三十二話 紘宇、珊瑚の看病をする
珠珊瑚が風邪を引いた朝――紘宇は起床時間より一時間はやく目覚めた。というよりは、珊瑚の飼っている狸のたぬきに起こされたのだ。
「くうん、くうん」鳴き、紘宇の肩をポンポンと前足で叩いていた。こういうことをしてくるのは初めてのことで、いったい何事かと、上体を起こす。
最初は空腹か喉の渇きを訴えているのかと思った。
のろのろと起き上がり、どうしたのかと訊こうとしたら、早朝の薄明りの中で珊瑚の息遣いがおかしいことに気付く。
角灯に火を灯して当てたら、汗ばんだ様子で苦しそうにしていた。
具合が悪いのは、ひと目でわかった。
まず、枕元にあった手巾で額から頬にかけて汗を拭ってやる。
寝間着の襟元が詰まっていたので苦しそうに見えたので、寛がせようと思って襟を僅かに広げた。だが、首筋から鎖骨にかけての素肌の白さを目の当たりにして、見てはいけないものを見ているような気分になり、慌てて襟から手を離す。
角灯の灯りに照らされた珊瑚は、汗ばんだ様子で胸を上下させ、美しい顔を歪ませていた。
その様子はどこか色っぽい。
紘宇は慌てて珊瑚から距離を取った。相手は具合を悪くして苦しんでいるのに、なんてことを考えているのかと、頭を振りながら自身を責める。
このまま、看病などとてもできない。そう思って、早朝ではあったものの、珊瑚のお付きの女官、紺々を起こしに行った。
紺々は紘宇の訪問に驚いていた。珊瑚の容態を伝えると、さらに慌てふためく。
とりあえず己のことは棚に上げて、落ち着くように叱咤した。
すると、紺々は冷静になったのか、後宮に住む女医を呼びに行くと言って駆けて行く。
ちょうど、珊瑚と交流のある女官――麗美を見つけたので、しばらく様子を見てくれないかと頼む。今日は休日だったようで、快く引き受けてくれた。
その後、紘宇は井戸の水を頭から一気に被る。肌に突き刺すような、冷たい水であった。これは精神統一と、邪気を振り払う効果がある。
ガタガタと全身震えていたが、歯を食いしばってこらえた。
合計十杯、水を被ったころには、手先の感覚はわからなくなっていた。
これは、武官の新人時代に毎日行っていたことである。
紘宇の中にあった雑念は、水と共に流れ落ちていった。
もちろん、このままだと風邪を引くことはわかりきっているので、風呂に入って体を温める。
こうして、体を清めた状態で、仕事に励むことになった。
その後、紺々より何度か珊瑚の容態についての話を聞く。
症状はそこまで酷くないようで、二、三日安静にしていたら、完治するとのこと。
紺々に今日は別の部屋で寝てほしいと言われたので頷く。内官用の部屋はどこも空なので、問題はない。
夕方、風呂に入りに行ったついでに、尚寝部の者に布団を用意するよう命じておいた。
廊下を歩いていると、尚食部の女官が粥の載った盆を運んでいるところに出くわす。紘宇は女官を呼び止めた。
「おい」
「は、はい」
「それは、珠珊瑚の食事か?」
「ええ、そのとおりでございます」
「だったら、私が運ぶ。お前は下がれ」
「は、はっ!」
紘宇は女官から粥の載った盆を受け取った。
部屋まで運び、寝室で眠る珊瑚のもとへ持って行く。 紺々は食事に行っているらしい。珊瑚当てに置手紙があった。
やって来た紘宇に反応したのはたぬきである。
「くうん」
珊瑚が心配で、一日中付き添っていたようだ。
先ほど女官は用意したらしい木の実が入った椀は、ほとんど食べていない状態だった。
珊瑚を心配しているからか、たぬきまでも食欲がなくなっていた。
「お前は何も心配しなくてもいい。しっかり食え」
「くうん」
今から珊瑚も食事にすると、宣言しておく。
寝台の脇にある卓子に粥を置き、紘宇は寝台の縁に座った。
珊瑚の顔を覗き込むと、医者の薬が効いたのか、だいぶ顔色が良くなっている。目元にかかっていた前髪を片方に流すと、そっと瞼を開く。
「……る」
「ん、なんだ?」
「……まーてる」
マーテル――それは異国の言葉で、『母』を示す言葉である。数ヶ月前より珊瑚の国の言葉でも覚えようかと勉強していた紘宇は、きちんと意味を理解してしまった。
母親に間違われた紘宇は、思わず叫んでしまった。
「誰がお前の母親か!」
きっぱりはっきりと、否定しておく。
珊瑚はその声ではっきりと覚醒したようで、青い目をパチクリと瞬かせていた。
「ん、こーう、ですか?」
「どうして私を母親と間違うんだ?」
「あ、す、すみません。母の、夢を見ていて……」
珊瑚の母親はとても厳しく、可愛がってはくれなかった。しかし、風邪を引いた時は、とびきり優しかったのだ。
「子どもの世話は乳母の仕事なのに、熱を出した日は、母が看病してくれて……」
しかし、健康優良児であった珊瑚は、母の看病は一回か二回してもらっただけだと話す。
「だから、印象に残っていて、こうして夢に見てしまったのでしょうね」
「そうか」
珊瑚はもう、家族に会えない。気の毒なことだと思った。
ここでは、家族を作ることすら許されない。
後宮が解体になったら、話は別であるが。
兄は、珊瑚をどう扱うつもりなのか。政治の駒にするのならば、絶対に許さない。
もう、武官という職にも未練はなかった。どうせ、守るべき皇族はいないのだ。
だから、もしもの時は珊瑚を連れて――。
「こーう、どうか、しましたか?」
珊瑚は起き上がり、紘宇の顔を覗き込んできた。ビクリと、肩を揺らしてしまう。
「今日は、忙しかった、ですか?」
いつもはきっちりと整えられている前髪が少しだけ乱れていると、指摘された。
一日中珊瑚のことを考えていたので、身なりを気遣う余裕などなかったのだ。
「風邪が治ったら、こーうのお仕事を覚えて、お手伝い、します」
「仕事のことは気にするな。しばらくゆっくり休んでおけ」
「でも、みんな、大変、ですし」
今日は具合が悪いからか、いつも以上に舌足らずだった。
こんな状態なのに、他人のことしか考えていないので、紘宇は食事を与えて黙らせることに決めた。
持って来ていた粥を盆ごと珊瑚の膝の上に置く。
蓋を開けてやると、ふわりと湯気が漂う。保温性に優れた器のようだった。
「それを食べて、ゆっくり寝ろ」
「はい、ありがとう、ございます」
珊瑚は匙で粥を掬い、はふはふと口の中で冷やしながら食べていた。美味しかったからか、頬が緩んでいる。
食欲はあるようでホッとした。たぬきも安心したのか、残りの木の実を食べ始める。
紘宇は腕を組み、珊瑚やたぬきが食事をする様子を眺めていた。
二人共、幸せそうに食べていた。そんなに美味しいものなのか。覗き込んでみたが、珊瑚の粥は特別な具など入っておらず、たぬきはその辺に落ちているどんぐりを食べていた。
特別な物は食べていない。恐らく、本人達の気持ちの持ちようで、質素な食事も美味しく感じるのだろう。なんとなく、ささくれていた心が癒される。
珊瑚は粥を完食した。女官が持って来た食後の甘味にも、目を輝かせている。
卓子の上に置かれた甘味は、黒くてプルプルとしていた。上から、蜜がかけられている。
女官から、「仙草ゼリーです」と紹介があった。
「こーう、一口、食べますか?」
そう言って、仙草のゼリーを紘宇の口元へと持ってきた。
仙草はシソ科の植物で、解熱や解毒作用がある。まさに、病人が食べるに相応しい甘味であると女官が言っていた。
それを、珊瑚は紘宇に食べさせようとしていた。
「遠慮せずに、どうぞ」
「いや、いい」
病人の食べものを奪ってはいけないと、首を横に振って断った。
「一口だけなので、どうか」
「まあ、そこまで言うのならば……」
紘宇は仙草ゼリーを口にする。食べるのは初めてだった。女性に人気の甘味であると聞いたことはあったが――。
「なんだこれは、不味い!」
プルプルの食感は面白いが、味は苦味が強く、かけられていた蜜は甘味の役割を果たしていなかった。
「美味しくない、ですか?」
「はっきり言ってな。お前は食べたことないのか?」
「はい、初めてです。美味しそうに見えるのですが……食べてみますね」
珊瑚はパクリと仙草ゼリーを食べる。即座に、表情が曇った。
明らかな表情の変化を見た紘宇は、吹き出してしまう。
「聞くまでもないが、どうだ?」
「健康になれそうな、気がします」
「全部食えよ?」
「うう……」
こうして、珊瑚は紘宇の監視のもと、健康に良い仙草ゼリーを完食することになった。