四十話 嗚呼、勘違い
紘宇は寝屋の外にいた紺々に、たぬきを押し付ける。
珊瑚からは手を離さないまま、大股で廊下をズンズンと進んで行った。
途中で背後を振り返らないで、紘宇は紺々の名を叫んだ。
「翼紺々!」
「は、はい」
「これから、私はこいつと話をする。たぬきはお前の部屋で朝まで預かっておけ」
「か、かしこまりました」
「見送りは必要ない」
紺々はその場で立ち止まり、頭を深く下げる。
「こんこん、たぬき、あの……!」
「翼紺々とたぬきは、また明日にしろ」
珊瑚の言葉を聞き入れずに、紘宇は廊下を歩いて行った。
部屋に戻ったが、手は離さない。そのまま寝室に向かい、扉を閉めて閂を下ろすと、ようやく解放してもらえた。
「そこに座れ」
「あ、はい」
腕組をした紘宇の命令通り、珊瑚は寝台の上に上って正座する。紘宇も、珊瑚の目の前にあぐらをかいて座った。
ポカンとした表情を浮かべている珊瑚を、ジロリと睨みつける。
「あの、こーう、何か?」
「何か、ではない。簡単に星貴妃に押し倒されおって」
「いや、あれは……」
星貴妃は本気の目ではなかったと主張する。
「恐らく、私をからかっていたのだと」
「問題はそういうことではない。お前が隙だらけな件を責めているのだ」
「あの場はこーうもいましたし……」
「私がいたから、だと?」
「はい。それに、まさか妃嬪様がふざけてあんなことをしてくるとは、思ってもみなくて」
その言葉を聞いた瞬間、紘宇は動く。
珊瑚の体を押し倒し、上に圧しかかった。
「――わっ!」
「やはり、隙だらけではないか」
その言葉を聞いた珊瑚は、初めてムッとした表情を見せた。
「今、このような体勢を許しているのは、こーうだからです。他の人だったら、即座に押し返しています」
「だったら、押し返してみろ」
紘宇は珊瑚のおでこに人差し指を当てた。すると、どれだけ足をジタバタと動かしても、起き上がれない。
「んっ……えっ、あれ? ぜんせん、動かな……これ、なんでですか!?」
悪戯が成功した子どものように紘宇はニヤリと笑い、珊瑚を見下ろしている。
「もしかして、魔法ですか!?」
「違う、馬鹿。立ち上がる時はかならず前傾姿勢となるからだろう。こうして額を押さえていたら、その姿勢が取れない」
「な、なるほど。こーうは物知りですね。すごいです!」
紘宇は珊瑚の上で、がっくりと脱力する。
なぜ、星貴妃の時のように、色っぽい雰囲気にはならないのかと。
「お前は……私のことを、なんとも思っていないのだな」
「そんなことないです。尊敬しています」
「尊敬……」
こうして押し倒した状態であるのに、珊瑚はしれっとしていた。
なんとも思っていない何よりもの証拠である。
「あの、若いのに落ち着いていますし、毎日お仕事を頑張っていますし、剣技も素晴らしくて……」
珊瑚は紘宇の尊敬しているところを、いくつも挙げた。しかし、一点だけ引っかかるものがあった。
「若いのに落ち着いている、だと?」
「はい」
紘宇は自身を年相応だと思っていた。しかも、そういうことを年下である珊瑚が言うのはおかしい。
一応、二人は異国人同士である。どこかで、認識の違いがある可能性があった。
紘宇は念のため、質問してみる。
「お前の国では、私と同じくらいの年齢の者は、落ち着きがないのか?」
「そうですね。十七、十八くらいの青年は、もっとこう、思春期らしくソワソワしていると、いいますか……」
「は?」
紘宇は目が点となる。
珊瑚は今、紘宇のことを、十七か八くらいと言った。
聞き違いかもしれない。もう一度、質問した。
「おい、珠珊瑚よ」
「はい?」
「お前には、私がいくつくらいに見えている?」
「十七か、十八くらいかなと」
脳天を雷が貫いたような衝撃を受けた。
まさか、この数ヶ月間、年下に見られていたとは。
珊瑚の肩を押さえつけている手が、ブルブルと震えた。
こみ上げてくる表現しがたい感情を、なんとかして抑えるが、限界は近い。
たまに、紘宇が苛立ちを募らせていた際に珊瑚が小さな子に諭すような、優しい声で話しかける時があった。
あれは、年上ぶっていたのだと気付く。
「こーう、どうしたのですか?」
「……」
紘宇も、珊瑚が二十歳だと聞いて、まさかと思った。自分と同じ二十五くらいかなと予想していたのだ。
おそらく、珊瑚の国の者は総じて老けていて、紘宇の国の者は総じて年若く見受られるのだろう。
これも、異国間の認識の違いか。
ガックリしながら、真実を述べた。
「私は二十五だ」
「へ?」
「お前よりも、五つも年上だ」
珊瑚は目を見開く。
「こーうは、二十五、歳、って……」
そして、みるみると頬を真っ赤にしていく。
「ほ、本当、ですか?」
「嘘を言ってどうする」
「た、たしかに、こーうは、冗談を、言いません」
そうとう衝撃的な事実だったのか、珊瑚は涙目になっていた。頬どころか、顔全体が赤くなっていく。
「わ、私は、こーうが、年下だと思って、一緒に、眠っていました」
「は?」
「私、も、もう、こーうと、い、一緒に眠れません!」
「おい、どうし――」
言葉を発した瞬間、くるりと視界が反転する。
珊瑚が体を捻り、紘宇と姿勢を逆転させたのだ。すぐに寝台から飛び降り、寝室を飛び出す。
「お、おい、どこに行く!?」
「こんこんと、たぬきのところです」
「いや、待て!」
手を伸ばして珊瑚を捕まえようとしたが逆に腕を取られ、くるりと背中のほうへと回し、捻られてしまう。
瞬く間に、壁に押さえつけられてしまった。
「痛っ!」
「こーう、ごめんなさい。少しだけ、事実を受け止める時間を下さい」
「この、馬鹿力め!」
「ごめんなさい……」
そう言った瞬間、珊瑚は手を離す。
振り返った紘宇に一礼して、部屋を去った。
今まで見せたこともないほどの悲痛な表情を浮かべていたので、紘宇はあとを追わなかった。
◇◇◇
珊瑚はトボトボと廊下を歩く。
すぐに、紺々の部屋に辿り着いた。まだ灯りが点いており、起きているようだった。
突然押しかけて迷惑かもしれないと思ったが、他に行く当てもない。勇気を振り絞って声をかける。
「……こんこん?」
声をかけると、中からガッシャンと大きな物音がした。大丈夫なのか。一歩前に踏み出した瞬間に、紺々が顔を出した。
「わっ、珊瑚様、いかがなさいましたか? 玉を流して下さったら、参上しましたのに」
「すみません」
珊瑚の部屋から紺々の部屋にかけて、一本の管が通っている。そこに玉を流すと、紺々の部屋に転がって行って、呼ぶことができるのだ。
赤い玉ならば、食事を持って来い。青い玉ならば、至急来るように。緑色の玉ならば、お茶を持って来いなど、玉の色によって、用件を伝えられるようになっていた。
紺々の部屋には鉄製の受け取り皿があり、玉が落ちて来ると高い音が鳴る。よって、いつでも気付けるようになっていた。
「あ、えっと、立ち話もなんですから、中へどうぞ」
「ありがとうございます。お邪魔します」
中に入るとたぬきが寄って来る。珊瑚の様子がおかしいのを感じたのか、すりすりと身を寄せてきた。
「たぬき……」
珊瑚はたぬきを抱き上げ、頬ずりした。
紺々が部屋にあった火鉢裏で湯を沸かし、温かいお茶を淹れてくれる。
珊瑚は礼を言って受け取った。
一口飲むと、苦味と芳醇な茶葉の香りが広がる。ホッとするような味わいがあった。この国の、甘くないお茶にもずいぶんと慣れ親しんでしまったものだと、珊瑚はしみじみ思う。
心配そうに見つめる紺々の視線に気付いた。珊瑚は居住まいを正し、何があったかを話し始める。
「すみません、こんこん。突然押しかけて」
「いえいえ、何もないところですが、いつでもいらしてください」
「ありがとう……」
もう一度、深々と頭を下げてから本題へと移る。
「実は、私、こーうのことを、年下の青年だと思っていて」
「あ、さ、左様で……」
紺々の肩が震えていた。彼女も、珊瑚同様に衝撃を受けているようだった。