十八話 剣と剣
その日から、珊瑚と紺々、麗美の練習が始まった。
三人で選んだ曲は『花紅柳緑』という、春の美しさを奏で、歌うものである。
演奏はそこまで難しくないが、歌は難易度が高い。
高音を紺々、低音を麗美が担当する。
そこまで長い曲ではなく、紘宇の指導もあって珊瑚は演奏がひと通りできるようになった。
問題は、紺々と麗美であった。
「紺々さん、あなた、声が小さいですわ!」
「うう、ご、ごめんなさい」
紺々は声が小さく、麗美は声が大きかった。
二人共声は美しく上手なのに、息が合わず、歌は美しく聞こえない。
「こんこん、れいみサン、仲良く……」
揉めるたびに珊瑚は止めているが、根本的な解決にならない。
気が弱い紺々と、まったく逆の気質を持つ麗美。それから、のんびり者の珊瑚。
皆、てんでバラバラで、息が合わない。
今日はとりあえず解散となった。
すっかり夜は更けている。暗い廊下をトボトボと進んで行く。
部屋に戻ると、狸が出迎えてくれた。
「くうん」
珊瑚は小さな狸の体を持ち上げ、頬ずりした。ふかふかで、温かい。ホッとするような気持ちになる。たぬき可愛いと口にしようとした瞬間、部屋の窓枠に腰かけて本を読んでいた紘宇に声をかけられた。
「ずいぶんと、疲れているな」
「あ、こーう」
背筋をピンと伸ばしたあと、ただいまかえりましたと言って頭を下げる。いつものとおり、「見たらわかる」と素っ気なく返された。
そんなつれない態度なのに、心配するような言葉をかけてきた。
「元気がないが、どうしたんだ?」
「演奏を練習しているのですが、ちょっと、息が合わなくて」
シンと静まり返る。紘宇は隣の寝室に行って、何かを持って帰って来た。
布に包まれた細長いものを投げられて、珊瑚は受け取った。
「こ、これは――」
布を解いてみると、中から木刀がでてくる。
紘宇も同じものを手にしていた。
「運動不足だから、いろいろ思い悩むんだ。来い、手合わせしてやる」
「あ、はい!」
珊瑚は紘宇に連れられて、中庭に出て来る。
月灯りの下で、互いに向き合う形になった。
さらりと、穏やかな風が舞う。静かな夜だった。
紘宇は木刀を腰よりも下げた位置に構える。防御の体勢であった。珊瑚がどのような動きをするのかわからないからだろう。
珊瑚は期待に応えるように頭の上まで木刀を挙げ、攻撃の姿勢を取った。
視線が交わったのが、戦闘開始の合図である。
珊瑚はそのまままっすぐ踏み込み、紘宇に向かって木刀を振り下ろす。
肩に向かって鋭く振り下ろされたが、ヒュン! と風のように木刀が上がってきた。
珊瑚の木刀は弾かれる。続けて、素早い突きが襲ってきた。体を捻って、回避させる。
戦いながら、珊瑚は心が踊っていた。紘宇はかなり強い。今まで相手にしてきた誰よりも。
若輩ながらも、懸命に武芸を打ち込んでいたこともわかる。
このように、戦っていてワクワクする相手は初めてだった。
同時に、後宮にやって来た時、悔しそうに話をしていたことを思い出す。
紘宇は元武官だったと言っていたので、能力を生かすこともなく、後宮での先が見えない暮らしを強いられるということはどんなに苦しかったか。胸が切なくなる。
そんなことを考えていると、強い一撃を木刀に受けることになった。手先から腕が痺れ、木刀は手から落ちてしまった。
「――私の勝ち、だな」
「え、ええ」
紘宇は木刀の切っ先で、地面に落ちた木刀をくるりと器用に回転させて手に取る。
「戦いの最中だというのに、考え事をしていたな」
「あ、いえ、その……はい、していました」
「ふん。大した余裕だな。しかし、良い腕前だ」
「ありがとう、ございます。嬉しいです」
初めて紘宇に認めてもらえた。珊瑚は嬉しくなる。
「して、何を考えていた?」
「はい……」
木刀を受け取りながら、珊瑚は正直に答える。
「紘宇は、その、素晴らしい剣の腕だと、思いまして。だから……」
ここにいるのはもったいない、と感じたのだ。そこまでは言えなかったが、紘宇には伝わってしまったようだ。
月灯りが照らす中、紘宇は草の上に腰を下ろす。珊瑚も、隣に座った。
空の中で薄雲がかかり、ぼんやりと浮かび上がった玉桂を見上げながら、紘宇は話し始める。
「ここ、牡丹宮には、かつて十五名の内官がいた」
四名の妃嬪が後宮に立てられ、各華族の若い男が召される。紘宇も、その一人だった。
「男どもは、星貴妃に気に入られようと、さまざまな手を尽くして媚びた」
だが、星貴妃は一筋縄ではいかない女性だったのだ。
「あれは、星貴妃本人も後宮の決まり事に、納得がいっていないのだろう」
皆、特殊な後宮という環境に慣れず、ギスギスした雰囲気だった。
そんな中、なかなか心も体も許さない星貴妃に付き合いきれなくなった、男のほうが自棄を起こす。
「馬鹿な男が、女官達を騙し、寝所へ入り込んで、星貴妃を襲ったのだ」
幸いというべきなのか。星貴妃には武芸の心得があった。彼女は迷いもせずに、男の急所を蹴り上げた。
「その男は腐刑となった。だが、事件は絶えなかった」
野心の絶えない男達は、星貴妃を孕ませようと、寝込みを襲った。
「一人、二人、三人、四人と、日を追うごとに男達は拘束され、腐刑を言い渡された」
そして、半年も経たないうちに、牡丹宮の内官は紘宇一人になってしまう。
この、平和にしか思えなかった後宮で起きた、壮絶な事件は衝撃的な話であった。
「そう、だったのですね。だから、星貴妃は――」
麗美が言っていたのだ。星貴妃は男嫌いであると。
そういう事件が何度も起きたら、そういうことになるのもおかしな話ではない。
気の毒な人だと思う。
一方、紘宇は子を作ればいいという単純な問題ではないと、冷静に構えていた。
星貴妃へは接触せずに、内官の仕事のみを毎日淡々とこなしていた。
というのも、彼は汪家の次男として生まれ、野心などを抱かせないような教育が徹底されていたのだ。紘宇は自身について語る。
この状況を打開するには、自分が星貴妃との間に子を設けるしかないが、気位の高い星貴妃との相性もいいようには思えない。
それに、後宮で過ごすうちに、紘宇の中に今までなかった独立心が芽生える。
しだいに、周囲の思惑通りに動くことが、嫌になってしまった。
そんな話を、ポツリ、ポツリと語っていく。
「今までの私はきっと、汪家の思想に染まりきっていたんだと思う」
そんな考えがあったので、紘宇は星貴妃に近づくことはなかった。
「ん、こーうは、星貴妃に近づかなかった、の、ですか?」
「そうだと言っただろう」
「一度も?」
「ああ」
「夜のお仕事は?」
「なんのことだ?」
珊瑚は消え入りそうな声で答える。
「こ、子作りのこと、です」
「はあ!? 何を言っているんだ!」
「だ、だって、こーう、夜遅くまで、仕事をしていて」
「それは、内官数名で行わなければならない事務処理を、一人でやっているから、夜遅くまでかかるだけだ! まさか、夜な夜な私が星貴妃のところに通っていたと思っていたのか?」
「す、すみません!」
紘宇は顔を真っ赤にしながら怒る。
「おかしなことを聞くと思っていた」
「だって、こーうが、房中術を教えるとか、言うから」
「言ってない!」
「はい、言って、いませんでした」
すべては珊瑚の勘違いであった。
怒鳴られたので驚き、また、落ち込んでしまったが、同時に心のどこかで「よかった」と思う。それがどうしてなのか、まだわからない。
「あの、こーう」
「なんだ」
「お仕事、お手伝いします」
「最初から、そのつもりだ」
「はい」
「でも、その前に、雅会の選考会を通過しろ。俺があれだけ教えたんだ。絶対に合格するだろう」
「う……はい」
紺々と麗美はどうすればいいのか。
珊瑚と紘宇は、剣を交えることによって、わかり合えた――ような気がする。
二人にもきっと、息を合わせる方法があるはずだ。
「う~~ん」
「まだ、お前は悩みがあるのか」
「はい」
どうしようか迷ったが、解決方法が浮かばなかったので、紘宇に相談してみる。
「女のことはわからん」
「で、ですよね」
「しかし――」
紘宇は言葉を続けた。
「そういう者同士は、だいたい自分のことしか考えていない」
「あ!」
珊瑚もそうだった。
紘宇のことを知ろうともせずに、一人で突っ走った結果、大変な勘違いをしてしまった。
だったら、することは一つしかない。
「こーう、ありがとうございます! とても、助かりました」
深々と頭を下げて、珊瑚は紘宇に礼の言葉を口にした。