百十五話 混乱状態の中で
誰もかれもがポカンとしていた。
それも無理はない。殺されたはずのメリクル王子が生存し、いきなり戦争をする必要はないと言われてしまったのだから。
絋宇も騎士達同様に、戸惑っているようだった。
「珊瑚、いったいどういうことなのか? というか、今目の前にお前がいること自体、信じがたいことなのだが」
夢でも見ているのかと呟く絋宇に、珊瑚は近寄って頬に触れる。
「夢ではないですよ」
「珊瑚……」
「こーう、ずっと会いたかっ──」
珊瑚は信じられないものを目にする。
絋宇の背後で、弓を引く騎士の姿を捉えてしまったのだ。
気づいた時には、矢は射られていた。
「ごめんなさい!」
珊瑚はそう言って、絋宇の肩を思いっきり突き飛ばした。
弧を描いで飛んできた矢は、そのまま珊瑚の胸に刺さる。
矢が飛んできた勢いのまま、珊瑚は背中から倒れた。
「珊瑚!!」
絋宇はすぐに起き上がり、顔面蒼白の状態で珊瑚のもとへと素早く駆け寄った。
この場で無理に矢を抜くと、鏃が患部の肉を巻き込む上に出血も酷くなる。
だから絋宇は、傷口の心臓側を布で縛ろうと、珊瑚の胸元を寛がす。
珊瑚が胸に矢を受けてから、ここまでの行動は十秒とかからなかった。
たった一秒で、人の命は儚く散る。
絋宇はそれを知っていたので、動くことができたのだ。
そんな人命救助の手を、珊瑚が止める。
「おい、何をする!?」
「こーう、ダメです」
「何がダメなんだ!?」
絋宇は自らの服の袖を噛み、一気に引き裂いた。これを、包帯代わりに使うのだ。
しかし、珊瑚は首を左右に振って、治療を拒否する。
「あ、あの、私、私は──」
「いいから大人しくしていろ!」
胸元を探り、矢の位置を確認しようとした。
その刹那、何か柔らかいものをむんずと掴んでしまった。
珊瑚が声をあげる。
「ああ……」
それは、絶望の混じった吐息のようだった。
「な、なんだ、これは……?」
自分の手の感覚が信じられず、再度手を揉んだ。
それは、ほどよい弾力のある、男にあるはずのない柔らかな部位である。
絋宇は目を見開き、絶句する。
そんな彼に、珊瑚は蚊の鳴くような声で言った。
「こーう、私は……………………女、なのです」
「いや、そんなことはどうでもいい。早く治療を」
「大丈夫です。矢は、刺さっていません」
珊瑚は矢を胸から引き抜き、震える手で胸を掴む絋宇の手を退ける。
そして、懐からあるものを取り出した。
顔の半分を覆う形の、たぬきの仮面である。
仮面にはヒビが入っていて、これが矢を受け止めたために、珊瑚は無傷だったのだ。
絋宇は目を丸くし、珊瑚を凝視する。
「こーう?」
「……け、怪我は、ないと?」
「ないです」
「それで、他にも何か言っているような気がしたが」
どうやら、絋宇に珊瑚が女であると言った言葉は聞こえていなかったようだ。
珊瑚は起き上がり、一度頭を下げてから再度告白する。
「騙していて、ごめんなさい。こーう、私は、女なのです」
「嘘……だろう? お前が、女のはずは」
「先ほど、私の胸を触りましたよね?」
絋宇は自らの手を見て、カッと顔を赤くする。
「た、たしかに、お前の胸は、柔らかかったが、男も、肉付きの良い奴は、柔らかいと聞く」
「私が、そのような体型に見えますか?」
「……」
珊瑚は細身だ。胸だけに肉が付いていることは、ありえない。
女性ではない限りは。
「どうすれば、信じてくれますか?」
「……」
絋宇は周囲を見る。つられて、珊瑚も辺りを見回した。騎士達が、怪我はないのかと伺うように珊瑚を見ていた。
矢を放った騎士はすでに捕らわれ、連行されている。
気を利かせてくれたのか、レノン隊長が騎士達をこの場から下がらせた。
思いがけず、珊瑚と絋宇は二人きりとなる。
その瞬間、ハッと我に返った絋宇は、珊瑚を力いっぱい抱きしめた。
「珊瑚、無事でよかった……!」
「はい。たぬきが、守ってくれたようです」
「ああ、そうだな。というか、あの仮面は?」
「セイ貴妃様の知り合いの人形職人が作った仮面です」
材料は謎だが、一見して陶器のように見える。薄い上に、軽くて頑丈。
そのおかげで、鏃は胸に到達しなかったのだ。
「しかし、私を庇うような真似は、二度とするな。もしも、私が遺された身になってしまったら、どうするつもりだったのか?」
「ごめんなさい」
もうしないと、ここで誓いを立てる。
ここで、珊瑚は女であることをしっかり伝えなければと思った。
このままあやふやにはできない。
珊瑚は勇気を出して、真実を口にした。
「こーう、あの、私は、女で……」
言葉を続けようとすると、絋宇は珊瑚の前に手を出して制する。
これ以上、話すなといいたいのだろう。
やはり、女である珊瑚は愛せないというのか。そう思って肩を落としていたが──違った。
「まだ私は、いろいろありすぎて混乱状態にある」
「す、すみません」
いきなり珊瑚が現れ、救助されたあと絋宇を巡って決闘が起き、メリクル王子の登場によって終戦が知らされる。
その後、珊瑚が矢で射られ、倒れてしまった。
奇跡的に怪我はなく無傷だったが、男だと信じて疑わなかった珊瑚の胸を鷲掴みしてしまった。
目が回るほどの騒動の羅列である。
「だから、正直、今は何が何だかという感じで、いまいち現実味がない」
「はい」
「しかし、わかっていることはある」
絋宇はじっと、珊瑚の目を見つめながら言った。
「私はお前のことを男だからとか、女だからとか、そういう理由で好きになったわけではない。人として魅力的だったから、強く惹かれたのだ」
「こーう!」
珊瑚は絋宇に飛びかかるように抱き着いた。
「うわっ!」
あっさりと、絋宇は押し倒されてしまう。
「こーう、私は、嬉しいです」
「お前は興奮した大型犬か!」
「ごめんなさい」
「謝るな」
絋宇は寝転がったまま珊瑚の身を抱き寄せ、頬に手を当てる。
「私は、あまり口は上手くない。だから──行動で示す」
そう言って、絋宇は珊瑚に口付けをした。