二十七話 朱に染まる
目を擦ったので、赤化粧が取れてしまった。
赤い涙を流していたようで、紘宇より恐ろしい形相になっていると指摘される。
「す、すみません」
「まったく、仕方がない奴だ」
そう言って、紘宇は珊瑚の目元から頬にかけて、手巾で拭ってくれた。そのあと、瞼から目じりにかけて、赤化粧を施してくれると言う。
なんだかんだと言いながら、紘宇は面倒見が良い。異性からこのような扱いを受けたことがない珊瑚は、落ち着かない気分でいる。
紘宇は寝室から紅を持って来る。容器は貝殻になっていた。
「あ、入れ物、カワイイですね」
「ちょっと黙ってろ。集中できん」
「はい」
紘宇は紅を小指に付ける。
真剣な表情を向けられ、珊瑚も緊張する。じっと見つめていたら、低い声で注意された。
「目を閉じてくれ。紅を塗れない」
「そうでした」
他人の前で、目を閉じることなんて初めてだった。
余程の信頼感がないとできない。
珊瑚は言われるがままだった。それだけ、紘宇のことを信じているのだろう。
そっと、瞼に指先が近付く。先に、顎に手が添えられた。想定外の場所に触れられた瞬間、ドキンと胸が高鳴った。
丁寧に、丁寧に、紅が引かれていく。
指が瞼の線に沿うたびに、珊瑚の肌は粟立つ。このような感覚は、今までにないことで、戸惑いを覚えた。
この状況に耐えきれず、ぎゅっと目を閉じたら、塗りにくいと怒られてしまった。
「終わった」
「ありがとうございます」
瞼を開くと、紘宇の顔がすぐ目の前にあり、珊瑚は顔を真っ赤にさせる。
紘宇はじっと、珊瑚の顎に手が添えたまま、顔を見ていた。今までにない熱心な眼差しに、どぎまぎしてしまう。
紘宇は、珊瑚は想像もしていなかった一言を口にした。
「うん、良く塗れているな」
紘宇の熱い視線は、珊瑚を見ていたのではなく、赤化粧がきちんとできているか確認しているだけだった。
いったい何を期待していたのかと、恥ずかしくなる。近くにいたたぬきを抱き上げ、顔を埋めながら、礼を言った。
「おい、毛が付くから、たぬきは雅会が終わってからにしろ」
たぬきについては、またしてもお預けを食らってしまう。
紘宇から貰った琥珀は、小さな布袋に入れて腰から吊るしておく。
ずっと緊張状態にあったが、お守りの効果か心臓のバクバクは治まった。虎の力は偉大だと思う。
青空は茜色へと染まっていく。
牡丹宮には赤い灯篭が点され、壁や床は赤く照らされる。一気に、いつもとは違う雰囲気になった。
女官達は普段の仕着せではなく、華やかな青の華服を纏っている。左右の腕に巻いた長い羽衣――帔帛が動くたびにヒラヒラと舞って美しい。
雅会は、女官が着飾ることを唯一許された日でもあった。
麗美曰く、これは牡丹宮だけの決まりだとか。他の後宮では、女官は物扱いで、普段より柄のある華服を纏うことすら、許されていない。
櫛を挿すことすら禁止で、非常に地味な暮らしをしているらしい。
牡丹宮では、女官は位によって牡丹の櫛があり、仕着せには刺繍が施されている。
仕事を頑張ると、装いも変わっていくのだ。些細なことであるが、これらは女官達の張り合いにも繋がる。
元々、牡丹宮の女官達は他と同じ質素な装いであったが、星貴妃が途中から改革を行ったのだとか。実家の星家が裕福だったので、できたことである。
女官を想う心も、彼女らが心酔する理由の一つである。
星貴妃はキツイ印象であるが、心優しい人なのだろう。
珊瑚はそう思っていたが、紘宇は星貴妃に近づくなと言った。怒りをあらわにしていたので、意味までは聞けなかった。
何か、確執があるのかもしれない。
紘宇は武官をして身を立てていたのに、皇帝計画のせいで後宮に連れて来られてしまった。星貴妃は悪くないが、怒りの矛先を向ける場所がないのだろう。
そう、思っておく。
後宮の頂点に立つ女性なので、そうそうお近づきになれる機会などないだろう。
紘宇の言ったことは頭の片隅に追いやり、気にしないでおく。
紺々も今日ばかりは、着飾っていた。今日のために、麗美とお揃いの衣装を作っていたらしい。
「私、裁縫がヘタクソなのですが、麗美さんが手伝ってくれて」
「そうだったのですか」
紺々と麗美は、珊瑚の知らないところで仲良くやっていたようだ。
青い華服に白の襟を合わせ、黒い帯には白牡丹の刺繍が施されている。腕には水色の帔帛がかけられていた。湖を泳ぐ魚の鰭のように、ヒラヒラと動いている。
その場が華やぐような、美しい装いだった。
会場に到着する。
広間の中心には、二羽の赤い鳥――鳳凰の飾りがあった。壁には赤い紐で作った細工が飾られ、天井からは満月を模した灯篭が吊るされている。
女官達は左右を囲むように列を成していた。
内官である紘宇と、宮官である珊瑚は、星貴妃の座る場所の後方に案内された。
やはり、妃嬪の愛人は特別なのだと、実感する。
そのさらに背後に控えるのは、星貴妃に仕える女官達。麗美の姿を見つけた珊瑚は、軽く手を振った。麗美は微笑みを返してくれる。
準備が整ったので、星貴妃付きの女官達がいなくなる。本日の主役を迎えに行ったようだ。
シンと静まり返ったあと、尚儀部の演奏が始まる。
二胡や古筝、陽琴、各胡、洞簫などから、柔らかく、美しい音楽が奏でられた。
演奏が一番盛り上がる音色が奏でられた瞬間、扉が左右に開かれる。
星貴妃が、女官を引き連れてやって来た。
その姿を目にした女官達は、ほうと溜息を吐き、羨望の眼差しを向けている。
星貴妃の額で輝くのは、艶やかに咲いた金細工の花と鳳凰の冠。赤い宝石が散りばめられ、左右から垂らされている金のビラが、シャラリ、シャラリと音を立てていた。
天女のように優美で、美しい。彼女こそが、牡丹宮の妃嬪である。
誰も、意を唱える者はいない。
威風堂々とした足取りで女官達の間を歩き、最後に、両手を肩の位置まであげた。
珊瑚と紘宇は、自然と手を貸す。
星貴妃は二人の愛人の手を取って、その場に座った。
その後、宴は始まった。
まず、尚食部が腕に寄りをかけて作った、蟹料理が運ばれる。
毒味係が食べ、問題ないことがわかったら、星貴妃が料理を口にする。それから、酒を飲み、他の者も食べるようにと促す。
雅会では、女官にも料理が振る舞われる。これも、牡丹宮の特別な決まりらしい。
珊瑚の前にも、大きな蒸篭が置かれた。
周囲の者達がしているように、蓋を開く。中から出て来たのは、大きな甲羅にハサミがある、不思議な生き物であった。
「――えっ?」
未知の料理を前にして目を丸くしていると、紘宇が話しかけて来る。
「それは蟹だ」
「カニ、ですか」
近くにあった匙で、甲羅をコンコンと叩いてみる。かなりの硬さであった。これをどうやって食べるのか。珊瑚はわからない。
「カニ……」
「貸せ」
紘宇は珊瑚の蟹の入った蒸篭を引き寄せる。
まずナイフで足を切り、甲羅を剥ぐ。
「甲羅にタレを入れて混ぜるんだ」
「へえ」
面倒見の良い紘宇は、甲羅の中でタレも作ってくれた。
胴体も半分に切って、匙で身を掬う。そのままタレに付けて――。
「ほら」
紘宇は匙を珊瑚に向けた。どうやら、食べさせてくれるようだ。
「え!?」
「いいから早く食え。タレが滴るだろう」
「えっと、はい。ありがとうございます」
差し出された匙を、珊瑚は口にする。
蟹は美味しかった。強張っていた顔も緩む。
「こーう、おいしいです」
「そうか」
ここで紘宇も自らの行為の過保護さに気付いたようで、顔を思いっきり逸らしていた。
「あ、あとは、自分で食べろ!」
「はい。ありがとうございます」
その様子を、女官達は注目していた。揃って嬉しそうに、キラキラとした視線を向けている。
皆が注目していたら、星貴妃もなんだと思って背後を振り向く。
仲良く並んで蟹を食べている様子を見て、ぼそりと呟いた。
「お主ら、仲が良いな」
紘宇は瞠目し、言葉を失っている。
珊瑚は頬を赤く染めていた。
女官達は皆、微笑ましい表情で見守っていたが――平和な時間も長くは続かなかった。誰もが想像していなかった事件が起きる。
絹を裂くような叫び声が、扉の向こう側から聞こえた。
それと同時に、ガラリと扉が開かれる。
突然広間へと入って来たのは、武装し目元だけを出した、黒衣の男であった。