十話 尚儀部にて
紘宇は窓から差し込む陽の光で目を覚ます。
身じろぐと動きにくさを覚え、眉間に皺を寄せた。
服を探ったら、なぜか帯が巻かれている。
寝間着の深衣は紐で結ぶだけだ。帯で締め上げるような形は存在しない。
ならばなぜ?
そう思って起き上がると、仕事着で眠っていたことに気付いた。
「いったい、どうして……?」
頭の中の疑問が思わず口から出てくる。
さらりと髪が流れていることにも気付いた。いつの間にか、しっかり結んでいた髪型が解けている。
自分でした記憶などまったくなかった。
紘宇は昨晩のできごとを、順を追って思い出す。
尚書省の吏部で働く兄永訣に火急の知らせだと後宮の外に呼び出されると、異国の男を押し付けられてしまった。
名前は珠珊瑚。これは華烈風の名前で、本名は不明。
すらりと背が高く、金色の美しい髪に切れ長の青目を持つ美しい男だった。
宮官として従えるように言われた瞬間、兄の思惑に紘宇は気付いた。
現在、後宮に仕える内官は総じて四夫人の陥落に苦戦していた。
国中の美しい男を集めても、四夫人の心を動かす者はなかなか現れなかったのである。
紘宇の兄永訣は、この異国の男に星貴妃を誘惑させようと、目論んでいるのだと推測していた。
けれど、それも無駄なのではと考える。
なんと言っても、相手は氷のように心を閉ざした女性、星貴妃だ。
いくら、見目麗しい異国人、珠珊瑚でも、無理だろうと考える。
馬車で移動する間、兄に頼まれていた後宮の説明をした。
残念なことに、珊瑚は華烈の言葉を半分ほどしか理解していなかった。こんな者が、貴妃の誘惑などできるわけがない。紘宇は眉間の皺を指先で解す。
けれど、幸いにも珊瑚は品があり、育ちの良い青年だった。これからば、言語をどうにかすれば使えるだろうと、紘宇も前向きな気分となる。
そのためには、尚儀の者を中心に、しっかりと教育しなければ。
夜、食事の礼儀を叩き込む。
珊瑚は真面目に取り組んでいた。
女性が好きそうな甘い容姿をしていたが、それを鼻にかける様子もなく、性格は馬鹿真面目。そんな印象があった。
年の割に老けて見えたが、ふんわりと微笑めば年相応に見える、ような気がした。
その日は気分が落ち着かなくて、珍しく酒を飲んだ。それが間違いだったのだ。
恐らく、自分は酔いつぶれ、机で眠ってしまったのだろうと予測する。
そして、珊瑚が寝台へ運んでくれた。
そこで、紘宇はハッとなる。
隣の寝台はもぬけの殻だったのだ。
慌てて起き上り、乱れていた衣服を綺麗に整える。髪は軽く三つ編みにして、寝室を飛び出した。
「こーう、おはよう」
居間には、にっこりと微笑む珊瑚の姿があった。
◇◇◇
朝から紘宇は不機嫌だった。珊瑚は理由など思い当たらないので、首を傾げている。
どうしたのかと聞いても、「うるさい!」と一蹴されるばかりだった。
メリクル王子も紘宇のように突然不機嫌になることがあった。主に珊瑚が原因で。
どこが悪いのかと聞いても、答えてくれない。一生懸命考えてもわからなかった。
自分には相手を、理由もなく不快にさせる才能があるのだと思うしかない。
今日もきっとそうだったのだろうと、心の中で反省していた。
そうこう過ごしているうちに、朝食の時間となる。
紘宇と共に食堂に移動した。
円卓にはすでに料理が並べられている。
粥ではなく、細長いパンのような物とスープだった。
「こーう、これ、パン?」
「違う。揚油条という、小麦を発酵させて揚げた物だ」
「へえ」
祖国のパンに似た物を発見し、珊瑚は嬉しくなる。
まずは紘宇の食べ方を観察。
豆乳の入った白いスープに浸して食べていた。珊瑚も真似をする。
揚油条は、外はさっくり、中はふわふわだった。
スープを浸せば、生地の甘さが引き立つ。
食べ終わったら、今度は真っ赤なスープに麺が入っている料理が運ばれた。
箸を使い、苦戦しながらも食べきる。
ぴりっと辛味が効いていて、体がポカポカとなった。
最後は芋の入った甘いお粥。辛い物を食べたあとだったので、じんわりを身に沁みるような優しい味わいだった。
満腹になったところで、一日の予定を聞かされる。
「まず、今のままでは、貴妃に会わせるわけにはいかない」
「はい」
「昨日も言ったが、尚儀部で礼儀を覚え、楽器の一つでも演奏できるようにならんと、とても見られたものではないだろう」
まずは、言葉遣いをどうにかしろ。これが、珊瑚に突きつけられた課題である。
「その顔は、ピンときていないな?」
「待って、クダサイ、も、一度」
言葉が通じない様子にイラついていた紘宇は、傍に控えていた紺々に早口で説明する。
「おい、女官。あいつが理解するまで根気強く伝えておけ」
「は、はい、承知いたしました」
ここで、紘宇と珊瑚は別れることになる。
紘宇は大量の書類仕事が待っていた。
珊瑚は尚儀部に行き、礼儀作法を学ばなければならない。
「いいか、あんまりにもぐだぐだしているようならば、私がお前に叩き込む。容赦はしない。覚えておけ」
「……?」
早口で捲し立てられる言葉に、珊瑚はポカンとなった。
紘宇も伝わっていないことに気付いたのか、顔を歪めた。けれど、何を言っても無駄だと思い、そのまま踵を返していなくなる。
珊瑚と紺々は食堂に、ポツネンと取り残される。
「あの、こーう、さっき、なんて、言った、デス?」
「えっとですね、わからないことがあったら、教えてくれる、と。た、多分」
「そうデスか。こーう、良い人」
珊瑚の好意的な感想に、苦笑いを浮かべる紺々であった。
◇◇◇
尚儀部は後宮の角部屋にある。
紺々は研修時代を思い出し、顔が強張っていた。
「大丈夫?」
「えっと、はい……」
尚儀部には、牡丹宮最高齢の女官がいるのだ。
「そのお方が、もう、凄くお厳しくて、なんど泣いたことか……」
「怖い、女官?」
「はい」
ほどなくして、尚儀部に到着する。
紺々は扉の外から声をかけた。
「す、すみません、お約束をしていました、翼です!」
一拍置いて、返事が帰って来る。
「――入られよ」
「は、はい! ありがとうございます!」
珊瑚よりも、傍付きの紺々のほうが緊張していた。
安心させようと背を撫で、微笑みかける。
「すみません、珊瑚様。ありがとうございます」
紺々の表情が和らいだので、珊瑚は戸を開いた。
「なりません!!」
部屋に顔を出したところで、突然怒られる。
目の前に佇むのは、吊り上がった目をした女性。
黒い髪を頭の上で輪を作るように結い上げられ、牡丹の美しい櫛が挿されている。
上位女官なのか、色の濃い、青の華服をまとっていた。
そんな女性が、じろりと珊瑚を睨みつける。
「扉を開くのは下々の者の仕事です。あなた、どういうつもりですか?」
「え?」
「わあ、すみませんでしたあ~~!! 悪いのはぼんやりしていた私ですう~~!!」
「翼紺々、またお前か」
「はい~~」
珊瑚と紺々は部屋に並んで正座をさせられていた。華烈風の反省の姿勢だと教わる。
「後宮で暮らす者は、一挙一動に気を付けなければなりません。言葉遣い、しぐさ、気遣いなど」
説教するのは、尚儀部の女官長李榛名。齢四十。礼儀作法の鬼と呼ばれる存在であった。
「けれど、礼儀云々の前に、珠宮官はその喋りをどうにかしなければなりませんね」
李女官長は手をパンパンと叩いた。
奥の部屋から、三人の女性がやって来る。年頃は紺々と同じくらい。
青い華服を身にまとい、漆黒の髪をお団子状に結って、薄紅牡丹の櫛で留めていた。
狐のように細い目を、さらに細めて微笑んでいる。
三人共、同じ顔だったので、珊瑚は瞠目していた。
「伶奈、香林、吏恵、珠宮官に美しい言葉遣いを伝授しなさい」
「はあい」
「了解」
「わかりました」
李女官長は三人の紹介をする。
「沿家の三つ子です。左から、伶奈、香林、吏恵。この三人から、言葉遣いを習ってください」
突然の課題に、珊瑚は頷くしかできなかった。