二十四話 星貴妃の愛人
珊瑚はトボトボと、廊下を歩く。
気分転換をするために外に出たのに、星貴妃と出会ってしまい想定外な事態となった。なんとなく、今まで以上に嫌われたような気がして、落胆する。
雅会の評価に響かないといいが。
その上、紘宇を怒らせてしまったことも悩みの種だ。
悪いことは重なるものだと、深い溜息を吐く。
「あ、珊瑚様、よかった」
廊下で紺々と会った。風呂に入るか否か、訊くために捜し回っていたらしい。
「ありがとうございます。入ります」
紺々は先に入ったようだった。入浴の手伝いをするかと訊かれたが、一人で入りたかったので断る。
終始ぼんやりしつつ、風呂を終えた。
紺々と廊下を歩いていると、話しかけられる。
「あの、珊瑚様、どうかなさいましたか?」
元気がないと言われた。
なんでもないと言おうとしたが、星貴妃といろいろあったので珊瑚のお付きである紺々にも、何か影響が出る可能性があった。
「少し、部屋にお邪魔をしてもいいですか?」
「はい」
廊下から紺々の私室に移動し、事の次第を説明した。
「そんなことが……」
「もしかしたら、こんこんにも、何か影響が、あるかもしれません」
「いえいえ! 私は大丈夫です。元から、星貴妃様に良い感情は持たれていませんので!」
気にしないでくれと、念押しされる。今回の件は、運が悪かっただけだとも。改めて、珊瑚は紺々の存在に励まされた。
「こんこん、ありがとうございます」
珊瑚は紺々の小さな体を抱きしめた。
「あ、ふわっ! いえ、はい……」
ふと、紺々の耳が真っ赤になっていることに気付く。華烈では、礼に抱擁はしないと礼儀の時間に習った気がする。それを思い出し、離れようとしたら――。
「紺々さん、尚食部の方からお菓子を貰ったの――きゃあ!!」
突然部屋に入って来たのは麗美だった。
部屋で抱擁する珊瑚と紺々を見て、目を剥く。
「あ、あなた達、何をされているの!?」
「え?」
「まさか、二人ができていたなんて!!」
ここで、麗美が大変な勘違いをしていたのだと気付く。
紺々に続いて、珊瑚も慌てて弁解することになった。
「あら、そういうことでしたの」
珊瑚は星貴妃に会い、いろいろやらかしてしまって落ち込んでいた。それを、紺々が励ましてくれた。最後に、礼として抱擁する。
以上が部屋で行われていたことのすべてであった。
「驚きましたわ。紺々さんと珊瑚さんが秘められし関係なのかと、思ってしまいました」
「あ、ありえないです。絶対に!」
「当たり前ですわ。内官と宮官は、もれなく全員妃嬪様の愛人ですし、関係なんか持ったら、後宮追放ですわよ」
「え!?」
その事実に、珊瑚は驚く。
「あら、珊瑚様。聞かされていなかったのですか?」
「は、はい……」
後宮にいる男性すべてが、妃の男であるという事実は把握していたが、それに女である自分まで含まれているとは知らなかったのだ。
「そ、それは、私みたいな、変わった者も、ありうると?」
「ええ、もちろん。まあ、珊瑚様みたいな珍しい御方は、おそらく他にいないでしょうが……」
「で、ですよね」
珊瑚は女なのに星貴妃の愛人であることはありえるのか。そういう意味で麗美に聞いた。
だが、麗美は異国人であることが変わっている点だと勘違いして、深々と頷く。
上手い具合に、互いの勘違いが成立していた。
「そういえば、前から聞きたかったのですが、妃嬪様、というのは、どういう意味ですか?」
女官の多くは、星貴妃よりも妃嬪と呼ぶ者が多い。ずっと、疑問に思っていた。
麗美が説明してくれる。
「妃は皇帝の妻を示す言葉で、嬪は高貴で美しい女性という意味です。なので、妃嬪様というのは、『わたくし達の高貴で美しい妃様』、という意味となります。我が国独自の後宮言葉ですね」
「なるほど」
星貴妃の美しさや気質に心酔している女官が積極的にそう呼ぶ。麗美は後宮事情を丁寧に説明してくれた。
「では、こんこんとれいみサンは、私にとっては、姫嬪様、ですね」
「と、とんでもないことです!!」
「やだ、珊瑚様ったら!」
対照的な反応をする二人である。
その様子を眺めていたら、落ち込んでいた気分は少しだけ晴れた。
問題は紘宇である。果たして、どうやったら機嫌が治るのか。
そんなことを考えつつ、部屋に戻った。
部屋の灯りは消されていた。小さな灯篭が一個だけ点っているばかりである。執務室も同様に。もう、紘宇は寝ているのだろう。
「くうん」
「たぬき。まだ、起きていたのですね」
「くうん」
暗闇の中から、帰って来た主人を出迎えようとたぬきがやって来る。
いつもより元気がない珊瑚を見て、切なげな鳴き声をあげていた。
「私達も眠りましょう」
「くうん」
珊瑚はフワフワモコモコなたぬきを持ち上げ、寝室に向かう。
予想どおり、紘宇はすでに眠っていた。珊瑚のほうに背中を向けている。いつもは仰向けに寝ているので、怒っていると示しているのだろう。
なぜ、ここまで怒らせてしまったのか。わからない。
一度、自分のことに置き換えてみる。
もしも、騎士隊の同僚であるヴィレが、珊瑚に剣を習いたいと言ってきたので、一生懸命指導した。
のちに、剣の修業を頑張っていたのは、姫君より贈られた剣を取り返すためであると発覚する。
考えてみたが、別に怒りは感じない。
それどころか、微笑ましく思った上に頑張ったねと声をかけていただろう。
ここで、珊瑚は紘宇の年齢について思い出す。
彼は年下だ。年上を指導して、欲のためだったと発覚した場合、腹が立つのではと気付く。
仮に、兄や先輩騎士に同じことをされたら、微笑ましくは感じないかもしれない。別に年下の者に頼らなくても、他に指導できる人はいたのではと思う。
ようやく、珊瑚は紘宇の怒りの理由に気付くことになった。
寝台に上がってたぬきを寝かせたあと、珊瑚は背を向ける紘宇の前に正座する。
そして、頭を下げた。
「こーう、ごめんなさい。せっかく、指導してくれたのに、ごめんなさい」
今は、謝罪の言葉しか言えない。弁解はしないでおこうと思った。
代わりに、紘宇の仕事の手伝いを頑張る旨を伝える。
一度下賜された宝剣のことは忘れて、仕事に励むことを決意した。
返事はない。眠っているとわかっていて、話しかけた。
これは、珊瑚に言い聞かせるための言葉だった。
話が終わったので、全身をすっぽりと覆う上着を脱ごうとしていたら、ごほん、ごほんと、咳払いが聞こえた。
「こーう、大丈夫、ですか?」
そういう咳ではないと返された。
「お、起きていたのですか?」
「あれだけ大きな独り言を言っていたら、誰だって起きるだろうが」
「すみません、でした」
シンと静まり返る。このまま眠ったほうがいいのか。そんなことを考えていると、紘宇が話しかけてくる。
「お前は……本当に、反省しているのか?」
紘宇は背を向けたまま、話しかけてくる。相手に見えていないが、コクリと頷いた。
「反省しています。もう、しません」
「当たり前だ。二度と、このようなことはないように、気を付けろ」
「はい、わかりました」
紘宇は許してくれた。ホッと、安堵の息を吐く。
「お前の剣については、今度兄に聞いてみる」
「こーう、それは……」
「たぶん、役目と交換であると言いそうだが」
役目と聞いて、珊瑚は頬を染めた。
内官と宮官は星貴妃の愛人である。時代の皇帝及び皇后を産ませることが、お役目であった。
女である珊瑚に、役目を果たすことはできない。
しかし、床に入ることはできる。
「私に……お役目が果たせるのか」
「お前か俺が役目を果たさないと、どうにもならん」
珊瑚が星貴妃のもとへ通うこと以上に、紘宇が星貴妃のもとへ通うことについて、衝撃を受けた。
後宮とはそういう場である。
しかしどうしてか、それについて――嫌だと、そう思った。
この、心のくすぶりはなんなのか。
珊瑚は理解できず、胸を強く押さえていた。