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十六話 たぬき

 珊瑚はふらふらと部屋に辿り着く。

 知らぬ間に、額に汗が滲んでいることに気付き、手巾を取り出して拭う。

 ここに来てから、上手く行かないことばかりで、気持ちだけが焦っていた。まだ来たばかりだから、慣れていないからと、自らに言い聞かせていたが、星貴妃との邂逅がとどめとなった。

 騎士の世界は実に単純だった。ただ、強ければいいのだ。

 礼儀やふるまいなども求められることもあったが、裕福な家庭に育った珊瑚には、幼い頃より身に付いていたことなので、思い悩むことではない。


 けれど、後宮は違った。

 女性ばかりの世界で、楽器や舞踊などで実力が認められる世界。

 牡丹宮で頂点に立つ星貴妃の不興を買えば、腐刑という世にも恐ろしい罰を受けることになるのだ。


 自分の命は自分の振る舞い次第。なんて恐ろしい世界なのか。

 珊瑚は身をもって実感することになる。


 なんとか部屋まで辿り着いた。

 たぬきを抱いて、気持ちを落ち着かせよう。珊瑚は心に決める。

 だが、扉の先にいたのは、現在険悪な雰囲気となっている紘宇こううだった。


「あ、あの、ただいま戻りました」

「……見ればわかる」


 いつもならば軽く受け流す紘宇のそっけない態度も、今日は心に突き刺さる。

 狸はどこにいるのか。いつもならばすぐに迎えに来てくれるのに……。


「あの、こーう、たぬきを知りませんか?」

「さあ。今日一日見ていないが」

「え?」


 朝、見送りを受けて、部屋を出た。ここにいないはずはない。


 珊瑚は寝室を確認しに行く。寝台の布団を剥ぎ、下の隙間も覗き込んだが、狸の影も形もない。

 一言断ってから、紘宇の部屋も探しに行く。けれど、結果は同じ。

 狸はどこにもいなかった。

 部屋係の女官を呼んだ。けれど、夕方には部屋にいたと話す。

 呆然とする珊瑚に、紘宇は冷たい一言を投げかけた。


「放っておけ。腹が減ったら戻って来るだろう」


 その言葉を聞いた珊瑚の眦から、ポロリ、ポロリと涙が零れる。

 後ろ向きな気持ちになっていたので、もう二度と会えないのではと、思ってしまったのだ。

 一方で、はらはらと涙を流す珊瑚を見た紘宇は、目を見開いていた。けれど、すぐに我に返ったのか、強い言葉を向ける。


「お、お前……女みたいにめそめそするな」

「うっ、すみません」


 他人の前で泣いたことなど今まで一度もない。いい歳なのに、みっともなく泣くなんて。自らを情けなく思ったら、余計に泣けてくる。


「ですが、た、たぬきが、どこかで迷子になっていたら……」


 部屋は数名の女官が出入りする。もしかしたら、扉が開いた隙に抜けて出て行った可能性もあるのだ。

 この寒い中、帰る場所もわからず、お腹を空かせてくうくうと鳴いている様子を想像したら、また泣けてくる。

 それか、可愛い狸の噂を聞きつけて、誰かが連れ去った可能性もあった。無理矢理誘拐されている姿を想像し、口元を手で覆って嗚咽を堪える。


「いや、狸を盗む物好きはいないだろうよ」


 紘宇の冷静な指摘ツッコミも、耳に届いていなかった。


 後宮内を自由に動き回る許可は出ていない。それに、今日は星貴妃がどこかへ移動していたので、探しに行かないほうが妥当だとも思う。


「た、たぬき……」

「おい」

「はい?」

「もしかして、狸の名前は『たぬき』なのか?」

「はい、そうです」


 聞き慣れぬたぬきという言葉の響きが可愛くて、たぬきと命じた。呼べば、喜んで駆け寄って来るのだ。


「たぬき……いい子だったのに……とても、悲しいです……」


 またしても、涙がジワリと浮かんでくる。

 顔を伏せれば、ぶはっと噴き出すような声が聞こえた。

 ゆっくりと顔を上げ、紘宇を見る。

 口元を手で覆い、何かに耐えているような表情でいた。


「こーう?」

「な、なんでもない」


 肩が震えているように見えたが、気のせいだと軽くかぶりを振る。


「わかった」

「え?」

「狸を探してきてやる」

「ほ、本当ですか」


 先ほど、星貴妃と出会った旨を伝えれば、問題ないと言う。


「お前はここで待っておけ。私が戻るまで、大人しくしていろ」

「わかりました。ありがとうございます」


 深々と頭を下げる。


 紘宇はすぐに狸を探しに行った。

 珊瑚は大人しく部屋で待つばかりである。


 一時間後――


 戸の開く音が聞こえ、珊瑚はハッと顔を上げる。

 部屋に入って来た紘宇の脇には、狸がいた。


「ああ、なんてこと……」


 珊瑚は駆け寄り、 頭を撫でれば目を細める狸。


「こーう、ありがとう……ありがとうございます」


 狸を受け取る。頬擦りをすれば、「くうん」と鳴いた。


「女官の休憩所にいた。尚食部の者達が可愛がっていたようだ」

「そうですか。良かったです」


 再びじわりと涙が浮かんでくる。眦に浮かんだものが流れないように、ぎゅっと瞼を閉じた。それから、狸に顔を埋める。


 最後にもう一度、紘宇にお礼を言った。

 じわじわと、喜びが湧き上がる。暗くなっていた気持ちも吹っ飛んだ。

 

「こーう、本当に、本当に、感謝を、しております」


 涙声になってしまった。


 ◇◇◇


 話は遡って――数時間前。


 紘宇はイラついていた。

 発端は珊瑚と紺々こんこんが部屋で抱き合っているの姿を目撃してからである。

 二人については、前から怪しいと思っていた。仲が良過ぎたのだ。

 注意しようと考えていた矢先の出来事である。


 女官と恋仲になる内官や宮官の話は珍しくない。

 牡丹宮でも、紘宇の他に男がいた時はよくあることだった。

 その際、自分には関係ないので、好きにすればいいというのが本音であった。


 なのに、珊瑚と紺々が抱き合っているのを見て、苛立ちを覚えた。

 その理由を、珊瑚が汪家の駒であるのに、うつつを抜かしていると思い込んでいたのだ。


 怒りは数日経っても治まらず、珊瑚ともまともに会話しない日々が続く。

 向こうは話したがっている素振りを見せているのはわかっていたが、まだ許すことができなかった。


 さすがに、一週間も続ければ、やり過ぎてしまったと反省する。

 珊瑚が帰って来たら、一言謝ろう。

 そう思っていたのに、口から出たのは相手を突き放すような冷たい言葉だった。

 それを、珊瑚が悪いと決めつける。

 せっかく謝ろうと思っていたのに、あろうことか、狸がどうこうと言い出したのだ。

 あの間抜けな顔をしている獣のことなんかどうでもいい。気まずい雰囲気をどうにかしようと歩み寄りを見せた途端にこれだ。

 だが、狸がいないことは、珊瑚にとって大事件だったようだ。

 ポロポロと泣き始める様子を見て、なぜか動揺してしまう。

 今までも、キツイ物言いから他人を泣かせてしまうこともあったが、心が揺れ動いたことなどなかったのになぜ?

 紘宇は男の涙など、欠片も価値のないものだと思っていた。

 しかし、珊瑚の青い目から零れる涙は美しかった。金の睫毛を濡らし、一粒一粒、眦から雫を溢れさせていく。

 見入っていたことに気付けば、何を馬鹿なことをと自らの感性を疑っていたが、どうしてか目を離すことはできなかった。

 男の涙に価値はないが、女の涙も鬱陶しいと思っていた。

 そのどちらでもない、珊瑚の涙を流す姿。

 男の涙に心奪われることなど、あってはならない。自らの気持ちを隠すために、女々しく泣くなと口にしてしまう。

 悪いのは自分であるが、これ以外の言葉が出てこなかったのだ。


 ここで意外な事実も発覚する。

 珊瑚が可愛がっていた狸の名前は『たぬき』だったのだ。

 おかしみ溢れる想定外の名前に、吹き出してしまう。


 珊瑚は不思議そうな顔で紘宇を見ていた。

 ぽかんとする表情の瞼は腫れ、痛々しい姿となっている。

 思わず同情してしまった。


 兄の話によれば、珊瑚自身犯罪者というわけではなく、仕えていた王族を庇って宮刑を受けたと聞いていたのだ。

 身代わりとなって処刑されるのも厭わず、毅然とした姿を見て、後宮に送ろうと思ったと話していた。


 共に過ごす中で、それは本当だったのだろうと実感する毎日であった。

 珠珊瑚という異国人は誠実感があり、呆れるほど馬鹿真面目。それから社交性があって、相手の意見を聞く傾聴力もあった。


 兄が選んだ理由も頷ける。


 しかし、今の珊瑚は本当にそんなことがあったのかと、疑うほどの狼狽ぶりである。

 たかが、狸が一匹いなくなっただけだというのに。

 心から気の毒に思ってしまった。だから、紘宇は狸を探しに行った。


 さまざまな場所を探し、普段話しかけない女官にも狸の行方を聞いた。

 どうやら後宮をうろついていたようで、たくさんの目撃情報が集まる。

 あちらこちらへと部屋を回り、最終的に辿り着いたのは尚食部の女官の休憩室であった。

 やって来た紘宇を見て女官達は驚き、狸を探しに来たと言えばさらに驚かれる。

 狸はいた。はあと、安堵の息を吐き出す。

 後宮内で狸を探し回るとか、自分のことながら何をしているのかと呆れてしまった。

 けれど、連れて帰らなければ、この先もずっと珊瑚は落ち込んでいるだろう。それは、嫌だった。

 狸を受け取ると、脇に抱え、一目散に部屋に戻る。


 戻って来た狸を見て、珊瑚の表情はパッと明るくなる。

 そして、紘宇にも笑顔を向けてお礼を言った。

 それは、今までの憂いを含んだものではなく、心からの微笑みだった。


 その瞬間、紘宇の中で異変が起きる。

 胸が大きく鼓動を打ち、顔が熱くなったのだ。


 今までにない感情に、混乱状態となる。

 この気持ちの正体に気付くのは、しばらく先の話であった。


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