうか、私を一人の騎士と認めるならば、コーラル・シュタットヒルデは死んだと、伝えていただけると、嬉しく、思います』
過去の自分を捨てるということは、大変勇気がいることであった。
しかし、珊瑚はそれを選んだ。
『きっと、殿下を庇った瞬間に、私は一度死んだのです』
そして新たな名前を得て、珠珊瑚へと生まれ変わった。
『本当に、それでいいのか? 後悔は……』
『私は――彼と生きる道を選びました』
紘宇は珊瑚を生涯守ると言ってくれた。その言葉の通り、先ほども猛烈な戦いぶりを見せてくれた。
珊瑚も、その想いに応えなければならない。
『メリクル殿下、ありがとうございました。殿下は、民の模範となる、素晴らしい御方です。これからも、たくさんの人を道しるべになっていただきたく、思います』
膝は星貴妃のために折るものなので、立ったまま深々と頭を下げた。
『コーラル……』
メリクル王子は珊瑚の名を呟き、紘宇を見る。そして、思いがけない言葉を投げかけた。
「戦って勝ったほうが、コーラルの手を取る、というのはどうだ?」
その提案に、紘宇の眉がピクリと動いた。
最後のあがきだろうか。メリクル王子は諦めていなかったようだ。
「いいだろう。ただし、他国の王族を剣で傷つけるわけにはいかない。拳で戦うならば、受けて立とう」
武術でメリクル王子が紘宇に敵うわけではない。珊瑚は止めに入ったが――。
「よい。それで戦おう」
珊瑚の言葉を聞かずに、メリクル王子は受けて立つ。紘宇にもその場で見ているようにと言われてしまった。
凱陽が間に入り、審判役を務めた。
先に地面に膝を突いたほうが負けとなる。
「では――始め!」
先に動いたのは紘宇であった。腰の下まで引いた拳を、メリクル王子のみぞおちめがけて突き出す。メリクル王子は寸前で回避した上に、突き出された腕を手に取った。
鬱血するほど、握りしめられる。
目と目が合った。言葉はなく、睨み合うばかりだった。
紘宇は体を捻り、拘束から解放されだが、頬を拳で打たれた。
やられっぱなしの紘宇ではない。
左手を前に突き出し、相手の視界を覆う。拳の軌道を隠しながら、握りしめた右手をメリクル王子の肩に叩き込んだ。
メリクル王子は一歩、二歩と後方へ下がり、ガクリと地面に膝を突く。
やはり、武術で紘宇に勝てるわけがなかったのだ。
供も連れていない状態で、珊瑚は心配になったが、駆け寄るわけにはいかない。
歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべるメリクル王子から目を逸らした。
「自分の国に帰れ。もう二度と、ここへはやって来るな」
紘宇はそう言って、珊瑚の手を握る。踵を返し、庭を横切って牡丹宮へと戻って行った。
ちらりと横顔を見ると、珊瑚はぎょっとした。
「こーう、血が」
「いい、大丈夫だ」
「で、でも」
「大丈夫だと言っている」
紘宇は口の端に滲んでいた血を、空いているほうの手で拭う。
その後、珊瑚と紘宇は言葉を交わすことなく、私室へと戻って行った。
戦闘で気が荒ぶっている紘宇は、珊瑚を寝室へ連れ込み――。