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二十話 汪紘宇の動揺その二

 月が照らす寝室の中で、二人は見つめ合う。

 額には、汗が浮かんでいた。

 どうすればいいのか。紘宇は迷っていた。


 自分は男に対し、欲望を抱く性癖だった――ということが、たった今判明した。


 衝撃を受ける。

 そんなはずはないと思いたいのに、珊瑚を押し倒した状態でも、相手が男だからという嫌悪感はない。

 それどころか、このまま行為に至れる自信がある。

 いやいやいやと、首を横に振った。


 珊瑚はといえば抵抗することなく、身じろごうともしない。

 向けられた眼差しは確固たる信頼と、これから起こるかもしれない事態をまったく想定していない様子だった。


 いったいどういう育ち方をしたのか。警戒心がまるでない。これほど世間知らずとはと、驚いてしまう。

 剣の腕はなかなかのものだった。

 王族の警護にあたっていたらしく、家柄だけではなくて、能力も高く買われたのだろうということが剣を交えてわかった。

 珊瑚が裕福な家庭で育ったというのは、間違いないだろう。

 男だから、身の貞操の心配はいらないと判断されたのか。


 だが、現に珊瑚は今、身の危険が迫っている。しかも、本人はまったく気付いていない。


 紘宇の中にある、悪い心が囁く。別に、手を出しても問題ないだろうと。

 この年で、無知なほうが悪い。

 自分の身は自分で守らなければならないのに、珊瑚はそれをしなかった。襲われても仕方がない。


 一方で、良い心が待ったをかける。承諾を得ていない相手にむりやり行為を強いるのは、あってはならないこと。

 しかも、相手は武人。実力を認めた相手だ。欲求を解消する相手をとして見るのはおかしい。その上、いくら美しくても男だ。

 愛にはさまざまな形があることは確かだが、今一度、考え直したほうがいいのでは。


「こーう?」


 珊瑚が上目遣いで見上げた。

 澄んだ青い目には、紘宇を心配するような色合いが滲んでいた。


 ハッとなる。


 ここに来て初めて、心配してもらったと。

 皆が皆、紘宇ですら、自分のことしか考えておらず、他人を慮ることはしなかった。


 だが、この悪意と野望蔓延る後宮の中、珊瑚は穢れていなかった。

 唯一と言ってもいい。

 不幸な状況を嘆くことなく、前向きだった。

 妙な気を起こした紘宇に対しても、慈しみに満ちた優しい目を向けている。

 このような清廉潔白な者など、今まで出会ったことがない。


 じっと見つめていると、たぬきが近寄って来て「くうん」と鳴く。

 そのなんとも言えない間の抜けた鳴き声に、吹きだしてしまった。


 紘宇は珊瑚の上にのしかかっていた体勢から横に移動する。そして、一言謝罪を口にした。


「すまん」

「いいですけれど、どうかしたのですか?」


 この行動を、どう説明すればいいのかわからなかった。

 正直に言うのも、気が引ける。

 こんなことをしておいてなんだが、珊瑚とは今までとおりの付き合いをしたいと思っていたのだ。


 最低な行為を働こうとした。嘘を吐くわけにもいかない。

 紘宇は言葉を振り絞る。


「……別に、人肌が、恋しくなっただけだ」


 遠回しに、遠回しに、振り絞った言葉がこれだ。


「こういうことは、他人であるお前に、求めることではなかった。本当に、すまなかった」

「こーう」


 気まずくなって、紘宇は顔を背ける。

 珊瑚は何を思ったのか、起き上がってたぬきを抱きしめる。

 そして、紘宇に近付き、たぬきを間に挟んだ状態で抱きしめた。


「くうん」


 紘宇と珊瑚の間に挟まる形となったたぬきは、嬉しそうに尻尾を振っていた。


「なっ!」


 一方で、紘宇は驚いて身を硬くしている。


「こーう、温かい、ですか?」


 ドクンと、胸が高鳴る。

 背中に回された腕は、温かかった。それに、なんだかいい匂いもする。

 頬に触れた髪は柔らかくて、あとたぬきはフワフワしていて、獣臭くない。


 空っぽだった心の中が、今まで感じたことのないもので満たされた。


「ありがとう……珊瑚」


 無意識のうちに、感謝の言葉を口にしていた。

 優しい声色に、口にした自身が驚く。


 珊瑚は紘宇から離れる。たぬきを抱きしめたまま、にっこりと微笑みながら言った。


「初めて、名前を呼んで、くれましたね」


 その事実に、紘宇は驚く。今まで、名前すら呼んでいなかったのだと。


「その、少し照れますが、嬉しいです」


 そう言われた紘宇も照れてしまう。だが、すぐに我に返った。

 なぜ、男同士、名前を呼び合って恥ずかしがっているのかと。


「そんなことで喜ぶとは、めでたいやつだな」

「はい! よろしかったら、もっと呼んでください」


 ここで照れるのはおかしい。別に、名前を呼ぶなんて、なんてことはない。

 紘宇は半ば自棄になりながら、珊瑚の名を口にした。


「珊瑚」

「あ、えっと、はい」


 珊瑚はたぬきの体に顔を埋め、嬉しそうにしていた。

 その可憐な反応に、紘宇は言葉を失う。

 ――男、こいつは男。綺麗な顔をしているが、間違いなく男。

 呪文のように頭の中で唱える。


「あの、こーう?」

「なんだ」

「お願いがあるのですが」


 もう、これ以上振り回さないでくれ。そう叫びたかったが、珊瑚にはもう、大きな態度で出ることはできなくなっていた。

 震える声で、どうしたのかと問いかける。


「よかったら、この子の名前も呼んでいただけないですか?」

「……は?」


 たぬきの期待に満ちた視線が、紘宇のほうへと向けられる。

 なぜ、改めてたぬきと呼ばなければならないのか。普段から、たぬきたぬきと呼んでいる。

 と、ここで紘宇は気付く。珊瑚にたぬきと喋るなと怒っていたのに、自らもたぬきと喋っていたと。たぬきと二人きりの時限定ではあるが。


 珊瑚の名前を呼んで、喜ばれて、照れる自分がなんだか馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 もう寝よう。

 紘宇は、目の前にいる者達へと声をかける。


「もう、寝るぞ。珊瑚、たぬき」

「紘宇!」


 珊瑚は目をキラキラとさせ、たぬきは手足をバタつかせて喜んでいた。


 最後に、止めを刺すような行動に出てくる。

 珊瑚はたぬきを抱いたまま枕の下を探り、紙に包まれた何かを差し出してきた。


「なんだ、これは?」

「日頃の、感謝の印です」


 紘宇は首を傾げながら受け取る。基本的に、後宮内で何かを入手することは不可能だ。いったい、何を用意したのか。表に何か書いてあった。慣れない異国の文字を一生懸命書いたものだとわかる。

 角灯の火を灯し、記されていた文字を読んだ。


 ――肩たたき券。


 見間違いかと思い、もう一度、声に出して読んでみる。


「肩たたき券」

「はい」


 いつも、肩が凝っているように見えたので、用意したのだと言う。

 肩たたき券を持つ手が、ブルブルと震えていた。

 紘宇は、思っていたことをそのまま口にする。


「私は、お前の祖父か!」


 言い切って、ハッとなる。

 角灯に照らされる顔は、しょんぼりと、落胆しているように見えた。

 なぜかたぬきまで、耳をペタンと伏せて、元気がなくなっているようだった。

 おそらく、喜ぶと思って用意してくれたのだろう。

 その気持ちを無下にするわけにはいかない。


「……あ、いや、うん。そうだな、言われてみたら、肩は、凝っている」


 今度、頼むかもしれないと言ったら、珊瑚は嬉しそうに頷いていた。たぬきも、尻尾を振り出す。


 礼を言い、肩たたき券は枕の下に入れた。

 どっと、疲労感に襲われる。

 珊瑚とたぬきに振り回されてしまった。深い溜息を吐いて、布団を被る。

 眠れないのではと思っていたが、瞼を閉じたらあっさりと寝入ってしまった。

 紘宇の長い一日は、こうして終わる。


 ◇◇◇


 翌日、珊瑚は麗美に礼を言った。


「れいみサン、ありがとうございます。こーう、肩たたき券、喜んでいました」

「本当ですか? よかったですわ」


 珊瑚と麗美は手を取り合って喜んでいた。

 その様子を見た紺々がボソリと呟く。


「汪内官、案外優しいんですね……」


 紘宇の意外な一面を知る紺々であった。


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