三十四話 新しいお仕事
華烈の薬と相性がよかったのか、それとも医師の腕がよかったのか、珊瑚の風邪は一日で完治した。
日の出前なので、外はまだ暗い。
夜の闇色から薄明りになりつつあるので、そろそろ日の出の時間なのだろう。
たぬきは丸くなって眠っていたが、紘宇はいなかった。紺々の残していた書き置きを見ると、別の部屋で眠っているとある。
それとなく寂しく感じたが、一昨日の晩、寝ぼけて抱きしめられてことを思い出すと、頬が熱くなる。
パッと見た感じは細身であったが、元武官ということで体を鍛えているのだろう。腰に回された腕は、逞しかった。
恥ずかしかったが、嫌な感じはまったくない。それは恐らく、紘宇だからなのだろう。
変なことはしないという安心感はあるし、それ以上の信頼感があった。
騎士仲間に感じていたものとは違う、複雑な思いが胸に渦巻いている。
この感情がなんなのか、まだ、珊瑚にはわからない。すぐに答えは出さずに、じっくり考えていこうと思う。
窓から太陽の光が差し込む時間帯になると、紺々がやって来る。珊瑚が元気になったことを喜んでいた。
「こんこん、ありがとうございました」
「いえいえ、お元気になられて、本当によかったです」
汗を掻いたので風呂に入り、身支度を整える。
紺々がいつもより、帯を下に結んでいたので、どうしたのかと声をかけた。
「すみません、この服はこういう風に着るようで」
「そうだったのですね」
「はい。昨日、お医者様が教えてくださいました」
女性の腰の位置と男性の腰の位置は違い、男性の腰のほうが下にあるらしい。男性の腰の位置に合わせて帯を結んだほうが、見た目が良くなるとのこと。
「あ、たしかに、しゅっとして見えますね」
「ですよね! 素敵です」
「ありがとうございます、こんこん」
身支度が済んだら、部屋に戻る。
「あ、こーう!」
いつものとおり、眉間に皺を寄せ、腕を組んだ状態の紘宇がいた。それだけで珊瑚は嬉しくなり、駆け寄る。
「あの、おはようございます」
「ああ」
「私、元気になりました」
「見ればわかる」
「はい!」
相変わらずの素っ気なさであった。
「くうん、くうん!」
珊瑚の声を聞いて、たぬきも駆け寄って来る。元気になったことが嬉しかったのか、尻尾をブンブンと振っていた。
「たぬきにも、ご心配をかけましたね」
「くうん!」
珊瑚はたぬきを持ち上げ、頬ずりする。
「……だから、真面目な顔でたぬきと話すなと言っただろう」
「はい?」
「なんでもない!」
平和な時間が過ぎていく。
朝食後、珊瑚は紘宇に事務仕事を習った。大量に積み上げられた巻物には、後宮の財政についての情報が書かれていた。
珊瑚には報告書の写しを命じられた。これは、保管する分なので、練習にはうってつけであった。
しかし、今まで羽ペンで書いていたので、筆で文字を書くのはいまだに慣れない。先がぐにゃぐにゃと曲がる上に、字も難しいので、悲惨な結果となる。完成した物を見て、珊瑚は絶望していた。
――絶対、紘宇に怒られる。
しょんぼりしながら完成した報告書を持って行く。
「あの、こーう、できました」
「ああ」
受け取った紘宇は、珊瑚の書いた写しに厳しい視線を送っていた。時折、眉間に皺がぎゅっと寄り、紙面を厳しい目で睨みつけている。
珊瑚は気が気ではなかった。早く、怒鳴ってほしいと思うほどである。
無言のまま最後まで読み、くるくると巻いて巻物の山の一角に差した。続けて、もう一本、別の巻物を珊瑚に渡す。
「……あの?」
「今度はこれを書き写せ」
「えっと、さっきのは?」
「別に、間違いはなかったが?」
「字、よれよれ、でしたよね?」
字が汚いと怒られると思い込んでいたが、紘宇は何を言っているんだという顔付きになった。
「何に怯えている?」
「その、こーうが、怒るかと」
「なぜ、私が怒ると思った?」
「上手く、字が、書けていないので……」
「最初から、何もかも上手くできる者はいないだろう。それに、お前は異国人だ。それを加味すれば、十分な働きだろう。こういった書類は、字の綺麗さよりも、正確さのほうが大事だ。一応、字は読めるし、頑張って写したというのは、ひと目でわかる。怒るわけがないだろう」
「こ、こーう!!」
抱き付きたくなったが、上司なのでぐっと堪える。代わりに、紘宇の近くで丸くなっていたたぬきを持ち上げ、ぎゅっと抱きしめた。
「くうん」
「私、こーうのお仕事、お手伝いできて、嬉しいです」
「だったら、口ばかり動かさずに働け」
「はい!」
こうして、珊瑚は拙いながらも、紘宇の手伝いを勤め上げた。
◇◇◇
午後となり、仕事は一段落となる。
珊瑚は紘宇に報告しなければならないことがあった。
それは、三日月刀を賜った件である。
紘宇には星貴妃に近付くなと言われていた。しかし、珊瑚は近付いてしまった。
三日月刀のことと、星貴妃を守りたいと思ったことを伝えたらどうなるのか。わからない。
しかし、きちんと伝えなければ。
寝室から三日月刀を持ちだし、布に包んだ。
胸がドキドキと高鳴る。いつも、紘宇に対して感じているものとは、別のものであった。
「くうん?」
強張った表情をしていた珊瑚を、たぬきが心配して覗き込んでくる。
「ありがとうございます、たぬき」
珊瑚はたぬきの頭を撫で、覚悟を決めた。
窓枠の縁に座り、本を読んでいる紘宇に声をかけた。
「あの、こーう。お話があります」
「なんだ?」
紘宇は視線を本に向けたまま、返事をしていた。
「あの、真面目なお話なのです」
「……言ってみろ」
真面目な話だと言えば、紘宇は視線を珊瑚へと向けた。黒い双眸にじっと見つめらたら、決意が揺らぎそうだった。
きっと、紘宇に嫌われる。そんなのはイヤだ。
けれど、それでも、珊瑚は言わなければならない。
星貴妃の騎士で在ること。それは、この後宮に身を置く理由でもあった。
「こーう、私は、妃嬪様を、お守りしたいと、思っています」
自らの決意を伝えたのと同時に、布に包んでいた三日月刀を見せる。
紘宇は驚いていた。
「それは、どうした?」
「妃嬪様に、いただきました」
「星貴妃に、か?」
「はい」
三日月刀を見せるように言われた。
鞘から剣を抜き、鋭い眼差しを向けている。
「……これは、星家の嫁入り道具だ」
「え!?」
星家の女性は強い男を夫とすることを伝統にしていた。そのため、嫁入り道具に名匠が作った剣が用意される。
三日月刀は、名高い職人が作った、とっておきの剣だった。
「なぜ、これをお前に?」
「妃嬪様をお守りしたいと申しましたら、私に下賜してくださいました」
「……」
珊瑚の話を聞いた紘宇は、不機嫌な表情となった。
以前、珊瑚に「星貴妃に近付くな」と迫った時と似たような雰囲気となる。
「あの、こーう」
「お前は、どのような気持ちで、言ったのだ?」
星貴妃を守りたいというのが大義名分ではあるものの、元を辿ったら、違う感情が存在していた。
「私は……何者でもありません。しかし、妃嬪様を守ることによって、私は騎士に……武官へとなれるのです」
星貴妃を守ることによって、ただの珊瑚から騎士になれる。
それは彼女にとって、大きな変化だった。
理由がない後宮での日々に、理由ができる。
「もちろん、自分のためだけではなく、妃嬪様をお守りしたい気持ちもあります」
「なるほどな。星貴妃は、お前にとって守る対象であると」
「はい」
紘宇は腕を組み、眉間の皺を深める。
「そこに……」
「はい?」
「星貴妃との間に、愛が、あるわけでは、ないな?」
「あ、愛、ですか!?」
「そうだ」
愛とはなんなのか。珊瑚にはわからない。
あるとしたら、それは――。
「忠誠心、でしょうか?」
「なるほど」
その答えを聞いた紘宇は、しっかりと頷いた。
一言、珊瑚の決意について答える。
「――先の事件で星貴妃も不安に思っているだろう。女の武官をもっと増やさねばとも思っていたが、後宮の予算を思えば頭が痛い問題でもあった」
「でしたら」
「ああ、許す」
紘宇は星貴妃の護衛を許してくれた。
「ありがとうございます、こーう。本当に、嬉しい……」
「ただし」
「え?」
「お前のことは、鍛え直す」
「私を、こーうが?」
「そうだ」
以前手合わせをした時に、動きの癖や、身のこなしなど、気になる点があったのだと言う。
「稽古を、付けてくれるのですか?」
「他に何がある?」
珊瑚は頭を下げ、礼を言った。
紘宇が稽古を付けてくれるとは、思ってもみない話であった。