三十話 真夜中の小事件
さっそく、珊瑚は星貴妃を送り届ける。
長い廊下を通り、柱廊を抜けた先に寝屋があった。
護衛の女性武官が出入り口を守っていたのだが、今まで中が無人であったことに気付くと、驚いた顔を見せていた。
「星貴妃様、いつ、抜け出したのでしょうか?」
「半刻前ほどだろうか」
一時間も無人の寝屋を守っていたことになる。女性武官の顔色はサッと青くなった。
「安心せい。部屋の内部に抜け道があるだけだ。気付かないのが普通であろう」
星貴妃は戦慄く女性武官の肩を叩いて労った。
「珠珊瑚、お前はもう休め」
「はっ」
廊下に片膝を突いて、抱拳礼の形を取る。部屋の扉はすぐに閉ざされた。
「あとは、お願いいたします」
珊瑚は女性武官に頼んで、部屋に戻ることにした。
腰に下げる三日月刀はずっしりと重い。自由自在に振り回せるように、訓練をしなければと思う。
星貴妃に近づくなと紘宇に言われていたが、結局、近付いてしまった。
彼女の近くに在りたいと言ったら、また怒られるだろうか?
それは、珊瑚にとって何よりも辛いことである。
時間がかかってもいい。きちんと、傍にいたい理由を伝えなければ。
部屋に戻ると、たぬきが出迎える。
「……」
「ん?」
いつもは「くうん」と鳴いてやって来るのに、鳴かなかった。どうかしたのかと、しゃがみ込んで角灯の灯りで照らした。
「あ!」
たぬきの口には、失くしたはずの紫色の小袋が咥えられていたのだ。
手を差し出すと、ゆっくりと置いてくれた。
「たぬき、これは、どこに……!?」
「くうん」
たぬきは机の下に移動して、前足でトントンと叩く。
どうやら、部屋の中で落としていたようだ。
「そこも、捜したと思っていたのですが、慌てていたのでしょうね」
「くうん」
たぬきを抱きしめ、礼を言う。
「たぬき、ありがとうございました。これは、私の宝物なので」
「くうん!」
まるで、良かったねと、言ってくれているように思えた。
琥珀の玉を出す。落下させてしまったようだが、傷一つ付いていなかった。珊瑚はホッと安堵の息を吐く。
紫色の小袋の紐が切れていた。ここ数日、事件のせいで気が張っている状態だったのだろう。
お守りとはいえ、持ち歩くのは危険か。
珊瑚は琥珀をぎゅっと握りしめた。
その後、寝室には紘宇が眠っているので、執務室で寝間着に着替える。
最近は以前のように寝間着の下は裸、というわけではなかった。
その状態で紘宇の隣で眠るのが気恥ずかしく思い、布を巻いたまま眠っている。
まったく寝苦しくないと言ったら嘘になるが、そのほうが落ちついて眠れるのだ。
これも、紘宇を異性として意識していたからだろう。今になって気付く。
腰部分の紐をぎゅっと結んで、襟を整える。
寝る準備が整ったので、執務室を出て、たぬきを抱き上げ、寝室に向かった。
紘宇はいつもの通り仰向けの状態で眠っていた。腹の上に手を組み、微動だにしていない。寝返りを打つことなく、このまま朝まで眠っているのだろうか。夜中の体勢は定かではない。
珊瑚は琥珀を枕の下に入れる。しばらくの間、ここで保管するしかなかった。明日にでも、紺々に良い持ち歩き方がないか、相談してみることにした。
三日月刀はすぐ手に取れるよう、敷き布団の下に潜り込ませる。
紘宇を視界に入れると照れてしまうので、背中を向けた状態で横になった。
はあと、深い息を吐き出しながら、先ほどの出来事を振り返る。
琥珀を捜しに言った先で、星貴妃と会った。不審者に間違われたものの、誤解を解くことができた上に、三日月刀を賜った。思いがけない僥倖だろう。
やはり、目と目を合わせて話をしない限り、相手を理解することなどできないのだ。
誤解が解けて、本当に良かったと思う。
もう眠ろう。そう思ってたぬきを抱きしめ、目を閉じる。だが、気分が昂っているのか、なかなか眠れない。
今まで、寝付けないことはなかった珊瑚である。どうすればいいのか。
それから、一時間ほど経ったか。
体勢が悪いのかもしれないと思い、ぷうぷうと寝息を立てているたぬきを隣に寝かせ、仰向けになってみる。
紘宇は、珊瑚に背を向ける状態で眠っていた。一応、寝返りは打っているらしい。
目を閉じて、眠ろうとしたが――眠れない。眠りたいと思えば思うほど、目が冴えてしまうのだ。
再度、寝返りを打ち、紘宇に背中を向けた状態となる。
再度たぬきを抱きしめたい気もしたが、起こしてしまいそうだった。なので、すぐに諦めて、自分だけで眠る努力を行う。とは言っても、眠れ、眠れと心の中で念じるだけであったが。
ごそりと、背後で布が擦れる音が聞こえた。寝返りを打っているのだろう。
眠っている紘宇を羨ましく思う――のと同時に、腰周りに腕が回され、ぐっと引き寄せられた。
「――!!」
珊瑚は声なき悲鳴を上げる。
紘宇が寝返りと同時に近付き、珊瑚を抱きしめた状態でいるのだ。
「こ、こーう!」
声をかけたが、もちろん相手は起きない。
眠ったら朝まで起きないという噂だ。
以前、女官達の部屋に男が忍び込み、それはそれは、大変な大騒ぎになったらしい。
当時、たくさんいた宮官や内官のほとんどは、女性達の叫び声を聞いて目を覚ましていたが、紘宇だけは部屋で何事もなかったかのように眠っていたらしい。
本人曰く、自分や周囲にいる者に殺気を向けられた場合や、身の危険を感じた場合のみ起きるが、基本、それ以外で夜中に起きることはほぼないと。
よって今、珊瑚が紘宇を起こすことは無理に等しい。
どうすることもできず、珊瑚は体を硬くしていた。顔が真っ赤になっているであろうことは、自覚している。
きっと、紘宇は無意識のうちに、こうして抱きついてきたのだろう。
その気持ちは理解していた。
珊瑚も温かなたぬきを抱きしめると、ホッとする。それと同じように、紘宇も温もりを求めているのだろうと。
いつも世話になっているので、このまま温もりを提供してあげたいという思いもあった。
しかし、心臓に悪い行為でもある。先ほどから、胸がドクン、ドクンと激しい鼓動を打っていた。
申し訳ないと思ったが、身じろいで、腕の拘束から逃れようとしたが――力が強くて、腕を動かすことができなかった。
紘宇は年下ではあるが、男なので腕力では勝てない。
がっかりしていると、さらに抱き寄せられてしまう。
「ひゃっ!」
今まで出したことのないような変な声をあげてしまった。というのも、紘宇の唇が、一瞬だけ珊瑚の首筋に触れてしまったからだ。
この体勢は本当に良くない。心臓が保たない。
珊瑚は最後の手段として、紘宇に殺気を向けてみる。が、どうにも、上手くいかない。相手は紘宇である。殺気など出せるわけもなかった。
「こーう、あのっ!」
「くうん?」
別の方向から、声が聞こえてくる。たぬきであった。どうやら、紘宇ではなく、たぬきを起こしてしまったようだ。
「あ、すみません、ちょっと、想定外の事態になってしまい……」
「くうん」
なんでもないので、どうぞ眠ってくださいと勧めたが、たぬきは立ち上がり、尻尾を振っていた。
「あの、たぬき。こーうを、起こしてもらえますか?」
「くうん?」
「もしかしたら、背中をポンポンと叩いたら、起きるかも」
「くうん」
もちろん、珊瑚の願いなど、届かない。
そして、何を思ったのか、たぬきは寝台から出て、寝室の隅にあるお昼寝用の籠に入って寝始める。
「あ、たぬき……!」
ついに、寝台の上には、珊瑚と紘宇のみとなってしまった。
いったい、どうすればいいのか。このままでは、絶対に眠れない。
体が火照り、頭もクラクラする。
これが恋心から生じるものならば、辛いすぎる。
どうしようか――。
絶体絶命である。そう思った折に、お腹をポンポンと叩かれる。紘宇が、珊瑚を寝かしつけようとしていた。
もちろん、眠っている。無意識の中での、行動なのだろう。
子どもではないのだから、そんなことで眠れるわけなどない。そう思っていた珊瑚だったが、あっさりと眠ってしまった。
夜明けとなり、紘宇は珊瑚から離れ、朝の冷たい空気が流れ込むとたぬきは寝台へ戻る。
夜の闇は太陽の光に押し上げられていく。
ついに、朝になった。
この日、初めて珊瑚は寝坊をした。
紺々に起こされて、真っ青になる。朝食の時間は疾うに終わり、紘宇はすでに執務室に籠っている状態であった。
起き上がろうとしたが、紺々に止められた。
「あの、どうして、ですか?」
「どうやら、風邪を引かれているようです。具合はどうですか?」
紘宇が珊瑚の異変に気付き、紺々を呼びに行ってくれたようだ。
「びっくりしました。汪内官が、すごく焦っていて」
「こーうが、ですか?」
「ええ」
後宮には、女性の医師がいる。先ほどやって来て、診察をしてくれたらしい。
「そう、だったのですね。まったく、気付きませんでした」
「先ほどまで、すごいお熱でしたから……。お医者様は、ただの風邪だと。食事を食べて、お薬を飲んで、ゆっくり休んだら、すぐに治るそうです」
「ありがとう、ございます」
昨日、風呂に上がったあと、寒空の下で兵部の者に付き合って、現場検証などをしたせいだろう。珊瑚は、溜息を吐く。
昨日、やたら体が熱かったり、頭がクラクラしていたりしたのは風邪のせいもあったのだろう。
紘宇のせいばかりではなかった。
「それにしても、風邪なんて、子どもの時、以来です」
「そうでしたか……」
張り詰めていた気が、プツンと切れてしまったのだろう。
異国の地で、どうにか頑張ろうと奮闘し、結果、体に無理をさせていた。
「今日は、ゆっくり休んでください」
「はい、ありがとう、ございます」
その後、紺々に粥を食べさせてもらい、薬を飲む。
汗ばんでいた体を拭いて、着替えをした。
新しい寝間着を着ると、すっきりとした気分になる。
「あ、あと、あのことは、先生に黙っておくように、お願いしておりますので、ご安心を」
「あのこと、ですか?」
「はい。珊瑚様が、男装をされているということです。先生はすぐにお気づきになりましたが――」
話を聞いている途中であったが、薬の効果が出始めたのか。眠くなる。せっかく紺々が何か話をしているのに、頭に入って来なかった。
紺々は濡れた布を珊瑚の額に載せてくれた。ひんやりしていて、気持ちが良い。
「ゆっくり、お休みください」
紺々の声を聞きながら、珊瑚は深い眠りに就いた。