十四話 二胡を弾く
珊瑚が牡丹宮へやってきてから十日ほど経った。
言葉は随分と上達している。聞き取りはあと一歩といった感じであったが、喋りは随分と上手くなった。
珊瑚、紘宇、紺々の関係は相変わらず。
紘宇は珊瑚を男だと思い、星貴妃との間に子どもを作らせようと画策している。
紺々は珊瑚が女性だと把握しているものの、なんらかの事情があり性別を偽って後宮にやって来た者だと勘違いしていた。
珊瑚自身も、紘宇より男性に勘違いされていると認識しておらず、また、紺々の思い違いにも気付いていなかった。
さらに、彼女は紘宇のことを二つ、三つ年下だと思い込んでいるのだ。
現在、珊瑚は二十歳。紘宇は二十五である。
年下だからと、共に眠ることに対しても目を瞑っているが、すべての勘違いを知った時に、彼女は何を思うのか。
今はまだ、誰も知る由はない。
◇◇◇
迷い狸を保護してずいぶんと経った。
牡丹宮の者達は、揃って「存じません」の一言。さらに、狸を愛玩動物として飼う話など聞いたことがないと話していた。
「一応、今日あった後宮の内官の会議で狸のことを聞いてみたが、誰も知らんと言っていた」
珊瑚は狸を胸に抱き、期待の視線を紘宇に向けていた。
「よって、狸を飼っている物好きは、後宮にはいないということだ。さらに、お前が抱いているそれは、紛うことなき野良の狸」
「はい!」
「誰の所有物でもない」
「はい!」
紘宇はキラキラと輝く視線を向ける珊瑚から目を逸らし、文句を口にする。
「私はお前のせいで、恥をかいたのだ。迷い狸を保護していると言って、皆から白い眼で見られた」
「そ、それは、申し訳ありませんでした」
紘宇は狸なんぞ興味ないという感じでいながらも、きちんと誰かの所有物でないか確認してくれたのだ。
珊瑚は心から感謝する。
「それで、あの――」
我儘だとわかっていた。けれど、駄目元で聞いてみる。
「この子を、引き取りたいと思っているのですが」
「言っただろう。狸は愛玩動物ではないと」
「ですが、この子を野に放つことは、できなくなっているのです」
大人しい狸だった。牙を剥くこともなく、性格は至って温厚。
狸は珊瑚によく懐いており、すり寄ってくる。
可愛くて、可愛くて、仕方がないというのが本音である。
いつの間にか、心の拠り所にもなっていたのだ。
腕を組み、顰め面を浮かべる紘宇に懇願するように、じっと見つめる。
もしも、駄目だと言われたら、黙って従うつもりでいた。
紘宇は珊瑚の監督官である。逆らうことは許されないのだ。
沈黙が部屋を支配する。
狸が切なげに「くうん」と鳴いた。
悲壮感を増していく部屋の空気に耐えきれなくなった紘宇は、はあと憂いの息を吐いた。
「……わかった」
「え?」
「狸は好きにしろ」
「い、いいのですか?」
「ああ。その代り、問題は起こさず、私の言うことはしっかり聞け」
「はい、ありがとうございます。こーうの言うことは、かならず聞きます」
沈んでいた表情から、一気にぱあっと花が綻んだような表情となる珊瑚。
狸を下ろし、右手で左手を包むと、頭の上まで上げて礼をする。この国での、最敬礼であった。
「大袈裟な奴」
「そんなことは……寛大なこーうに、心からの感謝を」
顔を上げて目が合うと、ふいと逸らされる。
こういったことが恥ずかしい年頃かと思い、珊瑚はくすりと笑った。
◇◇◇
朝、紺々よりある巻物が届けられる。
盆の上に載っていた物を、珊瑚は受け取った。
「なんでしょう?」
ぽつりとつぶやきつつ、巻物の紐を引っ張って解く。
それは星貴妃が開催する、雅会への招待状だった。
「雅会が、開催されるようです」
「牡丹宮では三カ月ぶりでしょうか?」
「そうなのですね」
開催は二十日後。わりと開催は近かった。
「全員参加で、出し物をするんですよねえ」
「なるほど」
出し物は希望者のみ。時間が限られているので、人数は五名までと決まっている。
「希望者が殺到した場合は、事前に選考会を行うんですよ」
牡丹宮の女官は三十名ほど。毎回、応募多数で選考会を行っている。
選考会は十日後と書いてあった。
「こんこんは出るのですか?」
「いえいえ、恐れ多いです。選考会だって、きっと落選するかと」
「一緒に頑張りませんか?」
「え……? そ、それは、ちょっと難しいような……」
「挑戦する前に諦めるのは、もったいないですよ」
珊瑚に説得され、紺々も雅会の出し物へ応募することになった。
「珊瑚様は何をなさるんですか?」
「以前、二胡を薦められたので、覚えてみようかなと」
二本の弦で奏でる楽器、二胡。
七本の弦の七弦琴や、二十五本の瑟よりは簡単だろうと、尚儀部の女官が話していたのだ。
二胡は苛烈の一部地域で作られている楽器で、特別な方法で鞣した蛇革を使ってあるので、作れる職人は多くない。高価な楽器である。
ヴァイオリンの説明をすると、一番似ていると言われたのが二胡であった。
「こんこんは、何か楽器弾けます?」
「い、いえ、あまり、得意ではなくて」
「では、一緒に頑張りましょう」
「はい」
紺々の頬は薄紅色に染まる。
珊瑚は目を細め、ふんわりとやわらかに微笑んだ。
二胡は紺々の私物を借りることになった。
実家から送られてきた物が四つもあると言う。
箱から取り出された二胡は、ヴァイオリンの形状とはまったく異なっていた。
細長い棹部分に、六角形の胴。
品のある黒で、材木は血檀木を使っている。弓は馬の尾。ピンと張られた弓毛だった。
「何か、取扱上の注意はありますか?」
「え~っと、弓の尾に触れてはいけないそうです。手の油などで、音が出にくくなるとか」
「そうなのですね」
注意しなければと、胸に刻んでおく。
「あと、直射日光と湿気に弱いので、可能であれば避けたほうがいいと」
「わかりました」
紺々は幼い頃、二胡、七弦琴、瑟など、楽師を呼び寄せて習ったらしいが、どれも向いていないと言われ、投げだしてしまった思い出を語る。
「お姉様は皆お上手だったんです。私だけ、こんなで……」
「でも、そのおかげでこんこんと一緒に練習ができますね」
「あっ……はい、そうですね」
そろそろ尚儀部に行く時間となる。
珊瑚と紺々は各々二胡を手に持ち、移動する。
尚儀部では、女官三人娘が待ち構えていた。
「まあ、素敵な二胡」
「けれど、二胡で雅会の参加は希望者多数で激戦区ですわよ」
「十日で覚えるなんて無理無理」
さっそく、駄目出しされる珊瑚と紺々。
「ですが、弾き方は伝授いたします」
「もしかしたら、才能がおありかもしれませんし」
「物は試し、ですわ」
女官達も二胡を手に、お稽古場に向かう。
「基本は姿勢から」
「二胡は椅子に座って弾きますの」
「背筋をピンと伸ばし、深く腰掛けず、膝は軽く開いて、左足だけ半歩前に出す」
言われた通りの姿勢を維持するだけでも、なかなかきつかった。
「珊瑚様、肩に力が入っています」
「膝も広げ過ぎです」
「紺々さんはぽかんと開いた口を閉じてくださいな」
容赦なく注意が飛んでくる。
姿勢が正しくできるようになったら、二胡の持ち方を習った。
「弓は手の平にそっと持ち、親指と人差し指で挟むように持ちます」
「二胡の胴は腿に置いて、左手の親指と人差し指で支えてください」
「二人共、顔が引きつっていますよ」
細々とした決まりがあるので、操り人形のようになる珊瑚と紺々。
その動きに合わせるかのように、弓を弦に滑らせれば、ギギギと、油の切れた歯車のような硬い音が鳴った。
「あらあら」
「まあまあ」
「最初は皆、こんなものですわ」
珊瑚と紺々は共に苦戦していた。
最後まで、綺麗な音を出すことができなかったのだ。
とぼとぼと、落ち込みながら帰る珊瑚と紺々。
「珊瑚さま、選考、難しいかもですね」
「まあ、今回は短かったですから」
花札が欲しかったと、珊瑚は呟く。
「珊瑚様、何か欲しい物があるのですか?」
「はい」
「父に言って、取り寄せいたしましょうか?」
珊瑚は首を横に振る。
気持ちだけ受け取ると、紺々にお礼を言った。
「すみません。過ぎたことを」
「そんなことないです。紺々の優しい気持ちで、心が温かくなりましたよ」
そんな話をしながら、私室へと戻る。
「あ、紺々。二胡、借りてもいいですか」
「はい、どうぞ。使わない物なので」
「ありがとうございます」
私室の前で紺々と別れた。夕食の時間まで、自由時間となる。
扉を開けば、狸が出迎えた。
「くうん」
「はい、ただいま帰りました」
くりっとした目で珊瑚を見上げる狸に心癒されていたら、すぐ傍から指摘が飛んでくる。
「真面目な顔で、狸と喋るな」
「あ、こーう」
部屋の奥にある竹の長椅子に、紘宇が腰掛けていたのだ。どうやら読書をしていたようで、右手に古びた本を持っていた。
「二胡の練習をしていたのか?」
「はい」
「雅会にそれで参加をすると?」
「はい」
弾いてみろと言われ、珊瑚は紘宇の隣に腰掛ける。
二胡を腿に置き、弓を構えた。
すると、紘宇が噴き出した。
「どうかしましたか?」
気まずく思ったのか、顔を逸らす紘宇。
顔が強張っていたので、笑ってしまったことを白状した。
「いいから早く弾け」
「はい……」
すうっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。一瞬で、集中力を高めた。
弓を弦に当て、本日習った短い旋律を弾いてみたが――ギギギギィ~~と、絹を裂いたような、耳障りな音が鳴っただけだった。
珊瑚は頬を染め、ゆるゆると紘宇の顔をちらりと横目で見る。
紘宇は、口元を押さえ、笑いを堪えているように見えた。
「こ、こーう?」
我慢できなかったのか、ぶはっと吹き出す紘宇。
「お前、弾くすぐ前は二胡の名手みたいな雰囲気だったのに、死ぬほどへたくそ!」
「今日、初めてなので……」
思えば、ヴァイオリンも褒められた記憶はなかったと、記憶を蘇らせる。
課題は毎回及第点だったのだ。
がっくりと肩を落としていると、紘宇より二胡を貸すように言われる。
「こーう、弾けるのですか?」
「まあ、齧った程度だが」
紘宇は二胡を手に持ち、演奏を始めた。
ヴァイオリンとは違う独特の美しい音色で音に艶があり、どこか哀愁のある響きがある。
女官達の弾く賑やかで楽しげな二胡とはまったく違っていたのだ。
演奏が終わると、珊瑚は拍手喝采する。
「凄いです、こーう。星貴妃様から、花札を何枚ももらえます!」
「大袈裟だ」
「そんなことないですよ。本当に、綺麗で……その、素晴らしい腕前です」
紘宇は顔を逸らし、二胡を珊瑚に押し付けて返す。
照れているのがわかったので、珊瑚はからかわずに放っておいた。