四十三話 メリクル王子
珍しく、本当に珍しく、後宮に来訪者が現われた。
こんなことはありえないことだと、紘宇は話している。
「お前、国に何か問題を残してきたのか?」
「いえ……」
取り次いでくれたのは汪家の者かと思いきや、そうではなかった。
不安を胸に抱いたまま、歩みを速める。
いったいどうして、メリクル王子がやって来たのか。何か国で問題でもあったのか。だととしても、珊瑚ができることはない。
面会用に指定されたのは、牡丹宮を出てすぐ目の前にある庭園の東屋であった。
外は曇り空で肌寒く、珊瑚は腕を摩る。
「寒いのか?」
「少しだけ……」
そう答えると、紘宇は袖のゆったりした羽織を脱ぎ、珊瑚の肩にかけてくれた。
「あの、こーうは寒くないのですか?」
「私は平気だ」
「ありがとうございます」
貸してもらった羽織は温かく、紘宇の匂いがした。じわじわと、心の中の不安が剥がれ落ちていくように思える。
奥ゆかしい蝋梅の黄色い花が咲き乱れる庭園を通り抜け、四本の柱に屋根がかけられ、大理石の卓子と椅子がある東屋へ辿り着く。
そこに、メリクル王子がいた。
眼鏡をかけ、髪を黒く染めて、華烈の衣装華服を纏っていたので一瞬誰かわからなかったが、長年護衛をしていた珊瑚が見間違えるわけがない。
騎士は一人も連れていなかった。代わりに、ガタイの良い男が三名、女官が二名、その後ろに初老の男がいる。
珊瑚はゆっくり近付き、声をかけた。
『殿下……殿下、ですよね?』
思わず、祖国の言葉で話しかける。
俯いていたメリクル王子は弾かれたように立ち上がり、珊瑚を見る。
『コーラル!!』
メリクル王子は珊瑚へと駆け寄ったが、紘宇がそれを阻む。
二人の間には、ピリピリとした剣呑な雰囲気が漂っていた。
「なんだ、お前は?」
「お前こそ、なんだ!?」
紘宇の刺々しい言葉に対し、比較的流暢な華烈の言葉をメリクル王子は返していた。
ここで、メリクル王子について説明もせずにやって来たことに気付く。
慌てて説明をした。
「あ、あの、こーう、こちらにおわすのは、私がかつてお仕えしていた、祖国の王子です」
「王子だと?」
これで紘宇の態度も改まるだろう。そう思っていたが――。
「その、王子がここに何の用事だ?」
言葉尻の鋭さは先ほどよりも増していた。紘宇は珊瑚が伸ばした手を背中で握り、前に出て来るなと制止している。
「なぜ、お前に、用件を伝えなければ、ならん?」
メリクル王子は珊瑚に話があるのだと、紘宇の言葉を切って捨てた。
「おやおや、みなさま。立ち話もなんですから、座ってお話しでもしたらいかがでしょう? 温かいお茶と、美味しいお菓子もご用意いたしました」
話しかけてきたのは、初老の男。年頃は四十半ばくらいか。狐のような細い目に、常に孤を描いている口元はどこか胡散くささがある。
「お前は誰だ?」
「わたくしめは、荏家の者です。名を凱陽。以後、お見知りおきを」
荏家は国内で五本の指に入るほどの商家である。そんな情報を、紘宇より耳打ちされた。彼が、メリクル王子をここまで連れてきた協力者のようだった。
紘宇とメリクル王子は睨み合いをしていたが、凱陽の言葉を受けて東屋のほうへと移動する。
メリクル王子の前に紘宇が座った。
「珊瑚、お前も座れ」
「はい」
紘宇に名前を呼ばれて、ドキドキしている場合ではなかった。
メリクル王子の話を聞かなければならない。
茶が出される。湯の色は杏子色で、爽やかな香りが漂う。
卓子の下に火鉢が置かれ、その火で湯を沸かしたようだ。
菓子は、まんまるの白い饅頭。手のひらよりも大きい物だった。
メリクル王子は茶を飲んで顔を顰め、紘宇はほうと息を吐く。
珊瑚は一口飲んで、良い茶であると分かった。
「こちらは銀針白茶といいまして、華族の方にも人気の一品でございます。入荷のたびに品薄となっておりまして……」
聞いてもいないのに、凱陽は手もみしながら話始める。
「御所望でしたら、是非、お声かけください。特別に、ご用意いたしますので」
勝手にこの場を盛り上げる凱陽を、メリクル王子は下がらせた。
お喋りな商人は会釈をして、護衛と女官を残して距離を置く。
東屋の中は、静寂を取り戻した。
「――静かになったところで、本題に、移らせてもらう」
メリクル王子は珊瑚をまっすぐ見て言った。
『コーラル、国へ帰るぞ』
珊瑚は全身鳥肌が立つ。
どうやら外交を経てというわけではなく、逃亡という形になるらしい。
汪家と話は通していないと言う。
『あの、私の身柄は、汪家に――』
『あの石頭の一族は、私の要望に一切応じなかった。だから、こうして強硬手段に出たのだ』
そんなことをすれば、華烈との仲が微妙なものになるのではないか。恐れ多いと思いながらも、珊瑚は意見した。
『外交は問題ない。この国も、我が国を気にしている場合ではないだろう』
メリクル王子は平然と言ってのけた。この国には、皇帝がいないと。
『そ、それは――』
『あの商人から聞いた。国内でも、一部の者しか知らないらしいな。隠そうとしているらしい。それを出せば、何を言ってきても大人しくさせることができるだろう』
すでに、逃亡の手段は整っていると言う。ここから抜け出す通路も、港へ行く馬車も、祖国へ帰る船も用意されているとメリクル王子は言った。
『わ、私は――』
卓子の下で、紘宇が珊瑚の手を握りしめる。その瞬間、頬がカッと熱くなるのを感じていた。
『コーラル、どうしたのだ?』
『い、いえ……』
メリクル王子がやって来て驚いた。珊瑚を助けるため、いろいろ尽力を尽くしてくれた。
それはとても光栄なことだったが――胸の中の感情は複雑であった。
『何も心配することはない。だから――』
ここで、紘宇が口を挟む。
「気分が悪い」
その言葉に、メリクル王子は眉を顰める。
「お前は、この場に招いていない。なぜ、お前に分かる言葉で、話をせねばならぬ?」
「私は珊瑚の保護者だ。話を聞く権利がある」
「保護者だと? お前、まさか、汪家の者か?」
「そうだ。私は汪家当主の弟、紘宇という」
どんと、メリクル王子は大理石の卓子を拳で叩く。
「お前達汪家のせいで、コーラルの救出が、遅くなったのだ」
「コーラルなど知らん」
「コーラルはコーラルだ。勝手に名付けた名を呼ぶな。……帯剣していたならば、お前を今すぐ斬っていたが」
「返り討ちにしてやる」
二人は不穏な会話をしていた。
珊瑚は口を挟んでいいものか、ハラハラするばかりである。
「とにかく、コーラルは連れて帰る」
「珊瑚を連れ帰ってどうするつもりだ?」
「伴侶として迎えるつもりだ」
シンと、東屋の中は静寂の中に包まれる。
メリクル王子は珊瑚を妻として迎えることを堂々と宣言した。
珊瑚は驚いたが、それ以上に紘宇は瞠目し、ぶるぶると指先を震わせていた。握っていた手に、ぐっと力が入る。
「お前の国では、本当に珊瑚のような者を、正式に伴侶として迎えられるのか?」
「あまり例は多くないが、ないことはない」
珊瑚の家は伯爵家であるが、名家というわけではない。王族に嫁げるほどの家格はなかった。
「帰ったら、いろいろ言われるだろう。それから、コーラルを守るためでもある」
メリクル王子は今回の件に関して、責任を感じているようだった。
心優しい人でもあるのだろう。いち臣下に、ここまではできない。珊瑚はそう思う。
「あの、私は――」
「そんなこと、許さん」
紘宇はメリクル王子の申し出を一刀両断した。
「では……力づくで連れて帰る」
メリクル王子が命じる。紘宇を倒し、珊瑚を保護せよと。
背後にいた屈強な男達が、迫って来る。
珊瑚と紘宇は立ち上がり、距離を取った。
「珊瑚!」
「コーラル!」
二人の男性に同時に名を呼ばれ、手を差し伸べられる。
珊瑚が選んだのは――。