四十二話 珊瑚の告白
――紘宇は怒っているだろうか?
珊瑚はソワソワしながら、薄暗い廊下を歩く。
「くうん?」
隣を歩くたぬきの、気遣うような鳴き声が聞こえた。
「たぬき……」
珊瑚はたぬきを抱き上げ、頬ずりする。さすれば、気持ちはいくらか落ち着いた。
とうとう、部屋まで辿り着く。中は真っ暗だった。
一応、戸を叩いてから開く。
紘宇は――いた。張り出し窓に腰かけている。
月灯りが横顔を照らし、伏せた睫毛が影になっているようだった。
その様子は一枚の絵画のようで、珊瑚は見惚れてしまう。
「……なんだ?」
紘宇が珊瑚に視線を向けずに声をかける。
「あ、あの、こーう……」
一歩、一歩と近付く。途中でたぬきを床に下ろし、紘宇の前へと跪いた。
「ごめんなさい……こーう」
気まずい空気が部屋を支配する。
落ち着いた、静かな声で問われた。
「先ほどは、なんの拒絶だったんだ?」
「そ、それは――」
素直に言うべきなのだろうが、それは酷く恥ずかしいことだった。
頬に感じていた熱が、じわじわと全身に広がって行った。頭から水を被りたくなるほど、体が火照っている。
言葉に詰まっていると、紘宇が珊瑚を見た。ドキンと、胸が高鳴る。
今まで感じたことのない気持ちに、珊瑚は戸惑った。
こんな風に、異性を意識したことなど、一度もなかったのだ。どうすればいいのか、答えは浮かばない。
「お前は、なんて顔をしているのだ?」
「え?」
どういう顔なのか。問いかけるが、ふいと顔を逸らされてしまった。
「その顔は、他の人には見せるな」
きっと、情けない顔をしているのだろう。
しかし、このような戸惑いは、紘宇を前にした時にしかしないだろう。そう、確信していた。
紘宇は依然として、怒っているように見えた。
いつものように怒鳴らず、淡々とした口調で話しかけてくるのがまた怖い。
一刻も早く仲直りをしたいと思ったが、謝るだけでは難しいことはわかりきっている。
素直な気持ちを伝えるしかないのだ。
「あの、さきほどは、すみませんでした。こーうのことを年下だと思い込んでいて、驚いたと言いますか」
「そんなに、若いと思っていたのか?」
「え、ええ、まあ」
「私の顔を見て言え」
逸らしていた目を、紘宇に向ける。
怒っているような、呆れたような細めた目を、珊瑚に向けていた。
「ごめんなさい。こーうは、若く見えます」
「なるほどな」
ドキドキしながらも、はっきり述べた。
「それで、なぜ、そこから拒絶に繋がった?」
「そ、それは――」
なけなしの勇気をかき集め、しどろもどろの口調で述べた。
「あの、私の国では、年上の者が――年下の者を伴侶として選びます。それで、先ほど、その……」
言葉が続かない。顔から火が噴き出そうになった。
堂々と、紘宇を意識していると言っているようなものであった。
もはや、相手の顔など見ることはできない。
じわじわと、目が潤んでくる。
恋をするというのは、こんなにも恥ずかしいことなのか。今すぐにでも、紺々に質問したかった。
先の言葉を打ち消すように、早口で捲し立てる。
「ごめんなさい。先ほどの言葉は忘れてください。私が、愚かでした。ここに、私情を持ちこむなんて……!」
「お前は――」
大きな声で話しかけられ、ハッとなる。紘宇は立ち上がり、珊瑚を見下ろしていた。
この場から逃げ出したくなるが、それは許されないことであるとよくよく理解していた。
今はただ、羞恥を耐えるばかりである。
ここで、予想外の事態となった。
紘宇までもが片膝を突き、珊瑚と目線を同じくする。そして、膝の上にあった手を優しく握ってきた。
「あの、こーう?」
「お前は、私を選んでくれるのか?」
「え?」
「星貴妃や、翼紺々ではなく」
星貴妃は守る対象だ。メリクル王子と同じで、そういう感情を抱くことすらおかしい。
「妃嬪様はお仕えすべき方で、こんこんは自慢のお友達です。こーう……こーうは、尊敬していて……私の、大切な人、です」
「そうか」
ぎゅっと、握られる手に力がこもる。
「お前の国の愛は、自由なのだな?」
「まあ、そう、ですね」
身分差の結婚は多くはなかったが、あるにはあった。
貴族の結婚のすべてに自由はないものの、好いた者同士が結婚して、幸せに暮らした話も聞いたことがある。
「故郷に、恋人はいなかったのか?」
「いいえ……」
母親に傷物扱いをされた瞬間、女性としての役割は果たさずに、騎士として身を立てようと決心していたのだ。
ふと、そういえばと、思い出す。
「生まれ育った国に、未練はないように思えます。私は、居場所なんてないのに、ずっと、見ないふりをしていたのかもしれません」
しかし、ここは違った。紘宇が珊瑚の実力を認め、星貴妃が力を欲してくれた。
たぬきや麗美など、心癒してくれる存在もある。故郷にはない物のすべてが、ここにはあった。
「ならば、私は生涯、お前を守る存在となろう。この先、何があっても」
「こーう……」
それはまるで、求婚のようであった。
きっと、珊瑚を励ますために言ったのだろう。分かっていたが、それでも嬉しかった。
潤んでいた目から、ぽろぽろと涙が流れる。
今まで堪えていたものが、紘宇の言葉によって堰を切ったように溢れ出てきた。
「お前は、本当に泣き虫だ」
「ごめん、なさい」
今まで人前では泣いたことなどないのに、紘宇を前にすると恥ずかしい自分をさらけ出してしまう。
きっと、彼の前では強がらなくてもいい。そういう思いがあるからだと気付く。
「……ここに、来ることができて、良かった。こーうの隣こそ、私がいるべき場所なのだと、思いました」
返事はなかった。代わりに腕を引かれ、抱きしめられる。
紘宇は温かかった。
珊瑚はその温もりに身を委ねる。
「……その、私は異国人ですし、普通では、ないかもしれませんが」
「いい、お前が何者でも。私も、覚悟を決めた」
何も心配することはない。
紘宇は珊瑚の背中を撫でながら、優しい声で言う。
じんわりと、心が温かくなる。
やはり、紘宇のことが好きだと、珊瑚は改めて思った。
もちろん、本人には照れてしまって言えないが。
こうして、回り道をしながら、珊瑚と紘宇は仲直りをすることができた。
「――でも、やっぱり一緒に眠るのは恥ずかしいので、寝台の境目に布を張ってもらいます」
「お前な。今更にもほどがあるだろう?」
珊瑚が小さな子どものように、両手を重ねて枕にして眠っていたことを暴露されて、真っ赤になる。
「あと、幸せそうな顔をしながらたぬきを抱きしめて眠っていたり、寝台から転がり落ちたり」
「なっ……!」
「もう、全部見ているから、恥ずかしくもないだろうが」
「ダメです。恥ずかしいです! 見ないでください」
「見るなって、視界に入っただけだ」
「だったら、目隠ししてください」
「目隠しって……」
「こーう、お願いします!」
そんなわけで、今晩は紘宇が目隠しをして眠ってくれることになった。
向かい合って座り、珊瑚は紘宇の目元に布を巻く。
「あまり、強く結ぶなよ」
「はい、分かりました」
いつもはきっちりと整え、帽子の中に収められている紘宇の長い髪は、眠る際は三つ編みになっている。
こういう無防備な姿を見ることができるのは、珊瑚だけだ。特権だと思うようにしよう。
そんなことを考えながら、目隠しの布をきゅっと結んだ。
「はい、終わりました」
紘宇は頷き、横たわる。
珊瑚は寝室の角灯の火を消し、たぬきを近くへ引き寄せた。
「こーう、お休みなさい」
「ああ」
思い出せば騒がしい夜であったが、今は驚くほど心が落ち着いている。
どうかこの先も、平穏無事に過ごせたらいいなと、珊瑚は思っていた。
しかし――。
翌日、女官から信じられない報告を聞いた。
「珊瑚様にお客様が」
「私にですか?」
午前中の仕事を終え、紘宇とのんびり茶を飲むひと時での出来事だった。
「めりくる様、という御方が、珊瑚様にお会いしたいと」
珊瑚は勢いよく立ち上がる。
ガタンと、椅子が倒れた。
『メリクル王子が……どうして……?』
祖国の言葉がとっさに出てきて、珊瑚は口元を覆った。