十九話 汪紘宇の動揺
本気の打ち合いをしたので、珊瑚と紘宇は汗だらけになった。
灯りがぼんやりと照らされた、薄暗い廊下を歩きながら、話しかける。
「お前のせいで、また風呂に入らなければならない」
「すみません」
「悪いと思うのならば、背中でも流してもらおうか」
「え!?」
紘宇は軽い冗談のつもりだったが、珊瑚は立ち止まる。顔を真っ赤にさせて二、三歩と後ずさった。
拒絶というよりは、羞恥しているだけのように見える。
男同士で、なぜそのような反応をするのか。紘宇は理解できないが、軽い気持ちで言った自分までも恥ずかしくなった。
珊瑚は酷く狼狽していた。頭を抱え、俯きながら異国語でぶつぶつと話し始める。
『――父が疲れている時は、労いの意を込めて、背中を流すと母は言っていましたし、我が国の貴族にはそういうしきたりがあるって……で、でも、何の関係もない男女がするのはちょっと……』
何やら早口で呟いていたが、異国の言葉なので、紘宇にはわからなかった。
「おい、それは、お前の国の言葉か?」
「あっ――! はい、私ったら、すみません」
顔を上げた珊瑚と目が合う。パチパチと瞬きの多くなった青い目は、潤んでいるように見えた。
先ほどの言葉は冗談だった。そう言おうとしたのに、先に話しかけられてしまう。
「あ、あの、普段、こういうことは、し、しないのですが、こーうが、その、どうしてもと言うのならば……」
珊瑚はどうやら、背中を流してくれるらしい。頬を染め、目線を泳がせながら照れたように言うので、紘宇まで顔が熱くなってしまう。
と、ここで気付いた。男相手に、なんで羞恥心を覚えなければならないのかと。
視線を逸らしたら、珊瑚の白い首筋を見てしまった。
廊下の火の灯りが照らす肌は、汗ばんでいてどこか艶めかしい。
ドクンと胸が大きく鼓動を打つのと同時に、戸惑いを覚える。
朱珊瑚は男である。なぜ、こんな思いを抱くのだと。
「こーう?」
突然名を呼ばれたので、再度心臓が跳ねた。
「な、なんでもない。背中を流せと言ったのは冗談だ!」
相手の反応を見ずに大股で広場に向かう。珊瑚はあとを追って来なかった。
一人で風呂に入っている間、珊瑚が本当に背中を流しに来るのではないかと、気が気ではなかった。真面目な性格なので、一度口にしたことは冗談だと言おうが実行しそうな気がしていた。
だがしかし、珊瑚はやって来なかった。
ホッとしたのと同時に、なんとなくモヤモヤしつつ部屋に戻る。
たぬきが紘宇を出迎えた。
「くうん」
部屋にはたぬきしかいない。
「おい、あいつは?」
「くうん?」
たぬきは首を傾げる。
珊瑚には狸に話しかけるなと言っていた紘宇であったが、最近は自身もついつい話かけてしまう。本人は無意識なので、気付いていないが。
「いったいどこに」
「くうん」
たぬきと共に寝室や執務室を覗いたが、どこも無人だった。雅会の選考会の練習にでも行ったのかと思ったが、二胡は椅子の上に立てかけられている。
用事もないのに、紺々のところにでも行っているのか。
気分が落ち着かず、部屋をウロウロしていると、カタンと音を立てて扉が開く。
珊瑚が戻って来た。
「あ、こーう、起きていたのですね」
「お前――」
珊瑚はおかしな姿で現れた。布団敷きのような大きな布を、体全体を覆うように巻きつけていたのだ。
湯冷めをしないためならば綿入りの上着を着るのに、なぜ、そのような恰好を?
紘宇は問いかける。
「あ、いえ、その、ちょっと恥ずかしいと言いますか」
「恥ずかしい?」
具体的にはと聞くと、湯で赤くなっていた頬を、さらに火照らせる。
その様子は、初心な娘のようだった。
紘宇は自分の目がおかしくなったのかと思い、ぶんぶんと首を横に振る。
「こーう?」
声をかけられて、ハッとなった。
「具合でも、悪いのですか?」
胸の前で布を押さえながら、珊瑚はやって来る。
紘宇の額に手を伸ばしたが、さっと身を引いた。
珊瑚からふわりと石鹸のいい香りが漂ってきたので、なぜが酷く動揺してしまったのだ。
「あの――」
「な、なんでもない。私に構うな。寝る!」
紘宇は踵を返し、まっすぐに寝台へと向かった。寝室の灯りを消し、布団に寝転がる。
瞼を閉じて寝てしまおうと思ったが、なかなか睡魔は襲ってこない。
それから数分後、珊瑚とたぬきがやって来る。
ごそごそと、布団に潜り込む音が、妙に大きく感じられた。
今日はおかしい。
紘宇は眉間に皺を寄せる。
どうしてか、珊瑚に対してどぎまぎとしてしまった。
相手は男なのに。
女性に対して、今までこのような思いをしたことはなかった。
武官をしていた時は仕事が忙しく、見合いも断っていたのだ。三十くらいになったら、手も空くだろうと、呑気に考えていた。
汪家にはすでに兄の子――跡取りがいる。なので、紘宇の結婚に対して口うるさく言う者はいなかった。
毎日朝から晩まで働き、女性のことを考えている暇などなかった。
そんな紘宇のことを、同僚は心配していた。
結婚は時期がくればと、ずっと考えていたのに、あまりにも女っ気がないので、ある日、余計なことを邪推してきたのだ。
――汪は、あっちの趣味があるのか?
その時、紘宇は大真面目に、「なんのことか」と聞き返した。
相手は、ポカンとしたあと、「気のせいだったか」と言った。
今、同僚が言おうとしていたことに気付く。
あっちの趣味とは、恋愛の対象が男ということだった。
「うわっ!!」
全身鳥肌が立ち、思わず、紘宇は起き上がって叫んだ。
そんな趣味はないと、ぶんぶんと首を横に振る。
声が上がったのと同時に、隣で寝ていた珊瑚とたぬきがビクリと反応を示す。
「うわっ、びっくりしました」
「く、くう?」
微睡みかけていた珊瑚とたぬきだったが、紘宇の叫び声で起こしてしまったようだ。
「こーう、どうかしましたか?」
珊瑚は起き上がり、大丈夫かと聞いてくる。
その姿を、紘宇は振り返った。
今宵は、月灯りが明るかった。寝室の窓から差し込んでくる。
珊瑚の白い肌は、暗闇の中で美しく照らされていた。
どうして、異国人の肌はこのように綺麗なのか。目が離せなくなる――が、すぐに我に返った。
おかしい。そんなことはない。男の肌を見て、美しいと思うことなど、あり得ないことであった。
再度、首を横に振る。
「あの、水を飲みますか?」
確かに、喉がカラカラだった。しかし、そんなことよりも、気になることがあった。
自分は本当に、男が好きなのかと。
「こーう」
心配したのか、珊瑚が紘宇の腕に振れる。
その瞬間、手首を掴んで引き寄せ、布団の上に押し倒した。
「ひゃっ!」
珊瑚が、女みたいな高い声で悲鳴をあげる。
身を捩ろうとしていたので、肩を押さえ、ぐっと顔を近付けた。
これで、劣情を抱かないなら大丈夫、だと思ったが。
「――ダメだ」
絶望したように、紘宇はボソリと呟いた。