百話 旅だちの日
珊瑚は紺々とたぬきと別れ、牡丹宮をあとにする。周囲を警戒しながら、宮廷の敷地内から脱出する。
大通りに出たら、商人に扮した閹官が珊瑚に馬を手渡す。
珊瑚は馬の手綱を引き、大正門のほうへと向かった。
街の様子は変わりつつある。
悪政を強いる役人がぐっと減ったからか、賑わいを取り戻していた。
道行く人々の表情も、いくぶんか明るい。
市場にも、まともに品物が並ぶようになる。
まだ、流通は完全に回復していないのだろう。物価は高めだ。買い物客はまけるように言い、商人は困った表情を浮かべていた。
大通りを抜け、兵部が行う検閲の列にぎょっとする。長蛇のように並ぶ、人々の姿があったのだ。
これは、三時間くらい並ぶのを覚悟しなければならない。
そんなことを考えていたら、背後より声をかけられる。
「旦那様、そこの、馬を引いている、男前の旦那様!」
珊瑚は旦那様ではないが、華烈の者からしたら男に見えている可能性があった。
男前という言葉には該当しないのではと思ったが、振り向かざるをえない。
なぜかといったら、かけられた声の主を知っていたから。
珊瑚が振り向くと――男装姿の星貴妃がいた。
「やはり、あなたでしたか」
「ああ、そうだとも」
一人で来たわけではなく、閹官の護衛が数名ついていたらしい。珊瑚と目が合った、護衛役の閹官は散り散りとなる。
星貴妃は珊瑚の前にずんずんと歩いてきて、背負っていた細長い包みを差し出した。
「これは?」
「お主の大事な剣だ」
「あ!」
「忘れておっただろう」
「いえ……」
一度、宝剣は証拠品として汪永訣が持ち帰ってしまったのだ。
それを、星貴妃がすぐに取り返してくれたらしい。
「あ、ありがとうございます」
珊瑚は感極まり、涙目で宝剣に手を伸ばしたが――星貴妃の剣を持つ手はすぐに引っ込んだ。
「あ、あれ?」
「この剣は、私が持ち歩く」
「も、持ち歩く?」
「お主は、私がやった三日月刀があるだろう?」
「え、ええ、そうですが……持ち歩くというのはどういう意味なのかと」
「そのままの意味だ。それに、お主も剣を二本も持っていたら、動きにくいだろう?」
その物言いは、まるで星貴妃が珊瑚の旅についてくると言っているようなものである。
恐る恐る、珊瑚は星貴妃に問いかけた。
「あの、妃嬪様」
「ここでは、紅と呼べ」
「紅様」
「紅と、呼び捨てでいい」
「では、紅」
すうっと息を大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
意を決し、疑問を口にした。
「もしかして、私の旅についてくるつもりですか?」
「もちろんだ。言っただろう? 別れの言葉は不要だと」
出発前、星貴妃は珊瑚に出発前の挨拶はいらないと言っていたのだ。
それは、一刻も早く出発せよという命令かと思っていたが――違ったようだ。
「あの、紅、私が今から向かうところは――」
「戦場なのだろう? わかっておる」
「とても、危険な場所です」
「言われずとも、理解しておるぞ」
星貴妃はまっすぐな目で珊瑚を見ながら言った。
「私は、さまざまなものを、見て学びたい。これから先、そんなことも叶わないだろうから」
未来のために、見聞を広げたいという。
星貴妃は揺るがない。珊瑚がいくら引き留めても、ついてくるだろう。
だったら、折れて条件を提示したほうがいい。
珊瑚は、旅立つ前に約束を交わす。
「では、紅。三つ、約束をしてください」
「なんだ?」
「まず、危険が迫っていたら、逃げること。二つ目は、私に危険が迫っても、絶対に助けないこと。三つ目は、何を見ても、何があっても誰も恨まないこと」
星貴妃は顔を顰めたが、最終的には従うと約束してくれた。
珊瑚と星貴妃は、出立の列に加わる。ここで、身分とおかしな物を持ち出していないか調べるのだ。
「紅、その剣は大丈夫ですか?」
「心配するな。今日の門番は、以前お主が助けた者だ。話は通っておる」
「さ、さすがです」
想像していたよりも早く、列は進んでいく。一時間ほどで、検閲をする兵士たちが待つところにたどり着くことができた。
珊瑚と星貴妃の荷物は、きちんと調べるような仕草を取る。怪しい宝剣は、素早く包みが広げられたあと、すぐに包みなおされた。
「問題なしだ。通れ」
「お、お疲れ様です」
「ご苦労だった」
珊瑚と星貴妃は、あっさりと都を出る。
二人で馬に跨り、港町へと移動する。一時間ほど走らせたあと、馬を休ませるために湖のほとりに止まった。
星貴妃は竹筒に入れていた水をごくごくと飲み干している。
「そんな物まで持参していたのですね」
「ああ、そうだ。生水は腹を壊すからな」
「ええ、まあ」
硬い決意と共に牡丹宮を飛び出してきたのに、想定外の旅の仲間を得てしまった。
緊張感はどこかえ消え失せ、いつも通りの雰囲気となっている。
「次は、私が手綱を握る。お前は前に座れ」
「私が前に、ですか?」
「なんだったら、お姫様みたいに、横座りをしてもいいぞ」
「そ、それは、ご遠慮します」
その後、星貴妃は本当に手綱を握り、馬を駆った。見事な馬術だった。
珊瑚は思う。
星貴妃は屋敷の中にいるよりも、こうして外にいるほうが輝くのだと。
旅に同行すると言って戸惑ったが、今はよかったと思っている。