二話 大事件は突然に
翌日の会談では、外交を司る礼部の長官である男がやってくる。
年頃は三十代から四十代ほどの男性で、汪永訣と名乗った。
胸の前で襟を重ね合わせ、腰に帯を巻いて締める不思議な服は、華装と呼ばれる、華烈独自の衣装である。
ボタンを使わずに帯で締める、一見ゆったりとした印象のある衣装であるが、髪を整え、冠を被れば威厳があるように見えていた。
煌びやかな華装を纏った女達が、机の上にもてなしの品々を並べていく。
美しい陶器に注がれたお茶、桃を模って作られた桃寿というお菓子は、長寿を祝う物であるが、両国間の関係が長く続くように用意したと、汪尚書は話す。
メリクル王子は笑顔を浮かべお茶を飲み、お菓子を食べた。
王子の背後に佇むコーラルは、和やかな雰囲気にホッとする。
このまま終わってくれと、切に願った。
一日目の会談は無事に終了。ほっと胸を撫で下ろす。
会談終了後、皇帝直属の役人が勢ぞろいした食事会が開催される。
大貴族であるコーラルやヴィレも招待があったのだ。
通訳を介した会話を楽しみ、そこそこの盛り上がりを見せる。
解放されたのは、時間が変わるような時間帯であった。
「…………疲れた」
ヴィレは用意された部屋の寝台に横たわる。
「あの、ヴィレ、風呂は入らないのですか?」
「あとで、入る」
コーラルとヴィレは一緒の部屋があてがわれていた。役人達はコーラルを女性として認識していなかったのだ。
「なんていうか、仕方がない、と……。この国の女性は、成人していても、子どもみたいに幼い。背も小さいし……」
勘違いはコーラルの性別だけでなく、十六のヴィレも成人男性だと間違われたのだ。
幼く見られる国と、老けて見られる国、どちらがいいのかヴィレは真剣に考える。
「そんなことよりも、眩暈が酷い……」
「ヴィレ、酒を飲んだのですね」
「どんどん注がれて、断れなくて……」
「わが国では、お酒は十八からですよ」
「ここは、華烈、だし……」
説教をしようと近づいたが、すでにヴィレは微睡みの中にあった。コーラルは嘆息をし、お小言は明日言うことにした。
静かになると、じわじわと不安感を思い出してしまう。
ぼんやりと輝く月を見上げた。胸騒ぎはまだ収まらない。
女官が心配そうにしていたので、胸が苦しいと、拙い喋りと動作で伝えてみたら、抱きしめて慰めてくれた。
小部屋に連れ込まれそうになったので、時間をかけて誤解を解くことになる。
その後、女官が用意してくれた風呂に浸かり、ふうと息を吐く。
今日も長い一日であった。
◇◇◇
「――ん?」
朝、手元にふわふわで温かな物があり、違和感を覚えたコーラルは一瞬で覚醒する。
片手に枕の下に置いてあった短剣を掴み、ガバリと起き上がった。
刃を抜いて、布団を剥したら――。
「寒い」
「……」
一緒の布団に潜り込んでいたのは、ヴィレだった。
想定外の侵入者に、がっくりと肩を落とす。
ふわふわとしたのは、ヴィレの猫毛であった。
胸を撫で下ろし、短剣の刃を鞘にしまう。
「ヴィレ、あなたはなぜ私の布団で寝ているのですか」
「……私も、知りたい」
ヴィレはぎゅっと身を縮め、布団を集めて身を丸める。謝罪の言葉と共に、頭が痛いと漏らす。
「いったいどうしてここに?」
「寝ぼけていたんだと思う」
「なるほど」
「コーラルの体温が高かったから、よく眠れた、気がする」
「それは良かった――と、言うと思いましたか?」
「いや、うん、まあ……申し訳ないと」
布団を引きはがそうとしたが、すぐに起きられない事情があると言うので、見逃しておいた。
顔を洗い、身支度を整える。
髪は丁寧に櫛を通し、整髪剤で整えた。
戻ってくれば、机に朝食が並んでいた。ヴィレと二人、食べる。
本日のメニューは鶏で出汁を取った卵粥。薬味が十種類以上用意されていた。
ヴィレは一口食べ、物憂げな表情を浮かべる。
「いい加減、パン食べたい」
「そうですか?」
「病人食の麦粥みたいで、三食これはちょっと……」
「私は好きですよ、お粥」
「いいな……。私も、コーラルくらいの適応力がほしかった」
ヴィレの話を聞きながら、とろりと炊かれた粥を蓮華という陶器の匙で掬って食べる。
鶏の旨みが濃縮されており、祖国で食べるスープよりも味に深みがあった。
個人的に、コーラルは華烈での料理を気に入っている。
だが、ヴィレの口には合わなかったようだ。
「ヴィレ、だったら、パオを食べればいいでしょう」
パオとは麦を練って発酵させ、蒸して作った華烈風のパンである。
それも、ヴィレにとっては微妙な物だった。
「あれ、ふにゃふにゃ過ぎて」
「ふかふかなのは嫌なのですか?」
「そう。パンは歯ごたえがほしい」
歯ごたえのある硬いパンは華烈にはない。これも文化の違いだと思うことにする。
眉間の皺を指先で伸ばし、はあと息を吐く。
「何の溜息だ?」
「いや、ヴィレは本物のお坊ちゃんなんだなって思いまして」
「そう……だな。甘やかされて育ったのかと」
だから、同じように甘やかされて育ったメリクル王子の元に仕えることになったのだとヴィレは話す。
結局、ヴィレは食事を完食せず、匙を置いてしまった。
額を押さえ、溜息と共に憂いの一言。
「今日は何もおきないといいけど……」
「それは、神のみぞ知りうることです」
しんみりとそんな話をしつつ、交代に向かおうと立ち上がった刹那、誰かが部屋まで駆けてきて、ドンドンと扉を叩いて来る。
いったいどうしたのか。
声をかけるのと同時に、今までにない胸騒ぎを感じた。
「勤務前の時間に申し訳ありません! じ、じつは、殿下が、その――」
「落ち着いて、ゆっくり話してください」
報告にやってきた騎士は、激しく動揺していた。報告を口にしようとすれば、激しく咳き込む。
コーラルは水差しの水を陶器のカップに注ぎ、ゆっくりと飲ませる。涙目となっている若い騎士の背を撫で、落ち着かせた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
息が整った騎士は、再度報告を始めた。
「メリクル殿下と、皇帝直属の武官が言い争いをしておりまして……」
原因は特別に宴をもてなしていた女、武官の妻をメリクル王子が誘惑し、一晩夜を共に過ごしたということだった。
「殿下は、その、事実を否定しております」
「だったら、私達はそれを信じるしかありません」
コーラルは他の上官にも報告するように言う。
騎士が部屋から駆け出していったのを見送り、ポケットに入れていた手袋を取り出して嵌めた。
すっと立ち上がると、ヴィレが尋ねる。
「コーラル、どうする?」
「殿下の元へ行きましょう。できることは、何もないかもしれないけれど」
嫌な予感しかしなかったが、不安を口にすれば本当のことになる。喋った言葉が現実のものとなってしまう、言霊という古い言い伝えがあった。なので、悪い憶測は言わない。
激しい鼓動を打つ胸を押さえ、部屋を出る。
コーラルとヴィレは、メリクル王子の寝所へと急いだ。
◇◇◇
男の怒声が、部屋の外にまで響いていた。
早口言葉でコーラルには何を言っているのかわからなかったが、激しい怒りを覚えているのはわかる。
部屋の前に集まっていた女官や騎士達を押しのけ、中へと入って行った。
「メリクル殿下!!」
それは、ちょうどメリクル王子の目の前にいた男が鞘から剣を抜いた瞬間であった。
コーラルは走って男と王子の間に割って入る。
『なんだ、お前は!? 退け!!』
異国語で喋る言葉は、ほとんどコーラルには理解できない。
けれど、相手が不快感をあらわにして、殺気立っているのは見て取れる。
怒りの形相を浮かべる男の前に跪き、懇願する。
王子ではなく、自分を斬れと。
通訳は腰を抜かしているのか、コーラルの言葉が相手に伝わることはなかった。
「コーラル、止めろ!! なぜ、お前が斬られなければならない!?」
相手に言葉が通じないのをいいことに、逆に、相手の男を斬れと命じるメリクル王子。
外交で来たこの地で、そのようなことなどできるわけもなかった。
「私は悪くない。あの女が、勝手に寝所に潜り込んでいたのだ!」
「ええ、お気持ち、よくわかります……」
昨晩はヴィレが布団の中に忍び込んできたことに、まったく気づいていなかった。
騎士失格だと、心の中で懺悔する。
「この国で、姦通罪は処刑と聞きました……」
「コーラル、私を疑っているのか?」
「いいえ。私は殿下を信じています。ですが、このようになってしまっては、どうにもならないのです」
「……」
「私の骸と引き換えに、この場を治めてください。殿下の手腕ならば、きっと上手くいくでしょう」
覚悟を決めたコーラルは、まっすぐな瞳で武官の男を見上げる。
そして、宣言をした。
「どうか殿下の命ではなく、私の命で納得していただけないでしょうか?」
『お前、邪魔をするなら――斬る!!』
男は剣を振り上げた。
コーラルは静かに瞼を閉じる。
けれど、身を引き裂く衝撃は、襲って来なかった。
武官の男を止める者が現われたからだった。
『――待たれよ』
集まっていた人々が、やって来た人物にさっと道を譲る。
現れたのは、礼部の長官である、汪尚書であった。