十三話 色欲魔 汪紘宇
朝、紺々と着替えを済ませ、朝食の席につく。
足元では、狸が皿の前に座り、いそいそと食事が運ばれるのを待っているように見えた。
カタリと、食堂の戸が開く音が聞こえる。紘宇がやって来たのだ。
対面する位置に座ると、視線が交わる。珊瑚はさっと逸らしてしまった。
「なんだ?」
「いえ、なんでも」
不機嫌な声色で追及されたが、深く聞かれることもなかった。
珊瑚はホッと息を吐く。
なぜ、このような態度をしてしまうのかというと、昨晩、紘宇より房中術を教えてやると言われたからだった。
顔を見たら思い出してしまい、恥ずかしくなっているというのが現状である。
朝食はお米の形がなくなるまで炊いたお粥。お粥自体には何も入っていない、塩味だ。
加えて、周囲に食べきれないほどのおかずが並ぶ。
甘辛く煮た蓮根、帆立の水煮、梅干し、蒸し鶏、炒り豆、肉味噌、干し海老、椎茸の煮物などなど。
これらの具材を粥に入れて食べるのだ。尚食部の女官が丁寧に教えてくれた。
雑食の狸には、数種類の木の実と果物、蒸し鶏が与えられていた。嬉しそうに、はぐはぐと食べている。美味しいのだろう。丸くふんわりとした尻尾は、ぶんぶんと振られていた。
珊瑚は勧められた蒸し鶏と肉味噌を入れて食べた。
出汁は鶏。白濁色のスープだが、口にすれば濃い味わいに驚く。
緊張で強張っていた体が解れるような、優しい味わいだった。
昨晩はなかなか寝付けず、睡眠不足で食欲もなかったが、不思議とお粥は食べることができた。
やっとのことで一皿食べ終える。ふうと息を吐いていたら、紘宇よりじっと見つめられていることに気付いた。
「あ、あの、こーう、何か?」
「いや、具合でも悪いのかと思って……」
そんなことはないと、首を軽く横に振る。
「何もないということはないだろう。今日はいささか様子がおかしい。そうだ、挙動不振なんだ」
もう誤魔化せないと思い、珊瑚は正直に告白する。
紘宇のお仕事を手伝うことに、不安を覚えていると。
「別に、難しいことではないと言っただろうが。習う前から、何を言っているのだ」
「ですが、本当に、知識も乏しく、ここの文化についていけるかどうかも、わからなくて」
「お前は勤勉だ」
「え?」
「昨日だって、数時間習っただけで、発音などだいぶマシになっていたし――」
だんだんと早口になるので聞き取れなかった。あとで紺々に聞こうと思う。
「また、聞き取れなかったのか。……まあ、いい。とにかく、言葉を覚えろ。それから、二胡など、楽器を弾けるようになれ。雅会が気にいられる良い機会だろう。お前が星貴妃との間に子を作れば、このような茶番も終わる」
すでに食事を終えていた紘宇は立ち上がり、食堂を出て行く。
珊瑚は「はあ」と、物憂げな息を吐いた。
尚食部の女官と入れ替わりに入って来た紺々は、溜息を吐く珊瑚の顔を不思議そうに眺めていた。
◇◇◇
廊下を歩く珊瑚。あとに狸が続く。お留守番をさせようとしていたら、寂しそうに鳴いたので連れて来たのだ。
尚儀部へ移動する間、紺々が話しかけてくる。
「あの、失礼を承知でお聞きいたしますが、珊瑚様、何かご心配ごとでも?」
「えっと、どうしましょう。困り、ましたね」
紺々は珊瑚の異変を察知し、自らの部屋へと招いた。
「あの、こんこん」
「なんでしょう?」
狸も大丈夫かと聞く珊瑚。紺々は笑顔で引き入れた。
「時間、大丈夫、ですか?」
「はい、大丈夫です。余裕があるので、お茶をお出ししようと思っていたので」
「そう、でしたか」
紺々の部屋は紘宇の私室よりも大きかった。一部屋しかないので、寝所も兼ねているが。
床には絹の絨毯が敷かれ、美しい花模様が描かれている。
布団の上に掛けられているのは、羆の毛皮。高級品である。
精緻な蔓細工が成された卓子、漆の箪笥に、紫檀の椅子など、家具の一つ一つに品があり、贅が尽くされた品であることがわかる。
珊瑚は勧められた長椅子に腰掛けた。豊かな弾力のある座り心地に、内心驚く。
紺々は狸を抱き上げ、珊瑚の隣に座らせていた。
続いて、棚から陶器の茶飲みと瓶に入った果実汁が出される。
「すみません、ごちゃごちゃしていて。父が、いろいろ送ってくるので、このようなことに」
「そう、だったのですね」
紺々は困った顔で話す。
通常、後宮へ外部から品物を取り入れることは禁止されている。
しかし、紺々の父親があの手この手を使って届けてくれるのだと。
「私、ただでさえどんくさいのに、父がこういうことをしてくれるので、余計に嫌われてしまって」
「こんこん、どんくさく、ないですよ」
珊瑚は話す。
紺々は鷹揚――ゆったり振る舞う、大らかな人だと。
「私は、こんこん、あなたの存在に、救われています。いつも、ありがとう、ございます」
「いっ、いえ、そんな、私は、何も」
紺々は顔を真っ赤にして、ぶんぶんと顔を横に振る。なんとも微笑ましい、初心な反応である。
珊瑚はこの瞬間だけは憂い事を忘れ、心から笑みを浮かべた。
「それで、珊瑚様、お悩みをお聞きしても?」
「……」
「あ、あの、私なんぞに話しても、解決できないことでしょうか? 無理には、いいませんが、心配で……」
「いえ、こんこん。そんなことは、ないのです。こうして、聞いてくれることに、感謝をします、が――」
途中で言葉を切り、頬を染めて顔を俯させる。
「ま、まさか、汪内官になにかされたとか!?」
「いいえ、こーうは、まだ何もしていません!」
「まだ、ですか!?」
「まだ、です」
紺々は頭を抱え、顔色を悪くする。
「そんな……清廉潔白で品性方正、馬鹿真面目で女性嫌いの疑いがあるとも言われた汪内官が、珊瑚様の中性的な色気にやられたと!?」
「こんこん?」
早口で捲し立てる言葉は、何一つ聞き取れなかった。
紺々は「なんでもないです!」と言って、真っ赤になった頬を冷たい指先で冷やす。
「そ、それで、汪内官はなんと?」
「あの、仕事を、星貴妃との、子作りを、手伝ってくれと」
「なんと!」
衝撃のあまり、紺々は長椅子の空いている隙間に倒れ込む。
「紺々、こういう、共同作業? は、どうやって、するのですか?」
「わ、わたくしも存じません~~、もも、申し訳ないです~~」
「そう」
珊瑚は涙目の紺々に伝える。謝らないでくれと。
「多分、大丈夫です。こーうが、一対一で、簡単なことから、じっくり教えてくれると、言いました」
「そ、そんな。理性的かつ真面目そうな顔をして、とんでもなく性欲旺盛じゃないですかあ~」
「せい……ん?」
「なんでもないです。すみません、つい――ううっ!」
紺々は気の毒過ぎる珊瑚を思い、泣いていた。
「うっ、うっ、こ、子作りなんて、頑張って一人ですればいいのに、珊瑚様を巻き込むなんてっ!」
「紺々……」
珊瑚は紺々のいるほうへ回り込み、肩を抱いて流した涙を絹の手巾でそっと拭う。
「私は大丈夫です。泣かないで、ください」
「変態です。汪内官は、変態です……」
狸も紺々の元へやってきて、励ますようにすりすりと身を寄せる。
「私は、ここに連れてこられた以上、なんでもする決意でいました。ですが、慣れないことだったので、不安で……。それから、恥ずかしいなと」
「そう、ですよね」
「ありがとうございます。私の代わりに、泣いてくれて」
「いえ……」
紺々は手巾を受け取り、涙を拭う。
それから、すっと立ち上がって、棚の中からある物を取り出した。
卓子の上に木箱が置かれる。
中から出てきたのは、小さな小瓶とお香焚き。
「こんこん、これは?」
「父が異国より取り寄せた、催淫効果のある精油です」
花々の中の花と呼ばれる植物から精製された物で、媚薬としてひっそりと流通している。紺々は説明をした。
「こちらは気分を高揚させる作用がございます。負の感情を取り除き、性交時に、気分を盛り上げてくれるそうです」
床に入る際、羞恥心の高い女性はこの精油を焚いて、気分を誤魔化していたと話す。
「これならば、珊瑚様の不安を取り除くことができるかと」
「こんこん……」
「よろしかったら、どうぞ」
「いいの、ですか?」
「はい。私にできることといえば、これくらいしか――」
しかしなぜ、紺々はこのような物を持っているのか。
淡く微笑む様子を見ていたら、聞けなくなってしまった。
けれど、悪いことをするために、持っているとは思えない。
珊瑚は差し出されたお香焚きと精油を受け取る。
「こんこん、ありがとうございます」
珊瑚は笑顔でお礼を言った。
◇勘違い整理◇
紘宇→珊瑚のことは男だと勘違いしている。
紺々→珊瑚のことは女性だと知っている。なんらかの目的があり、男と偽って後宮へやって来たと勘違い。
珊瑚→紘宇から自分が男性に勘違いされていることに気付いていない。紺々が性別を偽らなければならないと思い込んでいることも、知らない状態。
さらに、紘宇のことは年下だと思っている。
狸→珊瑚のことはご主人様だと思っている。