番外編 珠珊瑚の幸せについて
紅華様の即位が決まったあと、私と紺々、たぬきは汪家の屋敷から、皇帝の宮殿へと移された。
皇帝が住まう宮殿は、とても立派な佇まいだった。
赤を基調とした建物に、金で花が描かれた豪奢な壁紙、ルビーの目が光る龍の置物など、皇帝の宮殿は牡丹宮以上に豪華絢爛で、目が眩みそう。
恐れ多いと思った私は紺々と二人、広い部屋で肩を寄せ合って過ごしていた。紅華様は、そんな宮殿の中でも威風堂々としている。さすが、王者の風格だ。
部屋には綺麗な服が山のように用意されていた。
不思議なことに、女性ものと男性ものが半々ある。すべて、私の寸法に合わせて作られていた。
紅華様の傍付きをする場合は男の服をまとい、休日は女の服をまとう。
紺々はどちらも似合っていると言ってくれたが、男物はともかくとして、女物が似合っているかは謎だ。
そんな中、私は紅華様に呼び出された。
本日は深い青に紺の帯を巻いた装いで、髪は三つ編みにして後頭部でまとめている。
男装のほうがいいかと思ったが、そのままでいいというので、女装姿で向かった。
女官が金の引き戸を左右から開く。その先に、龍が描かれた屏風を背に座る紅華様の姿があった。
「珊瑚、せっかくの休日に、すまなかったな」
「いえ」
紅華様はたぬきを膝に乗せ頭を撫でながら、話し始める。
「それで、お話とは?」
「一つ、提案なのだが──珠珊瑚よ、私のもとで、剣を握る気はないか?」
「そ、それは!?」
なんでも、私は絋宇と二人で、紅華様の護衛官を務めないかと誘われた。
「わ、私を、武官として迎えていただけるとは。とても、光栄なことです」
「お主と汪絋宇以上に、信用の置ける武の者はおらんからな」
「ありがとうございます!」
「喜んでおるが……いいのか?」
「いい、というのは?」
「お前と汪絋宇、代わる代わる護衛任務に就く。ということは、すれ違いになるぞ」
「そ、それは──」
今でさえ、絋宇に会えるのは一週間に一度あるかないかだ。
もしも、紅華様の傍付き武官となるならば、今以上に逢えないかもしれない。
しかし、こうして指名していただけることは、この上ないほど光栄なことだ。
きっと、絋宇も同じ思いに違いない。
「こーか様。私は、その任をお受けしようと思います」
私は、絋宇が元気で過ごしていると聞いただけで嬉しくなる。
だからきっと、大丈夫だろう。
「ふっ」
紅華様は淡く微笑み、口元を袖で隠した。
何か、おかしなことを言ってしまったのか。
「こーか様?」
「いや、すまぬ。お主と汪絋宇が、同じことを言ったものだから」
「こーうが、ですか?」
「そうだ。あやつも、お前が元気で暮らしているならば、それ以上に望むものはないと。お主ら二人は、熟年夫婦の域だな」
「あ……えっと、結婚は、していないのですが」
「照れる点はそこか」
「くうん」
紅華様の最後の呟きは聞こえなかったが、たぬきが代わりに返事をしてくれた。
「これから忙しくなるぞ」
「はい!」
「いいのだな?」
「もちろんです!」
紅華様は口元に弧を描く。自信に満ち溢れた、美しい微笑みだ。
「おい、あれを」
「かしこまりました」
女官に何かを命じ、受け取っていた。
そして、紅華様は私を手招く。
「なんでしょうか?」
「いいから、近う寄れ」
正面に座るのは恐れ多いので、斜め前に座る。すると、まっすぐ向かい合うように座れと怒られてしまった。
「こちらで、よろしいですか?」
「もっと近くだ」
「えっと、これくらい」
「まだまだ」
「……」
結局、紅華様の目の前まで接近することになった。
何をするのかと思いきや、紅華様は私の顎を掴み、唇に触れた。
「うむっ!」
「喋るな。大人しくしておれ」
何をしているのかと思いきや、指先で唇に何かを塗っているようだった。
手には、貝殻に入った口紅が握られている。
「お主は、紅を塗らないだろう? だから、私が塗ってやっておるのだ。なぜ、塗らぬ?」
「そ、それは……」
真っ赤な口紅は、女性の美しさの象徴で、私には似合わない気がしていた。
だから、身支度を手伝ってくれる紺々にも塗らなくていいと言っていたのだ。
「そういうことだと思っていたぞ。これからは、この口紅を塗れ」
「し、しかし」
狼狽えていると、紅華様がぐっと近づき、耳元で囁いた。
「口紅を塗ったお主は、とても美しい」
顔から火が出そうなほど、熱くなった。
どういう反応を示していいかわからない間に、手のひらに口紅の貝殻を置かれてしまう。
「いいか? これから、女の恰好をする時は、それを塗るんだ。命令だぞ」
「う……はい。ありがとうございます」
頭を上げて下がろうとしていたが、肩を掴まれる。
「おい、話は終わりではないぞ」
「はい?」
「中庭で、汪絋宇を待たせている。今すぐ行け」
「え!?」
絋宇とは半月会っていなかった。
今日、会えるらしい。
嬉しさと、恥ずかしさが同時にこみあげる。
「ずっと待たせておるから、怒っているかもしれぬが」
紅華様は私の背をそっと押してくれる。
一度深く礼をしてから、部屋を辞した。
◇◇◇
早足で廊下を進む。
胸がドキドキして、落ち着かない。
だって、絋宇に会えるのだ。逸る気持ちを抑えつつ、廊下を進んでいった。
絋宇は──いた!
背中を向けているけれど、佇まいでわかる。
満開の桃の花を、見上げているようだった。
「こーう!!」
声をかけると、すぐに振り向いた。
目が合うと、絋宇は目を細める。優しげな笑顔を向けてくれたので、胸がさらに高鳴った。
走って行ったら、絋宇のもとへたどり着く寸前で裾を踏んでしまった。
体が傾いたので受け身の体勢を取ろうとしていたが──かっしりと力強い腕が体を支えてくれた。
「お前な、その恰好で走るのは無謀だ」
「ご、ごめんなさい。嬉しくって、つい」
そう答えると、絋宇は私の体を引き寄せ、抱きしめてくれた。
「仕事が忙しく、会えなかった。すまない」
「いいえ。私は、活き活きと仕事をする絋宇が好きなので」
そう答えると、さらに腕の力がこもる。
風が吹き、中庭の中心に生えていた桃の花がひらひらと散る。
それは、絵画のように美しい光景であった。
「ここは人の目がある。別の場所へ移動しよう」
囁かれた言葉に、私は頷いた。
◇◇◇
絋宇も私や紺々同様、宮殿の一室を与えられたらしい。
驚いたことに、そこは私の部屋の隣だった。
「こーう、お隣さんだったのですね」
「みたいだな。私も、今日初めてきたのだが」
三日前に荷物が運び込まれていたので、誰かが来るなとは思っていた。しかし、それが絋宇だったなんて。
向かい合って座り、紺々が淹れてくれたお茶を飲む。
紺々は気を遣ったようで、部屋から出て行った。
「護衛武官の、話は聞いたか?」
「はい」
「お前は、なんと?」
「こーうと同じことを言ったみたいです」
「そうだったか」
絋宇は私へ手を伸ばし、頬を撫でてくれる。
「これから、忙しくなる」
「こーか様も、おっしゃっていました」
「最初が肝心だからな」
「はい」
「それでだ」
絋宇が頬を撫でる間目を閉じていたが、手が止まったので瞼を開く。
「私は、お前との確固たる絆を、結びたい」
「!」
それは、いったいどういう意味なのか?
絋宇の手は、私の指先へと伸びる。
大事なものを手に取るようにそっと掬われ、口付けされた。
驚きすぎて、声をあげそうになる。
目を泳がせていると、絋宇は腕を私の腰回し、一気に引き寄せた。
恥ずかしくなって、絋宇を見ることができない。顔を明後日の方向へと逸らしてしまう。
しかし、絋宇は私の顎を指先で掴むと、上にあげさせた。
至近距離に絋宇の目があって、吸い込まれそうになる。
そんな中で、絋宇は想像もしていなかったことを言ってくれた。
「珊瑚、私と結婚してくれ」
ぽかんと空いた口は、絋宇の唇によって塞がれた。
その刹那、肌が粟立つ。
初めての口付けではなかったが、何度しても慣れることはない。
体が熱くなって、くらくらして、酩酊状態のようになる。
これ以上この状態でいたら、体がぐにゃぐにゃになってしまう。
その前に、違う部分で限界が訪れようとしていた。
「う、むむぅ~~」
息ができなくなって声をあげると、絋宇の唇は離される。
「なんだ?」
「い、息が、できなくって」
「鼻でしろ」
「そ、そうでした」
絋宇は親指で自らの唇を拭う。
私の口紅が、付いていたのだ。
先ほど紅華様に塗ってもらったことを思いだし、盛大に照れてしまう。
「それで──」
「それで?」
「さっき、お前に言っただろうが。私と結婚しろと」
「あ、ああ!」
私は居住まいを正し、背筋を伸ばして返事をした。
「すごく、嬉しいです。ですので、私を、こーうの奥さんに、してください!」
そう答えると、絋宇は私の手を握り、笑顔を浮かべる。
私も負けないくらいの笑顔を返した。
──こうして、私は絋宇の妻となった。
絋宇のお兄さんに反対されるかもと思ったが、「好きにせい」と言われるだけだった。
紅華様は盛大に祝福をしてくれた。
紺々にたぬき、麗美さんも、喜んでくれた。
これ以上、幸せな結婚はないだろう。
二年後には、子宝にも恵まれる。
ちょうど、麗美さんの子どもも生まれたので、紺々と二人で乳母を任せることになった。
……麗美さんの結婚相手はかなり意外だったけれど、幸せそうだからよしとする。
処刑されそうになるところから始まった華烈での生活だった。当時はどうなるものかと、不安でいっぱいだった。
しかし、人生とはわからないもので──私は幸せに暮らしている。
私は絋宇や家族、友人達と共に満たされた毎日を過ごしていた。