十一話 珊瑚、犬を拾う
「お顔を、よおく見せてくださいな」
「まあ、珍しい金色の御髪」
「美しいですわ」
女官の持つ扇で、やんわりと顎を持ち上げられる。珊瑚はされるがままだった。
「まあ、なんてイイ男子ですの?」
「こんな綺麗な瞳、見たことありませんわ」
「汪家のご当主は、竜の宝玉を発見されたのね」
女官らが早口で捲し立てる言葉がわからず、珊瑚は首を傾げる。
「珠宮官は、どんなことを嗜んでいらっしゃるの?」
「七弦琴? それとも、瑟や二胡かしら?」
「囲碁、書道、絵画、いろいろありますけれど?」
頭の上に疑問符を浮かべる珊瑚に、紺々が解説をする。
「最初の三つは楽器の呼び名です。七弦琴は七本の弦があります。瑟は二十五本で、二胡は二本。囲碁は盤上遊戯で、書道は筆で文字を書きます。絵画はそのまま、絵を描くことです。どれも、貴人の心を慰める物なのです」
「なるほど」
紺々が身振り手振りで説明する、華烈女性の嗜みを手帳に書き移していった。
「残念ですが、私は、どれも……」
ピアノとヴァイオリンは貴族の子どもらしく嗜んでいたが、この国にはないと言われてしまった。
「あら、残念ですわ」
「雅会で発表するものがないなんて」
「お言葉を覚えたら、何か楽器を習ってみてはいかがです?」
「ガカイ?」
雅会とは言葉の通り、女官らが雅な出し物をして、後宮に住まう妃嬪を楽しませる催しのことである。月に二、三度開催されるのだ。
「けれど、星貴妃様は賑やかなことはお嫌いで」
「開催は月に一度、あるかないか」
「花札が欲しいので、もっと開催してほしいですわ」
またもや、未知の単語が出てくる。花札とは、いったい。
ここでも、紺々がそっと耳打ちして教えてくれる。
「珊瑚様、花札とは妃嬪様から女官へ下賜されるお札です。雅会で楽器の演奏や踊りなどをして、妃嬪様を楽しませることができた女官のみ、賜ることができる品なのです」
「ふむふむ」
珊瑚は花札と聞き、花が描かれたお札を思い浮かべる。
それをもらったら嬉しいのかと女官らに聞けば、コクコクと頷いていた。
「花札は素敵な物なのです」
「なんと、外部より好きな物がお取り寄せできるのですよ」
「お菓子に服、楽器など、なんでも許されておりますの」
「なるほど。理解」
珊瑚は雅会で発表できることがないことになるのだ。
特に欲しい品などもなかったので、特に何も思わなかったが。
「――あ」
欲しい物と思い浮かべ、ある品が思い浮かぶ。
没収された、メリクル王子より賜った剣。あれも、花札で取り戻すことができるのかと。
「珊瑚様、どうかしましたか?」
紺々の質問に首を横に振る。
今この瞬間、後宮での目的ができた。珊瑚は居住まいを正し、三人の女官に頭を下げる。
「これから、よろしく、お願い、デス」
「あらあら」
「まあまあ」
「発音、喋り、仕草、すべてがなっていませんわ」
尚儀部の女官の目がキラリと光る。
なぜか寒気を感じ、額には汗が浮かぶ珊瑚。
「ではまず、正しい発音ができるか頑張ってみましょう」
「これができれば、お喋りに苦労しないでしょう」
「大丈夫ですよ。最初からできる者などおりませんから」
女官らは口角を上げ、笑顔を浮かべているはずなのに、目が笑っていない。
扇を握り、手にぽんぽんと叩き付ける様子は、恐怖を覚える仕草だった。
嫌な予感しかしない珊瑚。
辛く厳しい、言語修業の始まりだった。
◇◇◇
「顎、痛い……」
思わず、独りごちた。
容赦ない指導だった。何度、発音に失敗して、手の甲を扇で叩かれたか。
ぐったりした状態で、珊瑚は私室まで繋がる廊下を歩く。尚儀部での行儀見習いは、想像を絶するものだったのだ。
剣を揮い、高めていた騎士の時代とは何もかもが違っていた。珊瑚は一時間で悲鳴を上げた。
その理由は、華烈独自の座り方にある。
普段、珊瑚は椅子に座って作業など行う。けれど、ここの国の者は膝を曲げて、膝下から足の甲をぴったりと床につける座り方をするのだ。
涙が出そうなほどに辛く、何度も休ませてくれと女官らに懇願した。けれど彼女らは、きちんとした発音ができるまでと言って、許してはくれなかったのだ。
おかげさまで、発音や言葉の運び方は、ぐっと上達したような気がする。
やっと終わった。渡り廊下で、空に浮かぶ銀色の月を見上げながらしみじみ思う。
紺々は他の部署の者に呼び出され、帰り道は珊瑚一人だった。呼びに行こうかと、尚儀部の女官が言ってきたが、断った。私室までの道のりはきちんと記憶している。
ぼんやりと月を眺めていたが、池のほとりにある草むらより何かの気配を感じてハッとなった。
しっかりと柱を握って、身を乗り出して庭を覗き込む。
ガサリと、草をかきわけるような音がした。
もしや間諜か。そう思って腰に手を添えたが、いつも剣があるところには何もなかった。
武器の類は没収されたのだと、今になって気付く。
だが、近接戦闘にもそこそこ自信があったので、珊瑚は橋のようになっている渡り廊下から庭に下り立った。
草木をかき分け、音がしたほうへと近付く.
――くうん、くうん
動物の鳴き声がした。
眉間に皺を寄せながら、近付いていく。
「誰か、いるのか?」
殺気は感じない。胸騒ぎも起きていなかった。
猫か犬がいるのか。
草の隙間より顔を覗き込んだ。そこにいたのは――
「…………犬、ですか?」
犬は上目遣いで珊瑚を見上げる。
耳は丸く、茶色の毛に、目元は黒い毛が生えていた。尻尾はふんわりしている。寸法はそこまで大きくない。小型犬だろうと珊瑚は思う。
しかしなぜ、こんなところに犬が?
怯えたり逃げたりする様子もなく、ただじっと、珊瑚を潤んだ目で見上げていたのだ。
目が合い、手を差し出せば、ちまちまと近づく犬。
牙を剥く様子もないので、飼い犬だと決めつけていた。
茶色い小型犬は珊瑚の手の平に、ぽんと前足を置く。
「もしや、お手ができるのか?」
返事をするように、犬は「くうん」と鳴いた。
「お手」
たしっと、前足を珊瑚の手の平に乗せる犬。
「とても、賢いですね……」
残念ながらご褒美用のお菓子など持っていなかった。なので、代わりに大袈裟に褒め、頭を撫でる。
それだけだったが、犬は尻尾を振って喜んでいた。
もしかしたら、星貴妃の犬かもしれない。そう思って、珊瑚は犬を抱き上げた。
獣臭さはほとんどない。毛はふさふさで、綺麗に櫛が通っているように見える。
やはり、これは飼い犬だと、確信した。
不安そうに「くうん」と鳴く犬。
励ますように、珊瑚は背中を優しく撫でたのだった。
◇◇◇
「――ただいま、戻りました」
覚えたての言葉で、紘宇と共に使っている私室に入った。
扉と繋がった居間にはおらず、寝室を覗き込むが不在。
「こんな時間から、寝ているわけないだろうが」
背後を振り返れば、執務室の扉から紘宇はでてきた。
「こーう――」
「なんだ、それは!?」
珊瑚が連れて来た犬を見て、目を剥く紘宇。
庭に迷い込んでいた旨を説明した。
「いや、星貴妃は犬を飼っていない」
「では、他の、妃嬪様です?」
「犬猫を飼っていた話は、今まで聞いたこと――いや、すまん。私も牡丹宮以外の内事情は詳しくない」
「なるほど」
不安そうに珊瑚を見上げる犬。ご主人のもとに帰れなくて、悲しんでいるように見えた。
「あの、こーう」
「なんだ」
「お願いが、あります」
犬を胸に抱き、神妙な顔で願う珊瑚。
一方で、紘宇は訝しげな視線を向けていた。
「あの、この犬を、ご主人様が現われるまで、預かっても、よろしいでしょうか?」
「尚儀部に行って、ちょっとは喋りがまともになったと思えば、今度は別の問題を持ってくるとはな」
「ごめん、なさい」
しかし、一度拾った以上、放っておくこともできなかったのだ。
「こーう、お願いいたします。犬を、救って、ください」
紘宇は盛大な溜息を吐き、眉間の皺を揉んで解す。
「そもそもだ――」
「はい?」
「それは犬じゃなくて、狸!」
珊瑚の祖国には生息していなかった生きもの、狸。
紘宇の指摘に、首を傾げる珊瑚であった。