十七話 紘宇のために
狸を通じて、仲直りをした珊瑚と紘宇。
食事の時間も、会話こそなかったものの、空気は穏やかだった。
二胡も久々に教えてもらえることになった。
しかし、珊瑚の手元をみて、顔を顰められる。
「お前、なんでそんなに怪我しているんだよ」
「練習に夢中になっていたら、いつの間にか、こんなに……」
紘宇は特別な軟膏があるというので、部屋から持って来てくれた。
小さな丸い入れ物に入った薬を手渡される。
珊瑚はじっと軟膏を見下ろし、切なげな表情になっていた。
「どうした?」
「実をいうと、こんこんも、薬をくれたのですが」
切り傷に効く薬は液体で、塗布するたびに痛みを感じるものだった。紺々が薬を塗ってくれていたのだが、あまりの痛さに自分でするからと言って受け取ったのはいいものの、朝と晩、二回の塗布を一日一回しかしていなかった。
「そんなことをしているから、いつまで経っても治らないんだ」
「で、ですよね」
怒られた珊瑚は、身を縮める。
顔を上げると、紘宇が怖い顔で見下ろしていた。今すぐ薬を塗らないと、また怒られる。指先に巻いていた包帯を外していたら、手首を取られた。
「これは、酷いな。二胡の演奏で、どうしてここまで怪我をする?」
手を掴まれ、紘宇の顔が眼前に迫る。今までにない距離にまで接近していたので、ドキンと胸が高鳴った。
動揺を隠すように、早口で返事をする。
「ぶ、不器用でして」
ヴァイオリンの練習をしている時、演奏中に弦が切れて、頬に跳ね返ってきて怪我をすることはあったが、あれは稀な例だろう。
二胡の怪我のすべては、珊瑚の不注意であった。
盛大に溜息を吐かれ、恥ずかしい気分になる。
紘宇はぼんやりしている珊瑚の手の中から、軟膏を奪い取った。
「貸せ」
蓋を開けて、指先に塗り込んでいく。塗られた軟膏は、今までの薬とは違い、痛みを伴うものではなかった。そっと優しく、塗布してくれる。
今まで、こんな手つきで触れてくれる異性はいなかった。珊瑚はカッと、顔が熱くなるのがわかる。
「おい」
声をかけられ、パッと顔を上げる。すると、紘宇の顔がすぐ目の前にあった。
思いがけない距離感に、顔を真っ赤にさせた。相手も同じだったのか、不自然に目を泳がせている。
「あ、すみませ、いえ、ありがとうございます」
「朝と晩、きちんと塗布しろ。包帯をつけたままでは、良い演奏もできん」
「わかりました」
今日は休んで、また明日から練習することにした。
食後は紺々と共に、風呂場に行く。狸は紘宇に頼んだ。
風呂場へ向かう長い廊下を歩いていると、紺々が話しかけてくる。
「あの、珊瑚様、先ほどのお話ですが……」
先ほどの話というのは、雅会の選考会にて、珊瑚の演奏で歌ってくれとお願いしたもの。紺々は皆の前で歌うなど、恥ずかしいので難しいと返事をしたのだ。
「すみませんでした、無茶を言って」
「いえ――」
「珊瑚様~~!!」
紺々がもじもじしながら話そうとした瞬間に、麗美の叫ぶ声が聞こえてくる。
ドドドと勢いよく走って来て、珊瑚の前で急停止した。
「あ、れいみサン」
「はい!」
いったいなんの用なのか、問いかける。
「あ、いえ、先ほどの妃嬪様のことですが……」
珊瑚はさきほど、星貴妃と邂逅した。そこで、大したことがないと、言われてしまったのだ。思い出しただけで、ゾッとする出来事である。
「あの妃嬪様は、その、男性嫌いでして」
「そう、なんですね……」
だから、男のような恰好をしている珊瑚のことを嫌うような言葉を口にしたと。そう解釈した。
「珊瑚様を個人的に嫌っているわけではないので、ご安心なさってくださいまし」
「れいみサン、ありがとうございます。感謝、します」
感極まった珊瑚は、麗美の手を取って、指先にキスをした。
「きゃあっ!」
麗美は腰を抜かしたが、珊瑚は体を受け止める。
「あ、すみません、私、また、間違って……!」
「はわわ」
麗美は顔を火照らせ、体がぐにゃぐにゃになっていた。ちょうど紺々の部屋が近かったので、部屋に連れ込み、水を飲ませてなんとか落ち着きを取り戻す。
「申し訳ありませんでした」
「いえ、お気になさらないでくださいまし……あら?」
麗美は紺々の部屋にあった、立派な二胡に気付く。
「そういえば、珊瑚様と紺々さんは雅会の選考会に参加をなさるとお聞きしましたが」
「あ、はい、ですが……」
手はこんな状態だし、紺々の協力を得ることはできなかった。今回は辞退したほうがいいのではないかと、肩を落としながら口にする。
その発言に、紺々はぎょっとした。
「そ、そんな、珊瑚様、あんなに一生懸命練習したのに、諦めるなんて」
「ですが、私の演奏では、選考会に通るなど」
「だったら、私、歌います、珊瑚様のために!」
紺々は珊瑚の前に膝を突き、宣言する。
「こんこん……いいの?」
「はい、珊瑚様のためならば! は、恥ずかしい、ですが」
ここで、目を爛々とさせた麗美が口を挟む。
「面白そうですわね。歌なら、わたくしも得意ですわよ」
麗美は何度か、雅会で歌を披露したことがあると話す。
なんだったら、一緒に参加してもいいとも。
「れいみサン、本当ですか?」
「え、ええ、まあ」
「ありがとうございます!」
珊瑚は紺々を抱きしめ、次に麗美を抱きしめた。
男らしく荒々しい、というよりは、大型犬がじゃれるような抱擁である。けれど、二人の女官は顔を真っ赤にさせていた。
ハッと我に返った麗美が、珊瑚に話しかける。
「そういえば珊瑚様、汪内官が物凄い剣幕で後宮内を歩き回っていたようですが、何かありましたの?」
「たぬきを探してもらっていたのです」
「たぬき様?」
ここで、珊瑚は心から愛するたぬきの説明をした。
狸を可愛がっている旨を伝えるにつれて、麗美の顔が引きつっていった。
「な、なるほど。狸を拾われて、飼われていると」
「はい。暇を持て余して、遊びに行っていたようです。こーうが見つけてくれて、本当によかった」
たぬきのためにあんなに一生懸命になってくれるとは思いもせず、珊瑚は紘宇に深く感謝していた。
「いつか、こーうにご恩をお返ししたいと思っているのですが……」
「そうですね。珊瑚様は、裁縫はできますの?」
麗美の質問に、首を横に振る。
手巾に刺繍を刺して、男性に贈ることが華烈では一般的な感謝の気持ちを伝える方法であったが、珊瑚には難しいようだった。
「楽器も、汪内官は名手ですしねえ」
紺々の言葉に、珊瑚は深々と頷いた。
三人で頭を振り絞って考えるが、お礼はなかなか思いつかない。
「やはり、お仕事の手伝いを頑張るしか――」
「い、いえいえ、それは頑張らなくてもいいと思います!」
「お仕事?」
珊瑚の言ったお仕事という発言に、訝しげな視線を向けた。
紘宇のお仕事とは、星貴妃との子作りである。
「れ、麗美さん、なんでもないです!」
紺々が慌てて発言をもみ消そうとした。
「別に、深く追求するつもりはございませんけれど」
「あ、ありがとうございます」
話は戻って、仕事以外で何かできるか考える。
「男性が、喜ぶもの……」
珊瑚は考えるが、そもそも、異性に贈り物などをしたことがない。そもそも、何か思いついても、後宮から品物を得る手段がなかった。
「あ、でしたら!」
麗美が男性に贈って喜ばれたものを教えてもらった。
「肩たたき券とかはいかが? お祖父様やお父様は、大喜びでしたよ」
「なるほど」
そういえばと思い出す。紘宇はよく、肩を押さえて腕を回したり、自分で揉んでいたりしていたなと。凝り性なのかもしれない。
「いいかもしれません。れいみサン、ありがとうございます」
麗美の両手を取り、珊瑚は礼を言う。
「いえいえ、それほどでも」
盛り上がっている二人を他所に、紺々がボソリと呟いた。
「汪内官に肩たたき券って、それ、本当に大丈夫でしょうか?」
もちろん、珊瑚と麗美の耳には届いていなかった。