三十八話 星貴妃の閨房
珊瑚と紘宇は揃って星貴妃の寝屋へと移動する。二人のあとに続くのは、たぬきと紺々。
すれ違った女官達は、皆、揃ってほうと溜息を吐いていた。美しく着飾った珊瑚と紘宇は、大変な目の保養だったのだ。
東柱廊を通り、中庭を抜け、後宮のもっとも奥まった場所に、星貴妃の寝屋がある。
護衛の女性武官が立ち並び、珊瑚や紘宇を出迎えた。
寝屋の前は鉄の門があり、三つの鍵がかかっている。安易に立ち入ることができないようになっていた。
紘宇が何も言わずとも、すぐに開錠される。中の一つは、鎖でぐるぐる巻きにしており、厳重であることが窺えた。
ギイと、重たい音を鳴らしながら扉が開かれる。この先にある部屋に招かれるのは、珊瑚と紘宇が初めてだった。
女性武官達は頭を下げて見送る。
寝屋の前には、三名の女官がいた。その中に、麗美も混ざっていたので、珊瑚は微笑みかける。
「――うっ!」
珊瑚の爽やかな微笑みを前にした麗美を含む女官達は、顔を真っ赤にさせていた。
「み、みなさん、大丈夫ですか!?」
額を押さえ、くらくらしたのかその場にしゃがみ込む女官達に、珊瑚は近寄ろうとしたが、紘宇に制止される。
「お前は、任務を忘れたのか?」
「あ、いえ……ですが」
「こいつらは翼紺々に任せておけ」
「そうですね。こんこん」
「はい」
「みなさんのことを、よろしくお願いいたします」
「承知いたしました」
一応、たぬきの入室許可は得ていないので、この場で待機してもらう。
「たぬき、中に入っていいか妃嬪様に聞いてみますね」
「くうん」
しばしのお別れであった。
漆が塗られた重厚な木の出入り扉には金色の掛金が下ろされている。閉ざす錠は銀。珊瑚は女官から鍵を受け取り、鍵穴に差し込んで、開錠する。
ようやく、星貴妃の寝屋へ入る。
珊瑚と紘宇、それぞれ名乗ると、返事が聞こえた。
「――入れ」
まず、一歩内部へ足を踏み入れると、御簾――緞子に縁取られたすだれが下ろされているのが目に付く。
室内では花のお香が焚かれており、甘く馨しい香りで満たされていた。
女官が一礼し、御簾が上げられる。
内部は広いが、灯篭が一つあるだけで薄暗い。調度品は鏡台に着物掛け、小さな円卓に、桐箪笥があるばかり。
奥に置かれているのは、見たことがないような豪勢な寝台であった。
天蓋のある四角い箱型で、木枠には多産を象徴する石榴と豆などが浮き彫りにされている。全面を漆で塗り、金箔で押した花模様もあしらわれていた。
寝台の出入り口となる部分は帳が下ろされており、中の様子が見えないようになっている。
「――やっと来たか」
寝台の帳を星貴妃が僅かに開け、顔を出す。
珊瑚と紘宇を見て、目を細めていた。
「なんだ、ずいぶんとめかしこんできたのだな」
口元に孤を描き、着飾った二人の姿を見ながら、楽しげな様子で「悪くない」と呟く。
珊瑚と紘宇は床に片膝を突き、包拳礼を行った。
「面を上げよ」
ここで、珊瑚が何か言いたげな表情だったことに気付いたからか、発言を許す。
「あの、本日はたぬきを連れて来たのですが」
「お主は、本当に狸を飼っておったのか」
「はい」
もしかしたら、寝屋に入れることはできないかもしれない。
ドキドキしながら、星貴妃の返事を待つ。
「――ふっ」
恐る恐る顔を上げると、星貴妃は笑っていた。
「大真面目な顔をして、何を言い出すのかと思えば……狸!」
隣から、紘宇のため息が聞こえた。
やはり、この国では狸を愛玩動物として飼うことはおかしなことらしい。
あんなに可愛いのにと、珊瑚は首を傾げる。
珊瑚はふと思い出した。祖国の騎士舎には鼠が出る。手のひらよりも大きくて、革の鎧を噛んでしまう困った生き物であった。
案外可愛らしい顔をしているものの、愛玩動物として飼っている者はいない。
この国で狸は、そういう存在なのかもしれないなと思う。
だとしたら、紘宇や星貴妃の反応も頷けるものであった。
「し、失礼な申し出を――」
「よい。連れてまいれ」
「え、いいのですか?」
「特別に許してやるぞ」
「あ、ありがとうござます!」
なんでも、古事記の中に狸を国の守護獣であると記したものを読んだことがあったらしい。有名な話ではないが、ごく一部の者の間では、大切にされている動物であると言っていた。
「たぬき……そうだったのですね」
紘宇は低い声でボソリと、「私はそんな話、聞いたことがないがな」とぼやいていた。
たぬきの入室を許可されて浮かれる珊瑚の耳には、届いていなかった。
「早く連れてまいれ。自慢の狸とやらを、見てやろう」
「はい!」
珊瑚は一度断ってからすっと立ち上がり、たぬきを迎えに行った。
扉を開くと、床に正座をしている紺々に抱かれたたぬきと目が合った。
「たぬき、妃嬪様が入って良いと言ってくださいました」
「くうん!!」
たぬきは嬉しいのか、尻尾をブンブンと振っていた。紺々からたぬきを受け取る。
「こんこんも妃嬪様に自慢したいのですが……」
「と、とんでもないことでございます!」
紺々は首を横に振り、恐縮しきっていた。
「ど、どうぞ、お早く中へ。星貴妃様をお待たせしたら悪いので」
「そうですね。では、また。しばらくここで、いい子にしていてくださいね」
そう言いながら、珊瑚はたぬきを脇に抱え、紺々の頭を優しく撫でていた。
少し離れた場所から、「ああ」と、か細い声が聞こえる。麗美だった。
「れいみサンも、またあとで」
「はい!」
珊瑚が手を振ると、麗美は満面の笑みで手を振り返していた。
星貴妃の前に戻ると、顔を顰めた二人に出迎えられた。
「どうか、したのですか?」
「なんでもない」
「なんでもない」
紘宇と星貴妃は苦虫を噛み潰したような表情で、同時に答える。
そういえばと思いだす。二人の仲はあまりよろしくはなかったなと。
おそらく、この短い中、気まずい時間を過ごしたに違いない。珊瑚は申し訳なくなった。
「それがお前の狸か?」
星貴妃に話しかけられて、ハッとする。
腕に抱いていたたぬきを床の上に下ろし、片膝を突いて紹介した。
「こちらが、狸のたぬきです」
「ん?」
「狸のたぬきと申します」
珊瑚は蕩けそうな笑顔で、たぬきを紹介する。
紘宇がそれに解説を加えた。
「これは、たぬきという名の狸」
「ああ――はあ?」
「異国の者には、たぬきという響きが美しく聞こえたようで」
「ん? ああ……」
たぬきは星貴妃の前で、くるりと回って伏せの姿勢を取った。
挨拶代わりに鳴くも忘れない。
「くうん」
「う、うむ」
たぬきを前に、星貴妃は顔を引き攣らせていたが――我慢できなくなったのか、噴き出してしまった。
「こやつ……本当に……大真面目に……狸を飼って……!」
星貴妃は帳を下ろし、寝台の中へと引きこもる。
中から、大笑いが聞こえた。
珊瑚とたぬきは頭の上に、疑問符を浮かべている。
紘宇は小さな声で、「気持ちは解る」と呟いていた。
五分後。星貴妃は帳を上げ、寝台から出て来た。
「すまぬ。持病の癪が」
「だ、大丈夫なのですか?」
「問題ない。気にするな」
珊瑚は本気で心配そうにしていたが、紘宇もしゃっくりのようなものだから、気にするなと言っていた。
星貴妃は一度咳払いをして、たぬきに「近う寄れ」と声をかける。
「くうん!」
立ち上がったたぬきは、星貴妃の前までやって来て、お座りをした。
「なんだ。躾けてあるのか?」
「いえ、たぬきは賢い子で、何も教えずとも、いろいろできるのです」
「ふうむ」
星貴妃は手にしていた、蓮の花が刺繍された団扇でたぬきの頭を撫でた。
「くうん!」
嬉しそうに、尻尾を振っている。
「あいつ、何をしても喜ぶな」
「そうでしょうか?」
「たぶん、足でお腹を撫でても尻尾を振るぞ」
「まさか!」
その言葉の通り、たぬきはごろりと寝転んでお腹を見せていたが、星貴妃が足先で撫でると、尻尾をブンブンと振っていた。
「ほら見てみろ」
「ちょっとびっくりです」
星貴妃は、案外楽しそうにたぬきと遊んでいた。